斎藤利政(道三)に大敗北した後、
美濃(岐阜県南部)でも三河(愛知県東部)でも後退をつづけ、
さらに地元の尾張(愛知県西部)でも主人筋の清須織田家との戦いが始まってしまい、
非常に苦しい状況となった織田信秀😰
そこで信秀は方針を転換し、なんと弟・信康などの仇でもあり、長年戦ってきた相手の斎藤利政と同盟を結ぶことにするのです…!💦
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇織田信長の結婚
斎藤利政と和睦する方法は、斎藤利政の娘と織田信秀の息子の織田信長の結婚でした。
斎藤利政の娘は「濃姫」もしくは「帰蝶」と呼ばれていますが、
「濃姫」は江戸時代中期に作られた『絵本太閤記』によるもの、
「帰蝶」は江戸時代前期に作られた『美濃国諸旧記』に由来する名前であり、
どちらも戦国時代当時の史料ではなく、正確な本名は不明と言わざるを得ません。
さて、結婚についてですが、
『信長公記』には、
「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟(むこ)に取り結び、 道三 が息女、尾州へ呼び取り侯き。然る間、何方も静謐なり」
(平手政秀の働きにより、織田信長と斎藤利政の娘が結婚することになり、利政の娘は尾張へ迎えられた。そのために、どの方面も平穏になった)
と非常に簡潔に記されているのみで、その年月すら記されていません(;^_^A
『美濃国諸旧記』では、
天文18年(1549年)の春、織田信秀は病が重く、生きているうちに斎藤利政と和睦がしたいということで、結婚を急ぎ、2月24日、利政の娘は古渡城にやってきて織田信長と結婚した、利政の正室の娘はこの娘一人だけだった、結婚を見届けた信秀はこの年の3月3日に(数え年)42歳で亡くなった、この時信長は16歳、利政の娘は15歳であった…。
と書かれており、戦国時代ではなく江戸時代前期に作られたもの・織田信秀の死を3年早くしている…という信ぴょう性に疑問がある点もありますが、
これを信頼すれば、天文18年(1549年)2月24日に織田信長は結婚した、ということになります。
しかし、そうなると疑問を感じるのは、『信長公記』の「何方も静謐なり」という部分です。
天文18ねん(1549年)2月頃というのは、尾張内部で清須織田家と争い、東では今川氏の圧力が高まっている時期にあたります。とても「静謐」とは思えません(;^_^A
ですから、「何方も」というのはどこも…ということでなく。斎藤氏(美濃)とは平穏になった、ということなのでしょうか。実際、この後弘治2年(1556年)に斎藤道三が死ぬまで長きにわたって織田・斎藤間は平和が続きました。
また、もう一つの疑問は、なぜ斎藤利政は織田と和睦してくれたのか、ということです。
織田信秀は危機の状態にあり、これを攻撃すれば尾張を乗っ取ることも不可能ではない状況でした。
しかも、尾張では斎藤氏と結んだ清須織田家が兵を挙げていますので、織田信秀との和睦は、清須織田家にとって裏切りと感じられるでしょう。
斎藤利政が織田信秀と和睦した理由と考えられるのは、
①織田信秀を攻撃すると、これに乗じて勢力を拡大した今川氏と領土を接して戦うことになるため、織田信秀を今川との緩衝地帯にしておきたい。
②美濃の内部も戦い続きで足元が全然固まっていなかった。
…ということが挙げられますが、
以前にも紹介した『信長公記 天理本』にある、
8月上旬に西美濃の氏家・安藤・不破・稲葉と示し合わせ、土岐頼芸と共に美濃を攻撃、これに苦しんだ斎藤利政が和睦を受け入れた、という記述を信じるならば、斎藤利政が織田信秀と和睦したのが合点がいきます。
頼山陽の『日本外史』も、
「8月、信長往いて秀竜を討ち、火を多藝口に縦つ。秀竜、和を請う。信秀、比年、兵興り、上下疲弊するを以て、遂にこれを許す。秀竜乃ち頼芸を復し、女を以て信秀の子信長に妻(めあ)わす」
と、天理本と同様の記述をしています。
ふつう和睦は、負けた方が娘を差し出すものなので、こちらの方が自然な流れのようにも思えます(゜-゜)
織田信秀としても、内部に清洲織田家を抱え、東は今川と対峙するという状況の中にあり、この和睦を受け入れたのでしょう。
〇若いころの織田信長
『信長公記』には、若いころの信長について、
