前回のマンガで述べたように、天文18年(1549年)説~天文21年(1552年)説と幅はありますが、
この期間中に織田信秀は亡くなりまりました(伝染病説や、脳梗塞説など死因も様々)。
そしてその死は、色々なところに影響を与えていくことになります。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇万松寺の葬儀
万松寺と言えば、名古屋市の商店街のアーケード内にある、
超ゴージャスな納骨堂で、商業主義すぎるお寺として有名ですね(;^_^A
ホームページを見るといろいろな「プラン」が紹介されています。
一部を紹介すると、
①慈穏閣(60万円~)
7段納骨堂(7分の1サイズ)の場合は60万円。
3段は180万円、2段は260万円、1段まるまるは520万円¥💰
②白龍館 彩蓮(35万円~)
普通のお墓といった感じの納骨堂。
一番安いのは35万円で、安いと思ったら7回忌プランとある。
たぶん7年間だけ骨を預かるから安いのかな。
ふつうのプランは60万円+年間管理費1万2千円のもの。
一番ゴージャスなのは1500万円(!)+年間管理費3万6千円のプラン😱
ホームページには「贅を尽くした個室。螺鈿細工と絵巻をあしらった優美な空間で永代に亘り供養いたします。」と書かれている😅
③「水晶の輝きに浄化される幻想的な場所」 水晶殿(52万円~)
インスタ映えしそうな、キラキラした空間。
骨だけを入れる水晶でキラキラした引き出しがたくさんある。
これだけふりきっているとすがすがしい😅
この万松寺は由緒正しく、
天文9年(1540年)に織田信秀により2年がかりで作られた、曹洞宗のお寺です(2016年に曹洞宗から離れ、どこにも属さない寺となっている)。
その時の敷地は5万5千坪もありました。
東京ドームが1万5千坪ですからその約4倍もの面積があったわけです(◎_◎;)
ちなみにディズニーランドは15万坪あります(;^_^A
慶長15年(1610年)の名古屋城下町建設の際に創建の場所から移転、
その時に敷地は2万2千坪に縮小します。
その後1945年の名古屋大空襲で焼失、
戦後に復興されて現在に至ります。
つまり、現在の万松寺は3代目と言うことになるのですが、
この万松寺の初代であったときに行われたのが織田信秀の葬儀でした。
『信長公記』には、
「去て一院御建立、万松寺と号す。当寺の東堂桃巌と名付けて銭施行(※僧や貧しいものに銭の施しをすること)をひかせられ、国中の僧衆集りて、生便敷(おびただしき)御弔いなり。折節、関東上下の会下僧たち余多(あまた)これあり、僧衆三百人ばかりこれあり。」
…とあり、国中の僧侶だけでなく、旅の修行僧もかき集めた盛大なものであったようです(僧侶合計300人!)。
織田氏の財力がわかりますね(;^_^A
そしてこの葬儀の中心人物となったのは、織田信秀の正妻土田御前の2人の息子、
織田信長と織田信勝でした。
織田信長に付き従ったのは、林秀貞・平手政秀・青山信昌(加納口の戦いで戦死した青山与三右衛門の弟)・内藤勝介の4家老たちであり、
信長の弟、信勝には、柴田勝家・佐久間盛重・佐久間信盛(『信長公記』には「佐久間次右衛門」とあり、佐久間信盛は右衛門なので一致しないが、「佐久間次衛門」なる人物が確認できないため、佐久間右衛門の誤記ともいわれている)という豪華メンバーに加え、長谷川・山田(名前は載っていないが、天理本では長谷川宗兵衛、山田弥右衛門と書かれている。長谷川宗兵衛は信長の側近となる長谷川秀一の父とされる。山田弥右衛門はのち丹羽長秀に仕え、野木庄兵衛と名乗った)が付き従う。
厳かに葬儀が行われているところに織田信長が焼香をしに現れるのですが、その時の服装がすさまじく、
『信長公記』には、
「長柄の大刀、脇差を三五縄にて巻かせられ、髪は茶筅に巻き立て、袴も召し侯はで」
織田信長は葬儀にいつもの傾奇ファッションで現れたのですが、
今回はいつもより過激に、
なんと袴を身につけていませんでした(◎_◎;)
一方の弟の信勝は「御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴めし侯て、あるべきごとくの御沙汰なり」…きちんと肩衣・袴を身に着けていました(当たり前の服装なのですが)。
そして信長は、焼香の際に、あの有名な事件を起こすわけですね(;^_^A
『信長公記』には、次のように書かれています。
「仏前へ御出であって、抹香をくわっと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け御帰り」
焼香に使う抹香(マッコウクジラはおなかの模様が抹香に似ているからそう名付けられたのだとか)を仏前に投げつけるというすさまじいことをしてその場を去っていった。
一同あ然となり、「例の大うつけよ」(やはり大うつけだ)となったのですが、
筑紫(福岡県北部)から来た旅の僧だけは、「あれこそ国は持つ人よ」(あのお方は国をまとめる力がある)と評価したといいます(なんという慧眼!)。
葬儀後、
「末盛の城 勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門 、此の他歴々相添え御譲りなり」と『信長公記』に記されているように、
織田信秀が居城としていた末盛城は、織田信勝が受け継ぐことになり、その信勝には先に述べた柴田勝家・佐久間盛重などの面々が家臣として従うことになりました。
ここで1つ不思議なことが起きたことがわかります(◎_◎;)
末盛城は、織田信秀が居城としていたことから、その後継者が受け継ぐべき城でした。
それなのに、織田信長ではなく、織田信勝が得ている。
それに加え、『信長公記』に「三郎信長公は「上総介信長」と自官に任ぜられ侯なり」とあるように、
弾正忠家の当主が代々名乗ってきた「弾正忠」ではなく、「上総介」を名乗っています(史料上で最初に見えるのは天文23年[1554年]11月16日の書状)。
一方で、織田信勝は天文24年(1555年)5月上旬に「織田霜台御史」と呼ばれており、
「霜台御史」とは弾正忠のことですから、弾正忠と名乗っていたことがわかります(◎_◎;)
人々は「うつけ」の信長を認めず、信勝の家督を認めたという事なのでしょうか?
この後、信長は自由に行動していることから考えると、
信勝単独の家督相続であったとは考えづらく、
信長と信勝で家督が分割して相続された、と考えるべきでしょうか。
しかし、横山住雄氏によれば、信勝の支配範囲は、末盛城を中心とした愛知郡東部と、海東郡の一部にとどまっていたようで、そうなると信長の支配地域の5分の1程度ということになり、信長は「末盛城」と「弾正忠」を譲る代わりに多くの土地を得る…名より実を取ったのでしょうか(゜-゜)
しかし、信長としては単独相続ができなかったわけで、それは本人のうつけ的行為のためなのですが、信長としては面白くなく、その怒りが抹香投げにつながったのかもしれません。
尾張国内で清洲織田家などが弾正忠家と敵対し、今川氏の圧力も強まる中、信長と信勝との関係も不穏なものになっていく…尾張の情勢が混迷を深める中、信長は積極的に行動していくことになります🔥
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