社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田信安の敵対~信長大良より御帰陣の事(1556年)

2023年6月17日土曜日

織田信安の敵対~信長大良より御帰陣の事(1556年)

 長良川の戦い織田信長

頼れる同盟相手、斎藤道三を失います。

これは美濃(岐阜県南部)がすべて敵に回ることを意味していました。

ここから織田信長の再びの苦難が始まります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


岩倉織田家の敵対

織田信長は斎藤道三の苦境を黙ってみているはずもなく、

長良川の決戦に臨む道三に合わせて、木曽川・飛騨川を渡り、茜部方面に進む途中で大良(羽島市大浦?)に陣を敷きました。

そしてこの場所でめったにない、不思議なことが起こりました😦

陣を作るために屋敷の堀や垣根のあるところを掘っていると、

「銭亀爰もかしこも銭を布きたるごとくなり」

…次々と銭の入った甕がたくさん出土し、あたり一面に銭を敷いたかのようになったというのです(◎_◎;)

しかしこれは別の解釈もあって、「銭亀(ニホンイシガメの子ども)」が大量に地中から出てきて、堀や垣根のところに出て来たので、あたり一面に銭を敷いたかのようになった…というものです。

『太閤さま軍記のうち』では「ぜにがめ」とあり、

『信長公記』では「銭亀」とあります。

一方で、江戸中期の『太田牛一雑記』には「銭をつながせ御覧候」という言葉が追加されています。

銭亀だとつなげることは無理なんですが、江戸時代途中から、銭亀が銭の入った甕だと理解が変化していった、ということなのでしょうか…??

驚きの具合が強いのは亀の方ですよね。

『太閤さま軍記のうち』には、

堀だけでなく、生垣にも多数の「ぜにがめ」が地中から出て来た…と記述がありますが、

銭の甕だと、生垣から出るっていうのは不自然だと思うんですよね(;^_^A

…ということは「銭亀」、亀が正しいのではないかと(゜-゜)

さらに、なぜこの話を記録する必要があったのか、というと、

どうやら銭亀が湧くというのは、当時は悪いことが起きる前触れだと思われていたようなんですね。

(銭亀が湧くのが凶兆というのは調べても「戦国女士blog」さんにしか載っておらず、出典も明記されていなかったので、本当かどうかはわかりませんが💦)

つまり、銭亀登場=道三救援失敗、をつなげている、ということなんでしょうね…。

さて、長良川の戦いで道三に勝利した斎藤范可(のちの義龍)は、続いて織田信長を攻撃するために大良方面に軍を進めます。

一方の織田信長も大良から北に30町(3.3㎞。『太閤さま軍記のうち』では20町になっている)ほど軍を動かしており、

及河原(笠松町北及・南及周辺)で織田・斎藤両軍は激突しました🔥

この戦いで織田軍は、

山口取手介・土方彦三郎が討ち死に(「天理本」では下方弥太郎も討ち死に)、森可成千石又一に膝のあたりを斬られ退くなど、

苦戦を強いられます。

そこに道三が敗死したという報が入ったため、織田信長は大良に築いた陣まで戻りますが、

清須城に戻るには大河を越す必要があり、退却中に美濃勢に襲われ大きな被害を受ける可能性がありました(◎_◎;)

ここで信長は、川を渡る一番最後は自分が引き受けたといい、信長が乗る舟一艘だけを残させて、全軍を撤退させました。

そこに斎藤軍が追撃を仕掛けてきたのですが、

これに織田信長は鉄砲を撃たせて反撃したので、危険に思った斎藤軍は近くまで寄ってこず、その間に信長は舟で退却に成功しました。

(「天理本」では「御一人御残り候」とあり、織田信長が一人だけ最後まで残って戦っている。『太閤さま軍記のうち』では織田信房も残っている)

何とか危機を乗り切った織田信長ですが、そこに次なる危機を知らせる報告が入ります。

岩倉織田家(伊勢守家)織田信安が、斎藤范可と示し合わせて信長に敵対し、

清須城近くの下之郷にまで攻め込んで火を放った、というのです。

悔しく思った織田信長は、ただちに岩倉城方面に兵を出し、岩倉城付近を焼き払いました。

こうして織田信長は、美濃だけではなく、岩倉織田家も敵に回すことになってしまったわけです(◎_◎;)信長、大ピンチ…。

岩倉織田家の信安が敵に回った理由は定かではないのですが、

信ぴょう性の低い『武功夜話』には、

於久地(小口)は代々岩倉織田家の土地であったが、信安が岩倉織田家を継いだ際、まだ幼かったので後見役の織田信康(信秀の弟)が於久地を代理で管理するようになったが、信康が美濃での戦いで戦死した後、信康の跡を継いだ信清が於久地を岩倉織田家に返還しようとしなかったので、腹を立てた織田信安が斎藤范可に通じて織田信長に敵対するようになった…とあります。