「信長、16・7・8 までは、別の御遊びは御座なく、馬を朝夕御稽古、又、3月より9月までは川に入り、水練の御達者なり。其の折節、竹槍にて扣(たたき)合い御覧じ、「兎角、槍は短く候ては悪しく候はん 」と仰せられ候て、三間柄・三間中柄などにさせられ、其の比の御形儀、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色々余多付けさせられ、御髪はちゃせんに、くれない糸・もえぎ糸にて巻立てゆわせられ、大刀朱ざやをささせられ、悉く朱武者に仰せ付けられ、市川大介めしよせられ御弓御稽古、橋本一巴師匠として鉄砲御稽古、平田三位不断召し寄せられ兵法御稽古、御鷹野等なり。爰に見悪(にく)き事あり。町を御通りの時、人目をも御憚りなく、くり・柿申すに及ばず、瓜をかぶりくいになされ、町中にて立ちながら餅をまいり、人により懸かり人の肩につらさがりてより外は、御ありきなく侯。其の比は世間公道なる折節にて候間、大うつけとより外に申さず候」
…と詳細な記述があります。
15~17歳まで(つまり信秀が死ぬまで)、信長は、
朝も夕方も馬に乗り、3~9月まで川に入って泳ぎの練習をした、
また、市川大介に弓を、橋本一巴に鉄砲を、平田三位に兵法を習い、鷹狩もした、
ある時、竹槍どうしでたたき合いをする訓練の様子を見て、
「槍は短くては具合が悪い」と言って、
槍の長さを5.4mもしくは6.3mの長さに変更させた(当時の槍は二間半[4.5m]が標準的な長さであった)、
…というように、特に遊びもせず、
(『信長公記』には後の場面で、趣味は舞と小唄で、舞は『敦盛』の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」ばかりやり、小唄は「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの」というものを好んで唄った、と記されている)
勉強や運動に明け暮れていた様子が書かれています。
これだけ見ると、「ははぁ、織田信長の家来が書いた本だから美化してるのかな😏」と疑いますが、
『信長公記』を書いた太田牛一のスゴイところは、
「爰に見悪き事あり」(見苦しいこともされていた)…と、信長にとってマイナスイメージとなる点もしっかりと書いていることです😓
どんなことかというと、
町を歩いているとき、人目も気にせずに、栗・柿・瓜をかじり、立ちながら餅を食べ、人に寄りかかり肩にぶらさがっていた…というのです(◎_◎;)
しかもその時の格好は湯帷子(ゆかたびら)の袖を外し、火打ち袋など腰回りにたくさん身に着けて、茶せん髷(まげ)を紅色・萌黄色の糸で結い、朱色の大きな刀を差していたというのですから、非常に派手で目立つ格好です💦
最初描いていた片肌脱ぎバージョンの織田信長(;^_^A |
(※織田信長の格好ですが、昔見たマンガのイメージで最初片肌脱ぎで描いていたんですが、袖を外した湯帷子が正しいんですね(;^_^A)
当時は「傾奇(かぶき)者」と呼ばれる、変わった(派手な)格好をして、
常識破りなふるまいをする人々が現れていました。
常識破りな行動をする人は、それが常識になるまでは
白い目で見られます。
『信長公記』にも、
「其の比は世間公道なる折節にて候」
(その頃の世の中は礼儀がきちんとしていることが良いとされている時期であった)
と書かれており、この頃は下剋上の戦国時代ながらも礼儀は守られていたようです(ビックリ)。
おそらく16世紀後半頃から、17世紀の日本はマナーなんてあってなきが如しの状態になったのではないでしょうか(農民・下級武士クラスが大名になるケースが急増したため?)。
17世紀後半に出された生類憐みの令も、人々に思いやりの心を持たせるのが目的であったようですし…(;^_^A
…ということで、時代の一歩先を行っていた織田信長は、「大うつけ」(大馬鹿者)と呼ばれたわけです。
「うつけ」とは「空け」「虚け」と書きます。
どちらも「空っぽ」という意味。中身がない…つまり、「おバカ」という意味です。
戦国時代に「傾奇者」がいたように、
南北朝時代にも「バサラ」と呼ばれる、常識破りな行動をする人たちがいました。
世の中が乱れているときはそういう人たちが出てくるんでしょーか。
しかし、世の中が大変なときは、そういう常識破りな人が斬新な発想でもって世の中を変えていくことになるんでしょうね💦
先に述べたように、『信長公記』に信長が槍を長いものに変更した、
というのも斬新な発想ですし、
大名の息子自ら鉄砲を学ぶというのも斬新です。
これからそんな信長が戦国時代を切り開いていくことになります。
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