前回のマンガで紹介したように、
天文17年(1548年)8月、斎藤利政は織田信秀によって、おそらく天文13年(1544年)の戦いの際に奪われていた大垣城を包囲しますが、
この戦いのときに、世にも奇妙なできごとが起こるのです😱
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇名刀「あざ丸」(痣丸)
『信長公記』には次のような怪異譚が載せられている。
「爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさされたり。此の刀、陰山下掃部助求め、さし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ居陣のところ、さんさんの悪き弓にて、木ぼうをもって城中より虚空に人数備への中へくり懸け候えば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き候えば、又二の矢に右の眼を射つぶす。
其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩う。「此の刀所持の人は必ず目を煩うの由風聞候。熱田へまいらせられ然るべし」と、皆人毎に異見候。これに依て熱田大明神へ進納候てより即時に目もよくまかりなり候なり。」
…この戦いのとき不思議なことがあった、天文13年(1544年)9月22日の美濃での戦いの時に、千秋季光は、平景清が持っていたという刀、「あざ丸」を身に着けたまま戦死したが、この刀を、陰山一景が手に入れ、これを腰に差して大垣城の隣の牛屋山大日寺の中に陣を構えて床几に座っていたところ、非常に強い勢いで木鋒の弓矢(先がとがっておらず、丸くなっている弓矢)が大垣城中から飛んできて、陰山一景の左目に当たった、一景がその矢を抜くと、今度は右の目に命中した。
その後、この「あざ丸」を丹羽長秀が手に入れたが、長秀は眼病に悩まされるようになった、「この刀を持っているものは必ず目のことで苦しむという噂を聞きます、熱田神宮に奉納なさってはいかがでしょうか」と、どの人も皆勧めるので、熱田神宮に奉納したところ、たちまち眼病が治ったという…。
今回の主役である「あざ丸」は、長さ約55センチほどの刀(脇差)です。
女子高生が使う「ありがとうございます。」の略の
「あざます。」の略の
「あざ。」(あざまる)ではありません(;^_^A
「あざまる水産」とも関係ありません。
なぜ「あざ丸」というのかというと、
刀のつば元に黒いあざのような部分があるのですが、
これには、藤原景清(源平の戦いの際に平家方に立って戦った武将。「悪七兵衛」と呼ばれる猛将で、屋島の戦いの際に戦った相手の兜の錣[しころ]を引きちぎったという)が刀を見たときに景清の顔のあざが映って、
それが刀に移動してできたものだ、という言い伝えがあります。
さて、このあざ丸を持っていた陰山一景が天文17年(1548年)の大垣城攻めの際に、なんと両目に矢がささり、
それを受け継いだ丹羽長秀も眼病で苦しんだ…
というのですが、盲目であった藤原景清の怨念の故でしょうか。
藤原景清が盲目であったというのは伝承なのですが、
「日本伝承大鑑」内の記事によれば、
景清が盲目になったのは源氏の世を見たくないので自らえぐり取ったのだといいます(◎_◎;)
大垣攻めの際に両目を失った陰山一景はこの場面しか登場せず、その後どうなったのかも不明なのですが、
『美濃国諸旧記』にはこの場面について、次のように少し詳しく書かれています。
「大垣の近所、牛谷の寺内を焼払いて、敵に働かんとす。其時即ち牀几に腰をかけて諸卒を下知して居ると、流れ矢一筋、寺内より飛び来って、蔭山の左の眼へ二寸許り射込みたり。其矢を抜きて捨てければ、又矢一つ飛び来りて、右の眼を射潰されたり。一度に両眼を盲いたる事、是れ只事にあらずと風説しける。」
『信長公記』の内容にプラスされているのは、
①陰山一景は大日寺(もしくは大日寺の寺内町のことか?)を焼き払おうとしていた
②左目に刺さった矢は二寸(約6㎝)ほど刺さった
③人々は両目を一度で失ったことはただ事ではないと噂しあった
…の3点です。
その後あざ丸は丹羽長秀によって熱田神宮に奉納された、と『信長公記』にあるのですが、
あざ丸は現在も熱田神宮にあり、定期的に公開されています。
ちなみに、「あざ丸」とネットで検索すると、
女性キャラクターの画像がいっぱい出てくる。
これは、「天華百剣」という、刀を女性キャラクター化したゲーム・アニメのものらしい。
うーん、大丈夫なんだろうか(◎_◎;)
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