これを信じれば犬山織田家の信清はこの頃すでに織田信長と友好関係にあったことになりますね(゜-゜)

こうして織田信長と織田信安は戦争状態に入ったのですが、

その後本格的に激突したのは、日付は明らかでないのですが、場所は下津の正眼寺というところでした。

正眼寺は守りが容易なところであったので、ここを岩倉織田家が砦に改造しようとしている、という話を聞いた織田信長は、清須の町人たちを使い、正眼寺の藪を切り払わせて防衛機能を低下させようとします。

正眼寺に向かった信長軍は83騎しかいませんでしたが、

そこに岩倉織田家がなんと3000の兵を繰り出してきて、「たん原野」というところで両軍は激突することになりました(◎_◎;)

信長大ピンチですが、信長は機転を利かせて町人たちに槍を持たせ、軍勢の後ろに並ばせて人数を多く見せかけました。

これを見た岩倉織田家は少し戦っただけで退いていき(「天理本」では川も挟んでいたので、とある)、織田信長は危機を脱することができました(-_-;)

〇資料によって異なる経緯

『信長公記』では、

①及河原の戦い

②道三討ち死にの報告

③信長、殿となって撤退

④岩倉織田家の敵対

…の順番になっているのですが、

「天理本」では、

①及河原の戦い

②岩倉織田家の敵対

③信長、殿となって撤退

…となり、岩倉織田家の敵対を聞いて、無念であるものの退却を決めています。

『太閤さま軍記のうち』では、

①岩倉織田家の敵対

②及河原の戦い

③信長、殿となって撤退

…となっており、岩倉織田家の敵対を聞いて退却を決め、兵が川を渡りかけたところに、美濃勢がせまってきたのを知り、及河原で迎撃したものの、次第に美濃勢の数が増えてきたので信長が殿となって退却した、という経緯になっています。

大きな疑問の1つになっているのは、

「なぜ信長は長良川の戦いに間に合わなかったのか?」

というものです。信長はいつも行軍速度も速いのに…。

それが、『太閤さま軍記のうち』にある記述で、岩倉織田家が敵対したために退却せざるを得なかったためだと理解することができます。

『信長公記』で経緯が異なるのは、斎藤道三を見捨てた、ということを隠すためでしょうか?(゜-゜)

斎藤范可は信長が援軍に来れないように、岩倉織田家と秘密裏に同盟したうえで、

おそらく「信長が川を渡ったところで清洲城周辺を攻撃してほしい」と要請したのではないでしょうか。

自分的には、『太閤さま軍記のうち』の記述が一番しっくりくるのですが、どうでしょうか…(;^_^A

〇岩倉織田家の信安

岩倉織田家は織田氏の祖とも言われ、尾張守護代となった織田常松から代々尾張守護代をつとめる、織田家の正統でした。

しかし応仁の乱以後の織田敏定との戦いの中で力を落としていき、

1505年以降は史料上で岩倉織田家は確認できなくなっていきます(◎_◎;)

その中で岩倉織田家を継いだのが織田信安でしたが、

信安の父は誰なのか、まったくわかっていません💦

織田一族について網羅してある谷口克広氏の『尾張・織田一族』でも、織田信安の出身について全く触れられていません(-_-;)

織田信安は織田敏定の兄弟である織田敏信の子ではないか?と言われており、

そうなると清須織田家の出身ということになります(◎_◎;)

岩倉織田家が男子がいなかったために清須織田家から養子を迎えたという事なのでしょうか??

もしこれが真実であるならば、久しく分かれていた織田家は、清須織田系で統一されたということになります💦

しかし一次史料で確認するすべがないので真相は闇の中です…(;'∀')


0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[岐阜城編]

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● フロイスは岐阜城訪問について、書簡に次のように書いています。 …翌朝、私たちの宿は遠かったので(エヴォラ版ではこれに加えて「雨がさかんに降っていたので」とある)、ナカガウア[通称]・ファチロザエモン[本名](中川八郎左衛門重政) ...

人気の記事