頼れる叔父、織田信光が殺されたのが天文23年(1554年)の11月26日でしたが、
その約8か月後になんと、織田信長の兄弟が死亡するという事件が起きてしまいます。
そしてこれが、織田信長と織田信勝の兄弟争いの始まりになっていくのでした…(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
守山城主になったのは織田信光の弟(つまり織田信長の叔父)の織田信次でした。
この織田信次は以前は深田城主をつとめていて、萱津の戦いの前哨戦で城を清須織田家に落とされてしまった人物です(;^_^A
天文24年(1555年)6月26日(『定光寺年代記』では7月6日)、
織田信次は若い武士たちと龍泉寺近くの庄内川の松川の渡しで漁をしていたのですが、
その時、信次の前を馬に乗って通りかかった男がいました。
織田信次の家来の洲賀才蔵(天理本では「須賀」)は「馬鹿者乗打を仕り候」(馬鹿者め、城主の前を馬に乗ったまま通るとは!)と
激怒して(おそらく当てるつもりはなく)弓矢を放ったところ、
運悪く矢があたって落馬した男は死んでいました。
その死んだ男というのが、織田秀孝でした。
織田秀孝は、織田信長やその弟の信勝と同じ、土田御前(?~1594年)から生まれた兄弟だとされる人物です。
「御歳の齢十五・六」と『信長公記』にありますから、1540年か41年の生まれ、
織田信長よりも6・7歳年下だったということになります。
『信長公記』にはその容貌について詳しく書かれています。
いわく、
「御膚(おはだ)は白粉(おしろい)のごとく、
たんかのくちびる(美人の唇という意味)柔和のすがた、
容貌美麗、人にすぐれて、
いつくしき共中々たとえにもおよび難き(その美しさは、なかなか例えることができないほどの)御方様なり」
超べたぼめです😅おそらく作者の太田牛一も見たことあったんでしょう💦
織田信次は織田秀孝だと知って肝をつぶします。
なんでかというと主人の織田信長の実の弟なんですから、
処罰されるのは火を見るより明らかです。
織田信次は取る物もとりあえず、城にも帰らずにどこかへと逃げ去り、数年間行方不明になりました。
末盛城主の織田達成(信勝は天文23年[1554年]頃から名前を達成に変更していた)は弟の死を知り、すぐさま守山城に駆けつけて城下を焼き払ってしまいます🔥
織田信長のいる清須城から守山城までの距離は、現在車で29分かかります。
一方、末盛城から守山城までは車で15分で、どうしても織田信長は遅れを取ってしまいます。
織田信長は家来と共に守山城に急行したのですが、
いつも馬の訓練を欠かさない信長の馬はなんともなかったのですが、
そうでない家来の馬は倒れる馬が続出するありさまで、
織田信長は結果、1人で守山城付近に着くことになってしまいます💦
『信長公記』には「信長は朝夕御馬をせめさせられ侯間、今度も上下あらくめし侯えどもこたえ侯て苦しからず侯。余仁の馬共は飼いつめ侯て、常に乗ること稀なるに依て、究竟の名馬ども3里の片道をさえ運びかね、息を仕り侯て、途中にて山田治部左衛門馬を初めとして損死侯て、迷惑せられ侯」(信長は馬の訓練を朝夕欠かさなかったので、守山城まで手荒く走らせても馬は耐えることができたが、家来の馬はいつも乗っているわけではなかったので、極めて優れた名馬であっても3里(12㎞)の道さえも走りとおすことができず、途中で山田治部左衛門の馬などが死んでしまい、困ったことになった)とも書かれています。
以前にも「馬を朝夕御稽古」と書いた部分がありましたね(゜-゜)
そこで犬飼内蔵という者が信長に、
「織田信次はどこかへ逃げ去ってしまった、城にはもういない、
守山城の城下は達成殿が焼き払いました」という報告を受けます。
それを聞いた織田信長は、弟を失った悔しさや、達成に出し抜かれた悔しさや、
家来たちのふがいなさなどの感情が入り混じって、こう言って清須城に戻ります。
「我々の弟などと云う物が、人をもめしつれ候わで一僕のもののごとく馬一騎にて懸けまわり候事、沙汰の限り比興なる仕立てなり。譬え存生に候共、向後御許容なされ間敷」(我らの弟とあろう者が、下僕のように1人で行動するとは、あきれたふるまい。たとえ生きていても、許すことはできぬ!)
下線部の部分、超ブーメランです。織田信長も1人で来てますからね💦
ですから、これはおそらく本心ではなかったのでしょう。
さて、織田秀孝が死んだ後、織田信次は脱走し、行方知れずになりましたが、
織田達成は城主がいなくなった守山城の周囲を放火しただけでなく、
さらに柴田勝家・津々木蔵人を大将として守山城を包囲させます。
混乱に乗じて、あわよくば守山城をわがものにしようと目論んだのでしょう(◎_◎;)
織田信長も負けじと飯尾定宗(織田氏の一族。織田敏定の孫とされる)・尚清父子などを派遣して守山城包囲に参加させています。
これに対し、
角田新五・高橋与四郎・喜多野下野守・坂井七郎左衛門・坂井喜左衛門・坂井孫平次(喜左衛門の子)・丹羽氏勝(岩崎城主の丹羽氏識の子。岩崎城丹羽家は今川に属しているはずだが…。いつの間にか再び織田に復帰していたようである)たち、
とり残された守山城の家臣たちが城に立てこもって抵抗します。
ここで活躍するのが佐久間信盛で、
佐久間信盛は織田信長に、信長の兄・信広の同腹の弟である秀俊(信時とも)を守山城主にすることを提案します。
信長はこれを了承し、佐久間信盛が交渉した結果、
角田新五・坂井喜左衛門がこれを受け入れて秀俊を守山城主に迎え入れ、
達成は不満であったと思いますが、一応守山城問題は解決することになりました。
それにしても、なぜ秀俊を城主にすることで問題は解決したのでしょうか?(゜-゜)
1つは、織田秀俊が織田信長派でも達成派でもない、少数派閥の織田信広グループに属していたこと。
そのため、織田信長の勢力が拡大することを警戒する織田達成も不承不承納得したのではないでしょうか。
でも、その後の行動を見ると、秀俊は思いっきり信長派として行動するようになっていますが…(;^_^A
城主にしてもらったことで恩義を感じたからでしょうか?
(実際に織田秀俊は城主にしてくれた功労者である佐久間信盛に土地を与えています)
もともと仲が良かったのかもしれませんが…。
もう1つは、事件後も引き続き守山城を以前の家老たちが取り仕切っていること。
おそらく、佐久間信盛は交渉の際に、守山城の家老たちはそのままにする、ということを約束したのではないでしょうか。
現状維持が認められた守山城の家老たちは喜んで佐久間信盛の提案を受け入れたでしょう。
家老たちは、逃亡した織田信次の代わりに織田秀孝の死の責任をとらされて、殺されるか追放されるのではないかと不安になっていたでしょうから。
こうして、守山城をめぐる織田信長と達成の対立は、信長の外交的勝利のような形で終わったわけですが、
やはり達成は不満に感じていますし、
守山城の家老の一人、角田新五が一筋縄でいかない人物で、守山城で再び事件を起こすことになっていくのです…(◎_◎;)
0 件のコメント:
コメントを投稿