織田信長の妻の父として、
織田信長にとって頼りになる存在であった斎藤道三。
その道三に、運命の時が訪れようとしていました…😰
※マンガの後に補足・解説を載せています💦
※マンガの2ページ目は都合により公開が遅れます(-_-;)
〇斎藤道三の子どもたち
『信長公記』には「山城子息、1男 新九郎・2男 孫四郎・3男 喜平次、兄弟 3人これあり」とありますが、
実際は斎藤道三は7人ほど息子がいたそうです。
・1人目…利尚(のちに高政・義龍)(1529~1561)。
・2人目…孫四郎(秀盛?龍重?)。
・3人目…喜平次(秀茂?龍定?)
・4人目…利堯(1537?~?)。
母は稲葉氏で、妻は稲葉一鉄の娘。
おそらく斎藤道三死後に織田信長に仕え、本能寺の変後は岐阜城をとりまとめて中立を維持した。
その後は織田信孝の重臣となり、森長可が攻めてきたときはこれを撃退した。
しかし情勢は織田信孝に不利となっていき、
利堯は稲葉一鉄の言葉を受け入れて信孝から離反し、
まもなく亡くなったという。
『信長公記』には登場しない(;^_^A
・5人目…新五郎利治(1552?~1582)。
利堯同様、おそらく斎藤道三死後に織田信長に仕えた。
織田信長は斎藤(一色)義龍と戦う際に利治をたてて対抗した。
利治は美濃攻略戦や上洛戦、伊勢の戦い、姉川の戦い、石山合戦など多くの戦いに出陣して活躍した。
(『信長公記』では伊勢の大河内城の戦い[1569年]が初出。)
織田信長から厚遇を受け、
織田信忠の重臣となった際は織田信忠から信頼され、
本能寺の変の際は織田信忠と運命を共にした。
『南北山城軍記』には「天下に輝かせ、忠志を全うし、二条城中において潔く忠死して、恩君泉下に報じ、武名を天下に輝かせり」と書かれている。
子の義興は池田輝政の家臣となって、その家は明治維新まで続いている。
…あとの2人、日暁・日覚は僧侶となっていて、これで計7人になります。
今回の話の中心となるのは上から3人の、利尚・孫四郎・喜平次です。
『信長公記』には、「道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は耄者とばかり心得て、弟2人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛太輔に成し、居ながら官を進められ、かように侯間、弟ども、勝ちに乗って著り、蔑如に持ち扱い侯。」(斎藤道三は正しい判断ができなくなり、長男新九郎[利尚]は愚か者で、次男・三男は利口だと思い、三男の喜平次の姓を名家の一色とし、官位を右兵衛大夫に進めた結果、弟2人は、兄の利尚を侮るようになった)とあり、
斎藤道三が長男利尚より次男・三男を大切にしたことで、兄弟仲がおかしくなった、ということが書かれています。
『美濃雑事記』には、弟たちだけでなく、弟の家臣たちまでもが利尚の家臣たちを侮るようになった、とも書かれています。
(※ちなみに『信長公記』には、三男の喜平次を「一色」にした、とあるのですが、斎藤利尚はのちに一色姓を名乗っており、こちらと混同した誤りでしょうか…?(゜-゜)
桑田忠親氏は、斎藤利尚が後に一色と改姓したのは、父と弟を弔うために、父が最も愛した喜平次が名乗った一色氏を名乗ることになったのだろう、としていますが、
木下聡氏は『斎藤氏四代』で、「弟が一色氏を称した事実」は「作為的に創作された可能性があ」り、「仮に道三が一色氏を名乗らせたとしても、菩提を弔う目的で苗字をそれに改める必要性はない」としており、
喜平次が一色氏を名乗った、とする『信長公記』の記述は誤りである可能性が高いでしょう(-_-;))
斎藤利尚は父の仕打ちに堪えることができなくなり、弟2人を殺害することを計画します。
そして天文24年(1555年)10月13日より病であると偽って稲葉山城の一室に閉じこもること約1か月、11月22日に斎藤道三が稲葉山のふもとにある館に降りたところを見計らって、
(※『信長公記』には斎藤父子4人とも稲葉山城に住んでいた、とあるが、実際には斎藤道三はこの頃稲葉山城には住んでおらず、天文23年[1554年]に利尚に家督を譲った後は近くの鷺山城に移り住んでいたようである。また、『総見記』には、道三が鷹狩に出かけた留守を狙って、とある)
伯父(父または母の兄)である長井隼人正(道三の弟という説や、道三の子[利尚の庶兄]という説もある)を使者として、
「利尚は重病であり、明日をも知れない状態になっている。利尚は死ぬ前に一言伝えたいことがあるので来てほしい、と言っている」と弟2人に伝えさせます。
これを聞いてすぐにやってきた弟2人は、長井隼人正が次の間で刀を置いたのを見てその部屋で刀を置き、次の部屋に進むと豪華な食事のもてなしを受けました。
完全に気が緩んだ2人の前に日根野弘就が現れると、弘就は名刀・作手棒兼常(さくてぼうかねつね)を抜くや孫四郎、次いで喜平次を斬り殺しました(◎_◎;)
弟2人を殺した後、利尚はすぐにふもとにいる斎藤道三にこれを知らせました。
すると道三は「仰天を致し、肝を消すこと限りなし」と慌てふためきますが、
その後は法螺貝を吹かせて兵を集め、城下町の端の方から火をかけて城下町を焼き、追いかけてこられないようにしたところで長良川を超えて山県郡の山の中に逃走する(鷲見忠直が北野城に迎え入れたといわれている)、というさすがの臨機応変さを見せています。
