社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田信秀、死す~備後守病死の事(1552年)

2023年5月21日日曜日

織田信秀、死す~備後守病死の事(1552年)

 後退を続ける弾正忠家に、追い打ちをかけるような出来事が起こります。

数年にわたって病に苦しんできた弾正忠家当主・織田信秀が亡くなったのです…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信秀の死

織田信秀の死について、

『信長公記』は、

…織田信秀殿は流行病に悩まされ、様々な祈祷や治療が試みられたが効果なく、ついに3月3日、(数え年)42歳で亡くなった。人生ははかなく、無常なものではあるが、悲しいことである。これは、さっと風が吹いて多くの草についていた露を散らし、長い雲が満月を隠したようであった。…

「備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々御祈祷・御療治候と雖も御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに御遷化。生死無常の世の習ひ、悲しいかな、颯々たる風来ては万草の露を散らし、漫々たる雲色は満月の光を陰す。」

と記し、何年の3月3日かは明らかにしていません。

そのため、信秀の亡くなった年について、

①天文18年(1549年)説

『織田系図』小瀬甫庵『信長記』(江戸時代初期成立)などに天文18年(1549年)3月3日とある。

『武功夜話』には天文18年(1549年)に信秀は亡くなったが、3年その死を隠した、とある。

天文20年(1551年)説

『織田家雑録』(江戸時代初期成立)『箕水漫録』(江戸時代後期成立)に天文20年(1551年)とある。

(ゲーム『信長の野望』は、常に1551年説をとっている。生まれた年は天道までは1510年、創造以降は1511年と変化)

③天文21年(1552年)説

・葬儀が行われた万松寺の過去帳に「天文21年」(1552年)とある。

『定光寺年代記』では天文21年のところに信秀の死が記録されている。

…とさまざまな説があります。

しかし、以前に紹介したように、天文18年(1549年)の11月28日と、天文19年(1550年)の11月1日に信秀は書状を出していますし、これが死を隠した代筆であったとしても、3年死を隠すなど難しいので、天文18年説はおそらく誤りでしょう。

残るは天文20年説と21年説なのですが、

資料の信ぴょう性としては同時代の記録である天文21年説の方が明らかに高いです。

また、天文20年(1551年)9月20日の書状には「備後守」とあるのに、

天文21年(1552年)10月21日の書状には「桃岩」と法名で書かれていることも天文21年説の正しさを裏付けます。

諸説はありますが、亡くなった年として一番可能性が高いのは天文21年(1552年)なのでしょう。

一方で、『定光寺年代記』には、(天文21年)「三月九日に織田備後殿死去」とあり、

3月3日とする『信長公記』と日付に違いが見られます。しかし、他の説でも年は違えども日にちは3月3日で一致しているため、おそらく3月3日が正しいでしょう。

…ということで、天文21年(1552年)3月3日に織田信秀が亡くなったということで話を進めますが、

その後行われた、織田信秀の葬儀の導師を勤めた大雲禅師(『亀山志 下巻』に、織田信秀の伯父とあり、二人は会わない日が無いほど親密であったという。1482年~1562年)の「下火(あこ)語」(遺体に転嫁する儀式の際に話した言葉)が残っており、

それには、

…亡くなった桃巌(織田信秀)殿は、手柄を立てることが他よりもとびぬけて優れ、心は思いやりがあって情け深く、神の功徳を敬い得難い供物をささげ、先祖を慕い金銭を寄付し、優れた人物を招く際に最も良い礼物を差し出し、礼儀正しく丁寧に高僧を訪ねた、ただ孫武と呉起の兵法を身につけるだけでなく、張良や陳平のように相手の謀略を見破った、そのため戦えば必ず勝ち、進めばすばやく敵を追った、これによって尾張国は豊かになり、他国はその権威を恐れた、…

「…其れ惟れば、新物故桃巌道見大禅定門、功名傑出、志気仁慈、神德を仰げば則ち金玉幣帛を奉献し、祖風を慕えば則ち浄財貨貲を捨至し、璧を加えて諸彦を引き恭しく明師を礼訪す、啻だ孫呉兵術のみに慣らわず、況や之れ良平が謀諮を挫く、是の故に戦必ず勝つ、進んでは速やかに追う、此れに依て闔国其の豪奢に誇る、他邦其の権威を憚る」

と、その人となりについて紹介され、

頼山陽『日本外史』には、おそらくこれを要約した部分があり、

「信秀、武を嗜み士を喜ぶ。士多くこれに帰す」と記されている)

その後に、

…しかしある日突然流行病にかかり、急激に雄々しい立派な姿を失った。…

「俄然として一朝災疫に罹る、忽爾として壮年の雄姿を損す、…」

とあり、ある日突然に体調が悪化したことがわかります。

1563~1597年に日本に滞在したルイス・フロイス『日本史』で、

…織田信長の父が尾張で瀕死になった際、祈祷させるために集めた僧たちに病気から回復するか尋ねたところ、僧たちは回復することを保証した。しかし父は数日後に亡くなった。そこで信長は僧たちをある寺院に閉じ込め、貴様らはウソを言った、自分の命が助かるよう祈るがよい、と言い、(逃げようとした?)僧を何人か射殺した…と述べています。

また、『日本史』には、「織田信長は、尾張の国の3分の2の主君であった殿の第二子であった」と書かれていますが(第二子ではなく第三子の可能性が高い)、

弾正忠家を隆盛に導き、尾張のほぼ全域を勢力下におさめ、美濃大垣城三河安城城をも攻め取った織田信秀も、

後半は失敗が続き、大垣城・安城城を失い、今川に尾張国内にまで攻めこまれ、清須織田家や犬山織田家など他の織田家が敵対し、

その勢力範囲は海東郡・中島郡・愛知郡の西部・春日井郡の中部にまで後退していました。

織田信長は、このすさまじい逆境の中で父の死を迎えたわけです(◎_◎;)

どうなる、信長…!💦

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