社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 信長の元服と初陣~吉良大浜の戦い(1546・1547年)

2023年5月17日水曜日

信長の元服と初陣~吉良大浜の戦い(1546・1547年)

 織田信長、いよいよ元服&初陣です!😝

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信長、最初の戦い

織田信長の元服と初陣の様子について、『信長公記』は次のように記しています。

…吉法師殿は(数え年で)13歳のとき、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介がお供して、古渡城で元服し、織田三郎信長と名乗ることになった。その際の祝いの儀式や酒宴の様子は、並み一通りのものではなかった。翌年、織田信長は初陣するが、その時の準備は平手政秀が執り行った。信長は紅の筋が入った頭巾をかぶり、羽織を身に着け、馬にも鎧がつけられた。今川方の兵が送られているところの中で、吉良大浜に出陣、各地に火をつけ、その日は野営し、次の日に那古野城に帰った…。

「吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴・御祝儀、斜めならず。翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれない筋のずきん、はおり、馬よろい出立にて、駿河より人数入れ置き候三州の内、吉良大浜へ御手遣、所々放火候て、其の日は野陣を懸けさせられ、次の日那古野に至て御帰陣。」

数え年というのは、生まれた時を0歳とせず、1歳とする年の数え方のことです。

さらに、年齢は1月1日をもって1歳プラスされます。

つまり、12月末に生まれた子どもは、生まれた翌日に2歳になるということです(;^_^A

織田信長は天文3年(1534年)生まれなので、数え年13歳の時というのは天文15年(1546年)のことになります。

天文15年(1546年)というと、天文13年(1544年)の美濃での大敗のあと、外征はせず、勢力回復に努めていた時期になります。

美濃の大敗といえば、

信長が古渡城で元服する際に、いっしょに那古野城からついていった家老たちの中に、青山与三右衛門がいるのですが、

この青山与三右衛門は美濃での大敗の際に戦死しているので、『信長公記』の記述は誤りということになります💦

青山与三右衛門には、青山三衛門という名前が非常によく似た弟がおり、与三左衛門と間違えたのかもしれません(;^_^A

さて、織田信長、幼名吉法師は、元服して通称が三郎、諱が信長となるのですが、

「三郎」については、三男だったこともあるのですが、祖父の信貞が「三郎」、父の信秀も「三郎」だったことから、三郎=弾正忠家の当主、という意味合いがあったと考えられます(父の信秀は長男なのに「三郎」だったことからも、「三郎」=弾正忠家の当主、というのは明らかです)。

ちなみに信長は後継者の信忠には「勘九郎」の名を与えており、この伝統には従っていません(;^_^A

そして信長は翌年…つまり天文16年(1547年)、13歳の時に初陣を果たします。

他の戦国武将でいうと、徳川家康が15歳、武田信玄が15歳、上杉謙信が14歳のときに初陣しているので、少し早いほうだったと言えるでしょう。

『信長公記』には初陣の際の信長の格好についても記されていますが、

紅筋の頭巾・陣羽織・馬にも鎧と、ハデハデしい格好でした(;^_^A

「くれない筋のづきん(紅筋の頭巾)」とは、

『日本国語大辞典』によれば、「紅の横筋文様を織り出した織物の一種」なんだそうです。

信長はこの格好で初陣することになるのですが、その攻める場所に選ばれたのは吉良大浜でした。

初陣の日付はわからないのですが、

『信長公記』には今川軍の兵士が送られていたところを攻めた、と書かれており、

今川と織田は天文16年(1547年)の途中の9月頃までは敵対関係にはなかったので、天文16年(1547年)の9月~12月のことだったと考えられます。

信長が攻めた大浜の領主は長田重元(1504~1593年)でした。

この長田重元は松平広忠の家臣であったようなので、

織田信長は松平に属する大浜城を攻撃しに行ったことになります。

そして、この頃、松平と結んでいた今川軍の兵がいくらか大浜城に送られていたのでしょう。

初陣は基本、幸先の良いスタートが切れるように、難しい相手は選ばないものです。

今回、大浜が選ばれた理由は、『碧南の民話』によれば、

大浜城主の長田重元が岡崎城に出かけていて留守だと織田氏に内通した者から聞いていたため、

城主がいない場所を攻めるのは楽だと考えられたからでした。

『信長公記』には、大浜に行って各地に火をつけて翌日帰った、とだけ書かれていますが、

『碧南の民話』によれば、

長田重元は内通した者がいると知り、あわてて夜のうちに帰ってきて信長軍を待ち構え、信長軍に戦いを挑みました(現在の碧南市天王町付近)

不意を突かれた形で戦闘になった織田信長は多くの兵士を失って敗れ、付近の民家や極楽寺に火をつけて体裁は繕って退却していった、死んだ織田軍の兵を弔って作られた塚が13個あったので、人々は十三塚(じゅうさづか・とみづか)と呼んだ、と現地では伝えられているそうです。

現在、碧南市に「十三塚」という地名は残っていませんが、

碧南市向陽町には、昔「十三塚(とみづか)」と呼ばれた地域があったそうですので、ここが戦いの地であったのでしょう。

『信長公記』には書かれていませんが、現地の伝承を信じるならば、

織田信長はホロ苦?デビューだったことになりますね💦

(ちなみに戦った相手の長田重元は大浜一筋な人で、その後大浜に作られた城を任され、1593年大浜で亡くなっています)

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