斎藤道三は春になるまで山県郡の山中にいたのですが、春になるまでの間、互いに美濃の武士に味方につくように誘い合っていたのでしょう。
実際、12月に斎藤利尚は桑原右近右衛門に土地を与えたうえで、山県にいる斎藤道三を倒したらさらなる恩賞を与えると約束しています。
また、この12月には利尚は名を「范可(はんか)」と変えています。
『信長公記』では戦後にこの名前に変えた、と書かれていますが、
実際は弘治元年(1555年。天文は10月23日に弘治と改元された)12月には「范可」の署名がある書状があるので、
戦争前から「斎藤范可」と名乗っていたようです(◎_◎;)
「范可」とは、『信長公記』によれば、昔の中国で范可という者が親の首を切ったけれども、それが孝(親を大切にする)となった、といいます。
おそらく、父と戦うことになって、
父を斬ることになっても、それは親不孝ではない、という決意をこめて名前を変えたのだと思われます(◎_◎;)
翌弘治2年(1556年)4月18日、斎藤道三は決戦を覚悟し、稲葉山城の北に4㎞地点にある鶴山に移りました。
4月20日午前8時頃、北西の方角に斎藤范可軍が出撃すると、道三も山を下りて長良川岸に進み、両軍は長良川にて激突します🔥
まず攻撃を仕掛けたのは范可側で、大垣城主・竹腰道鎮(重直)が600の兵で突撃を仕掛けますが、乱戦の中で道鎮は戦死します(『総見記』では道三自ら討ち取った、とある)。
床几に腰かけていた道三はこれを聞いて満足そうにしていましたが、
続いて范可が本隊を率いて一気に長良川を渡ると、形勢は一気に范可側に傾きます(◎_◎;)
そもそも集まった軍勢の数が大きく違っていたようで、『美濃国諸旧記』には道三側に集まった兵は范可側の10分の1もいなかったと記し、『翁草』は范可側は1万、道三側は2千だったと記しています。
戦う前からほぼ勝負は決まってしまっていたのです(◎_◎;)
しかし尾張からは援軍として織田信長が急行しており、信長が間に合っていればまた違った結果になっていたかもしれません…。
道三も信長が来るまで待てなかったのでしょうか…??
道三側が最後に輝きを見せたのは、長屋甚右衛門がまず一騎で突撃してきたのを、
柴田角内が迎え撃ってこれを押し倒し、討ち取ったときでした。
柴田角内は、以前にも紹介しましたが、坂井大膳たちが尾張守護・斯波義統を殺害した際に、
守護方で奮戦した森刑部丞兄弟を討ち取った人物です。
清須織田家が滅んだ際に、浪人となって、斎藤道三に拾われていたのでしょうか💦
乱戦の中で次第に道三軍は押されていきます。
『信長公記』には書かれていませんが、『信長公記』の作者・太田牛一が書いた『太閤さま軍記のうち』には、
道三は「勢の使い様、武者配り、人数の立て様、残るところ無き働き也。さすが道三が子にて候。美濃の国治むべき者也。とかく、我々誤りたるよ」(新九郎[范可]の軍勢の動かし方、軍勢の配置、兵士の配分、残すところが無いほどすばらしい。さすがわしの子だ。美濃の国を治めるだけの器量がある。わしは誤ってしまったなぁ)と言った、それを聞いた周りの者たちは涙を流さぬ者はいなかった…と記されています。
ついに長井忠左衛門(長井隼人正の子。なので、道三の兄弟の子、もしくは孫)という者が道三のもとにたどり着き、組みついて生け捕りにしようとしました。
しかしそこに荒武者である小牧源太が横から割って入って道三のすねを薙ぎ払い、
道三が倒れると、その首を取ってしまいました。
悔しいのは手柄を横取りされた長井忠左衛門ですが、忠左衛門は、自分が最初に道三と戦った、という証拠として道三の鼻をそいで持って行ってしまいます(◎_◎;)
このことについて、太田牛一は『太閤さま軍記のうち』で、
「道三は、名人のように申候へ共、慈悲心無く、五常を背き、無道盛んなる故に、諸天の冥加に背き、子に故郷を追い出だされ、子に鼻を削がれ、子に首を斬られ、前代未聞の事共也。天道、恐ろしき事」
(斎藤道三は評判が高い人のように言われるけれども、慈悲の心が無く、人が守るべき道徳に背き、道理に外れること甚だしかったために、仏教の神々の御加護を受けられなくなり、子に稲葉山城から追い出され、鼻をそがれ、首を斬られるという前代未聞のことになった。悪い行いをすると運命が変わって悲惨な最期を必ず迎えることになる。恐ろしいことである)
…と書いていますが、太田牛一、斎藤道三に何か恨みでもあるのか?という書きっぷりですね…(◎_◎;)
しかし斎藤道三は織田信長の最大の援助者で、頼りになる存在でした。
その斎藤道三を失い、美濃まで敵に回すことになり、
織田信長はますます苦しい状況へと追い込まれていくことになります…(◎_◎;)
〇斎藤義龍の名前
斎藤義龍は名前を何回か変えていて、
最初の名前は「利尚(としひさ)」でした。
その後天文24年(1555年)に父との戦いを覚悟して「范可」と改め、
翌弘治2年(1556年)、長良川の戦いで勝利を収めると名前を「高政(たかまさ)」に改めています。
「麒麟がくる」ではなぜかずっと「高政」と呼ばれていましたが、
「高政」になったのは道三が死んだ後なのです😓
(なぜ高政だったんだろう…??)
名前が「義龍」になったのは永禄2年(1559年)8月頃のことで、
この時、幕府から姓を斎藤から一色に改めることを認められるので、
そのタイミングで名前も一緒に変えたのでしょう。
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