1548年から長く続いてきた清須織田家(守護代を務める本家。織田彦五郎[勝秀?])と弾正忠家(清洲織田家の奉行を務めていた分家。織田信長)の7年戦争は、
いよいよ決着の時を迎えます🔥
※マンガの後に補足を載せています。
〇織田勝秀と織田信光の死
織田勝秀は養子で清須織田家を継いだという説もあり、
終始、「小守護代」と称される坂井大膳をはじめとする家老たちに牛耳られていましたが、その勝秀の最後は無残なものでした😥
事の始まりは、同輩の家老たちを萱津の戦いや中市場の戦いで失い、心細く感じた坂井大膳が、織田信長の叔父で守山城主・織田信光に「彦五郎殿と孫三郎殿両守護代に御成り候え」(守護代職を織田勝秀と織田信光殿で分け合いましょう)と味方になるように持ちかけたことでした。
これを織田信光は受け入れ、約束の起請文を7枚も書いて坂井大膳を安心させますが、
実はこの話を織田信長にすでに伝えており、織田信長と織田信光は「清洲宥め取りまいらせらるべきの間、尾州下郡四郡の内に於多井川とて、大かたは此の川を限りての事なり。孫三郎殿へ渡しまいらせられ候えと御約諾の抜公事なり」…織田信光が清須城をだまし取ることができれば、庄内川を境に、尾張南部の川東2郡を織田信光に与える、という秘密の約束を交わしていました(◎_◎;)
天文23年(1554年)4月19日、織田信光は坂井大膳の味方をするふりをして清須城の南櫓に入ります。
翌日は、坂井大膳があいさつをするために南櫓に向かうことになっており、
信光はこれを待ち構えて暗殺するために刺客を隠し置いていました。
しかし大膳は怪しい雰囲気に気づき、一目散に城を脱出して駿河(静岡県東部)の今川義元のもとに逃亡してしまいました。
『清須合戦記』『総見記』には違う話が載っており、それによれば、大膳には大炊助という兄がいて、まずこちらがあいさつに向かったところで首を取られ、それに気づいた大膳が逃亡したことになっています。
坂井大膳を取り逃がした信光は、織田勝秀は逃がしてはならないと、その館を取り囲みます。
これに観念した織田勝秀は自害して果てました。
『清須合戦記』は織田勝秀は1人で焼け残った建物の屋根を伝って逃げようとしたが、天野佐左衛門の槍によって突き落とされ、森可成によって首を取られた、と書かれています。
『総見記』は、屋根を伝って逃げようとしたところ、森可成に討ち取られたという説と、勝秀は自害してその首を森可成が取ったという説がある、と書いています。
お飾り状態で何もさせてもらえず、行きついた先が坂井大膳に見捨てられての切腹…。織田勝秀、悲しすぎる人生でした😣
『清須合戦記』ではさらに、見せしめのために首が城門に掛けられてさらされています(◎_◎;)
ちなみに坂井大膳はその後どうなったかというと、『信長公記』には登場しないのですが、
『総見記』によれば、受け入れた今川義元から土地を与えられ、今川が尾張を攻める際は案内役をつとめることを命じられたといいますので、
もしかすると桶狭間の戦いに加わっていたのかもしれません(;^_^A
角川ソフィア文庫の『信長公記』の注には、
「のちの坂井政尚かもしれない」と書いてあるけれども、
正尚は信長の有力武将の1人なので、
同族ではあるけれども本人ではないと思います💦
(さすがにこんなに敵対しといて信長は重用しないと思います😓)
(『定光寺年代記』には「5月清須織田彦五郎殿所害臣下坂井大善亮牢人」とあり、4月ではなく5月に織田勝秀が殺され、坂井大膳が牢人[主家を去った武士]となったと書かれている)
織田信光が清須城を奪うと、織田信長は約束通り、川東の2郡(愛知郡と山田郡?)を信光に与え、愛知郡に属する那古野城を信光に譲りました。
しかしまだ尾張の統一も完了していない織田信長にとって、
2つの郡を与える、というのはかなりキツイものであったと思います😥
しかしその後、織田信光はなんと突然死亡してしまいます。
『信長公記』には「其の年の霜月26日、不慮の仕合出来して孫三郎殿御遷化」(天文23年[1554年]11月26日、思いがけないことが起こって織田信光が亡くなった)と書かれていて、要領を得ないのですが、
「天理本」では少し詳しく書かれていて、小姓の坂井孫八郎という者のしわざであった、と書かれており、坂井孫八郎に暗殺されたことがわかりますが、その動機はわかりません。
信ぴょう性は乏しいですが、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵の『信長記』には、
家来の坂井孫八郎は織田信光の妻と不倫していて、
それがバレそうになったので先手を打って殺したのだ、と書かれています。
(『定光寺年代記』には、「11月28日織田孫三郎殿所害於那古野治用也」とあり、11月26日ではなく「28」日に織田信光が殺害された、と書かれている)
織田信光は小豆坂の戦いで奮戦して「小豆坂七本槍」の1人に選ばれ、
『信長公記』にも「一段武辺者なり」(ひときわ武勇のある者であった)と書かれているほどの勇将でした。
天文19年(1550年)の犬山城の織田信清の乱でも活躍し、
兄の織田信秀が死んだあとは織田信長を支え、
天文21年(1552年)の萱津の戦い(この戦いで家来の赤瀬清六が坂井甚介によって討ち取られている)、
天文23年(1554年)の村木砦の戦い(村木砦に家来の六鹿椎左衛門が一番乗りの功績を挙げている)に出陣。
そしてこの年の4月には謀略をもって清須城を落とすという大功をたてたのですが、まさかの最期を迎えてしまったわけです。
その死について、『信長公記』は、
「忽ち誓紙の御罰。天道恐ろしきかなと申しならし候き」(起請文の約束を破った天罰が降ったのだ、と人々は言いあった)と書いていますが、
その次に、
「上総殿御果報の故なり」(織田信長は善行により幸福を授かった)と意味深なことが書かれています。
幸福とは何かといえば、信光に与えた2郡が返ってきたということになります。
では善行とは何かというと、織田信光と違い主君筋である織田勝秀を殺さなかったからだ、とする書物があるのですが、これは織田信光との対比なので、約束をきちんと守り2郡を与えた、とするのが自然でしょう(;^_^A
織田信光の死によって一番得をしたのは織田信長である、
だから、織田信長が織田信光を暗殺させたのだ…とする説もあるのですが💦
まだまだ周りに敵が多い状態で、
頼れる叔父をこの段階で殺すかなぁ…とも思いますので、
おそらく織田信長の暗殺ではなかった、と思います。
(実際この後、尾張では混乱が起きることになります)
今川氏かもしれませんし、坂井大膳かもしれませんし、
清須織田家の家来がやったのかもしれません。
織田信長の弟、織田信勝がやらせたのかもしれません。
単なる痴情のもつれだったのかもしれません。
真相は闇の中です…(-_-;)
さて、頼れる叔父を失った織田信長には、
織田信勝との骨肉の争いが待ち構えることになります😥
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