社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 斜陽の弾正忠家~試練の天文19年(1550・1551年)

2023年5月20日土曜日

斜陽の弾正忠家~試練の天文19年(1550・1551年)

前回のマンガで、犬山織田家が弾正忠家と対立したことを描きましたが、

犬山織田家が兵を挙げたことで幕を開けた天文19年(1550年)は、弾正忠家(尾張)にとって次々と苦難がやってくる試練の年でありました。

弾正忠家はこの年をどのようにして切り抜けたのでしょうか…!?(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇斜陽の弾正忠家

織田信秀が病気で倒れた後、今川軍は尾張にすさまじい攻勢を仕掛けます。

越中(富山県)の僧、日覚の天文19年(1550年)閏5月16日の聞き書きには、

「尾張も以外大乱にて候」(尾張は思いもよらないほど大きく乱れているらしい)、

また、10月19日には、

「駿河・遠江・三河已上6万計にて弾正忠に向寄来候え共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数は不見之由候」今川義元駿河・遠江・三河の兵6万を尾張に差し向けたが、織田信秀は国境で防いでいるため、今まで那古野周辺に今川勢を見かけたことはないそうだ[国境で防ぐために出払っているため、尾張の兵を那古野付近でも見かけない、と読む説もある])

『定光寺年代記』には、

「尾州錯乱8月駿州義元五万騎にて智多郡へ出陣…8月2日大雨洪水」とあり、

天文19年(1550年)の尾張が戦乱に天災に大変な状況にあったことがうかがえます(◎_◎;)

今川軍はこの年の6月までに尾張の国境近くにある三河の福谷城を攻略して尾張に迫ると、

9月17日には三河との国境付近にある雲興寺(瀬戸市赤津町)に制札(自分の軍の兵士に略奪や放火の禁止を知らせるもの)を出し、

12月までには愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を勢力下に置くまでになります。

その中で、織田方はおそらく朝廷・幕府に今川方との和睦仲介を要請、朝廷・幕府は昔の禁裏修理のよしみもあったため、天文19年(1550年)、大納言の四辻季遠が和睦を仲介、

その結果、『定光寺年代記』に「同雪月帰陣」とあるように、天文20年[1550年]12月に今川軍は帰陣しました。

この際、今川義元はおそらく前の年に手に入れていた刈谷城を水野氏に返還、

(後年の永禄3年[1560年]12月2日の今川氏真書状には、今川方が刈谷城を攻略した後、尾張勢は刈谷城を封鎖しようと出撃、今川方の松井宗信は度々これと戦った、と記されているので、刈谷城をめぐってその後何度か戦いがあったようである)

その交換条件として織田方に今川方を攻撃しないことを、織田方の鳴海城主・山口教継を通じて約束させています(12月5日の今川義元書状「織備懇望の子細候間、苅谷赦免せしめ候、此方味方筋の無事、異議無く山左申調候様、両人異見見せすむべく候」)。

鳴海城主・山口教継は今川に相対する最前線の地域を守っていた人物であり、そのため今川方との和平に骨を折ったのでしょう。

しかし、翌年の天文20年(1551年)には岩崎城主の丹羽氏識が、織田方の藤島城主・丹羽氏秀の城を奪い、織田勢が氏秀を助けて平針で戦ったものの敗れるという事件が発生しており、

ここからは、①織田・今川間はまだ不穏であったこと、②日進市のあたりまで今川の勢力下に入っていたことがわかります。

そのため、天文20年(1551年)の2月13日・6月28日・7月5日・7月6日に、

関白近衛稙家が和睦の継続を今川義元に要請する事態になりました。

それが実ったのか、この年は織田・今川間は比較的平穏でしたが、

12月には三河青野城主・松平甚二郎が今川に背き、弟の松平忠茂に追放されるという事件が発生しました。

12月11日の今川義元の書状には、「甚二郎」「逆心」(主君に背く心を抱いて)して「敵」「返忠」(裏切り)をした、と書かれていて、この「敵」が誰かは判然としないのですが、おそらく織田方でしょう。

天文20年(1551年)には織田信秀の書状が見られなくなるため、

この頃織田信秀の病状は相当重いものになっていたと考えられます。

ですから、この松平甚二郎騒動に関与していたのは、おそらく織田信長でしょう。

この後も織田信長は積極的に三河の武士を調略して、反今川の兵を挙げさせていくことになりますが、織田信長は対今川強硬派だったのでしょう(◎_◎;)

この様子を見て、今川との和睦に苦労した山口教継は、どう思ったでしょうか…。

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