以前のマンガでも描いたように、実の兄の織田信長に対し反乱を起こした織田達成(信勝)。
この際は稲生の戦いで大敗し、信長に謝罪して服従することになりました。
しかし、織田信勝はまだあきらめておらず、
1558年、美濃の斎藤高政(のちの義龍)と結んで、
再び謀反をたくらむのです。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇織田信勝(1536?~1558年)
母は織田信長と同じく土田御前(ほかに秀孝、信包、市を産む)。
『信長公記』には名前は「勘十郎」としか書かれていない。
諱(いみな)は長らく「信行」とされていたが、正しくは「信勝」。
しかし「信勝」と名乗っていたのは一時期だけで、
1554~1555年頃は「霜台御史(弾正忠)達成」、1557年頃は「武蔵守信成」(フィギュアスケーターではない)と名乗っています。
桐野作人『織田信長』では、「達成」の「達」は尾張の守護代、尾張大和守家の通字(代々名前に使用する字)であり、大和守家滅亡後に「達成」を名乗ることで、守護代家を継ぐ意思を表したのではないか、と書かれています。
また、織田信勝の官名は「武蔵守」ですが、
信勝は信長と対立しているときは「弾正忠」を名乗っています。
これは、信勝・信長の曽祖父の良信から代々「弾正忠」を名乗ってきた官名を受け継いだものです(織田信長は上総介を名乗っていた)。
つまり織田信勝は、「達成」と名乗り、「弾正忠」を名乗ることで、
信長に対する自身の正当性をアピールしようとしたのです。
稲生の戦いで敗れた織田達成(信勝)は、信長に服従した際に、
おそらく「信成」と改名し、「弾正忠」を「武蔵守」に戻しました。
敵対心の無いことを名前と官名で表したのでしょう。
しかしあきらめない信成(信勝)は、
ひそかに美濃の斎藤高政(義龍)や岩倉城の織田信賢と結び、信長への再度の謀反をたくらみます。
いつの年かははっきりしていませんが、おそらく弘治3年(1557年)の4月19日に、
斎藤高政は次のような内容の書状を織田信成(フィギュアスケーターではない)に送っています。
…最近は連絡できずすみません、お変わりないですか。「御意を承りたく候」(お考えを拝聴したい)。詳しいことについては使者を派遣しますのでそちらから聞いてください…
これは何とも怪しい書状です。明らかに織田信成に対し、謀反を勧めている書状でしょう(◎_◎;)
この謀反の勧めに乗った信成は、まず、謀反の下準備の1つとして、永禄元年(1558年)3月18日に龍泉寺※に砦の建設を開始します(『定光寺年代記』)。
※龍泉寺は800年ごろに最澄によってつくられたという、由緒ある天台宗の寺です。
この後、1584年の小牧・長久手の戦いの際に池田恒興によって燃やされ、
その後再建されますが1906年に放火にあい、再び灰となりますが、
なんと焼け跡から慶長小判100枚が発見され、これをもとにして再建が行われることになったそうです(スゴイ(;'∀'))
同じ頃、織田信長が品野城の攻撃を試みて失敗し、逆に山崎城を奪われる、という出来事がありましたが、
信成の言い分としては今川方に備えるため、というものであったかもしれませんが、
実際は「篠木三郷」を狙うためのものでした。
以前も奪ったことがあるので、相当豊かな土地だったのでしょう。
しかし、ケチがついたのは側近で男色の相手の津々木蔵人のあまりにも増長した態度でした。
信成は、配下の中で優秀な武士を皆、津々木のもとにつけるという厚遇ぶりで示していました。
これによって増長し傲慢になった津々木蔵人は、なんと信成(信勝)派の軍事部門を担当する柴田勝家をないがしろにするような態度をとるのです。
『中古日本治乱記』には、正月の宴会の際、勝家だけが呼ばれず、勝家は呼び忘れたのだろうと思って会場に行ったが、座席も与えられず言葉もかけられないというひどい仕打ちを受けた、とあります。
これに怒った柴田勝家は、織田信長に寝返り、織田信成が謀反を企んでいる、と報告します。
柴田勝家はこれまでも何度か信長と共に戦ったこともあり、
信成よりも信長の方が有望だとさとっていたのでしょう。
勝家から事情を聞いた信長は、仮病作戦に出ます(『中古日本治乱記』によれば勝家が提案した作戦)。これは斎藤高政のとった作戦と同じです。きっと参考にしたのではないかと思います。
『中古日本治乱記』には、村井春長(貞勝のこと。春長は1581年に出家した後名乗ったもの)が使者として末盛城に向かい、信長はこの頃調子が思わしくなく、「心神悩乱し吐血する事夥し」い状態であり、このままであれば近いうちに亡くなるだろう、「今生の名残なれば」信行(信成のこと)と対面したい、と信長が言っている、と信行に伝えた、母の土田御前が信長のようすを見に行ったところ、信長は事前に3日間断食していたので顔色が悪く(その上部屋をわざと暗くしていた)、また、口に蘇枋(黒みを帯びた紅色の染料を含み、何度もそれを吐いて見せ、苦しげな声で死ぬ前に信行に会って遺言を伝え、家督を譲りたい、と伝えたので、土田御前は急いで信行にこのことを伝えにいった…とあります。
母の土田御前や柴田勝家が見舞いを勧めた結果、永禄元年(1558年)11月12日、信成はまったく警戒することなく清須城に見舞いに向かいます。
以前の謀反も母の土田御前の懇願によって許されていたため、
殺されることはないと高をくくっていたのでしょうか。
しかしそんな甘々では戦国時代を渡っていけるわけもありませんでした。
甘々は、稲生の戦いのときもそうです。自ら先頭を切って戦う織田信長に対し、
信成はこの時出陣すらしていませんでした(母に止められたのかもしれませんが)。
そしてのこのこと清須城にやってきた信勝は織田信長の命令を受けた河尻秀隆※と青貝某によって殺害されます(「天理本」では「古志津」という刀によって殺された、とある。『中古日本治乱記』は刺客となったのは山口弘孝・長谷川秀詮・河尻・青貝であったと記し、信長秘蔵の太刀「小志津」を授けられた青貝は他の者に手柄を取られまいと気がはやるあまりに一太刀で殺すことができず、信成は母のもとに逃げ込もうとしたが、廊下にいた池田恒興によって捕らえられ殺された、とある)。
※河尻秀隆(1527~1582年)は、清洲織田家の家老・河尻与一(左馬丞)の一族であったとされ、
秀隆は清洲織田家ではなく、織田信秀に仕え、その死後は信長の家来となっていた人物です。信長に信頼され、その後順調に出世して、最後は甲斐(山梨県)一国を与えられています。
こうして信長は、自身の対抗馬となる信成を滅ぼすことに成功し、
(この時点では)尾張国内に敵対する織田家はいなくなりました。
『信長公記』には、柴田勝家はこの時の功績で後に大国の越前(福井県北部)を与えられたのだ、と書かれています。
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