社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 「あまが池」の水全部抜く!?~蛇がえの事

2023年6月29日木曜日

「あまが池」の水全部抜く!?~蛇がえの事

今回はエピソードになります😊

ホラーな話?ミステリアスな話?と思いきや、

最後には信長のピンチだった!!…という話で、

なかなか興味深いお話です(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※2ページ目は都合により公開いたしません💦

〇「あまが池」の大蛇

『信長公記』では「爰に奇異の事あり」と始まります。

「奇異」とは不思議なこと、という意味ですから、不思議なことがあった…ということです。

では、不思議なことはどんなことだったのか。

『信長公記』には、次のように書かれています。

…尾張清須の東にある、佐々成政が治める比良城のそのまた東に、南北に長い堤があったが、その西側にあまが池という池があったが、恐ろしい大蛇がいる池として知られていた。1月中旬、安食村福徳郷の又左衛門という者が、雨の降る中で堤を通っていると、太さは一抱えほどもある黒い物体がいた。胴体は堤にあり、首はあまが池に届こうかという長さであった。人の音を聞いて首を又左衛門の方に向けたが、その顔は鹿のよう、眼は星の如く光り、舌は紅の如く、手のひらを開いたかのよう(「天理本」では扇を半分開いたよう)。眼と舌が光っている様子を見て、又左衛門は身の毛がよだち、あまりの恐ろしさに走って逃げた。大野木まで行って、そこの宿の者に体験したことを話したが、それが話題となり、織田信長の耳まで届いた。1月下旬、信長は又左衛門を呼び出して、直接話を聞き、翌日、「蛇(じゃ)がえ」(池の水を抜いて蛇を見つけること)を行うことにした。比良・大野木・高田・安食・味鏡の農民たちに水汲み桶・鋤・鍬を持って集まれと命令し(「天理本」では水汲み桶のみ)、4時間ほど四方からあまが池の水を汲み取らせたが、池の水が7割になったところで、それ以上はどうしても減らなかった。そこで、信長は水中に入って蛇を見る、と言い出し、脇差を口にくわえて池に飛び込んだ。しばらくたって出て来たが、なかなか蛇を見つけることはできなかった。鵜左衛門という泳ぎの達者な者がいて、その者にも潜らせてみたが、やはり見つからなかった。そこで信長は清須に帰った…

いやあUMA(未確認動物)ですよね(;^_^A

ネッシーみたいなもんでしょうか?(゜-゜)

続いて『信長公記』はこう記します。

「去る程に、身のひえたる危うき事あり」

実は身が冷えるような危険なことがあった、というのです(◎_◎;)

それは何だったのか。『信長公記』には次のように書かれています。

…その頃、佐々成政が謀反をするという噂があり、成政は病気だと言って出仕していなかった。成政は「比良城は小城にしてはいい城だと聞き知っているだろうから、これを取り上げるために、信長は蛇がえのついでに城に立ち寄って、私に腹を切れというのではないか」と思い悩んでいた。そこで成政の家来の井口太郎左衛門という者が次のように提案した、「私にお任せください、信長を殺して見せましょう、信長は城を見るために私に城を案内するように命じるでしょう、その時私は舟に乗って城の様子を見られてはどうかと勧めます、そこで信長が承知して舟に乗りこみましたら、そこで機会を見て信長を隠し持っていた小脇差で刺し殺し、共に池に飛び込みます」しかし信長は運の強い人であったので、蛇がえをした後、城に立ち寄ることなくまっすぐ清須に帰ったので、命を失うことはなかった。大将というものは、何事にも気をつけて、油断してはならないということである…

なんと信長は暗殺されかかっていたというのです!(◎_◎;)

いったいどういうことなのか、考えてみたいと思います。

まずこの事件はいつ起きたのか。

佐々成政が比良城の城主になっていますが、成政の父・成宗は1555年に亡くなり、後を継いだ次男の孫介(長男の政次井関城主)も翌1556年の稲生の戦いで戦死していますので、1557年以後、ということになります。

また、謀反が疑われるような状況であったのは、1557年か1558年頃。岩倉織田家と戦っていたころで、織田信成(信勝)とも微妙な関係だった時期です。

比良城は岩倉城まで5.4kmとほど近い位置にあり、信成が狙う篠木まで8.6㎞と、なかなか絶妙な位置にありました。

どちらからも勧誘される理由はあったわけですね(゜-゜)

信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、次のような話が載っています。

…弘治2年(1556年)春、織田達成が挙兵する前に、佐々成政を味方に引き入れた。織田信長は成政が謀反するという噂を聞いて、成政のことを疑っていたところに、前野宗吉(長康の兄)たちが清須城にやってきたが、成政は来なかったので、やはり謀反か、なにか知っていることはないか、と信長が前野たちに尋ねた、それに対し前野たちは、成政が来なかったのは謀反を企んでいるからではなく、真実は腹の病でここ数日伏せっているからです、決して言い訳などではありません、と答えた。その後織田達成が謀反したが、成政は腹の病のため参加できなかった、これを知った信長は、8月12日、前野宗吉に宛てて、成政のことについてはそなたらの言う通りであった、迷惑をかけた、という書状を送った…

『武功夜話』では佐々成政の謀反の噂は弘治2年(1556年)8月24日に起きた稲生の戦いの前であったことになっていますね~💦

そうなると、佐々成政はまだ城主となっていなかった段階で謀反を考えていた、ということになってしまいますね(◎_◎;)

ここに矛盾が生まれてしまいますが、『武功夜話』では孫介は成政の弟とされているのでつじつまは合うようです。

また、稲生の戦いではこの孫介が信長方として参戦して戦死していますので、佐々家は織田信長方につき、達成(信勝)方につかなかったことは確かなので、その点でも合っているのですよね(゜-゜)(また、出典は不明であるが、和田裕弘氏の『織田信長の家臣団』では織田方について戦死した山田治部左衛門は笹成政の義兄弟であったとしており、佐々成政が達成方につかなかったことがここからもわかる)

稲生の戦いに佐々成政が参戦していたかどうかはわからないのですが、

描写が無いのは腹の病のためか、様子見か、一度謀反を誓った達成への義理立てか、参戦を見送ったからかもしれません。

しかし『武功夜話』は信ぴょう性に疑問がある書物であり、

佐々成政の登場が佐々孫介より遅れていること・1548年の小豆坂の戦いで佐々政次・孫介は出陣しているのに佐々成政は参戦していないことから、成政は孫介の弟とするのが正しいと考えられることから、

やはり謀反の噂のタイミングとしては、岩倉織田家との決戦である浮野の戦いが起きた弘治3年(1557年)7月12日の前の1月、というのが現状一番自然なのかな、と思います(;^_^A

「いつ起きたのか」は一応弘治3年(1557年)の1月、ということにしておいて、

次は「なぜ謀反を考えたのか」ということですが、

これはまったくわかっていません(◎_◎;)

佐々孫介が死んだ後なので、恩賞の件でもめたのかもしれませんが、よくわかりません💦

次は信長暗殺計画の内容に触れていこうと思います。

実際に謀反を企んでいたかどうかはよく分からないところですが、

謀反を疑われた佐々成政は重臣の井口太郎左衛門と謀って信長暗殺を計画します。

ここで蛇がえの話が出てきますが、蛇がえのために信長が比良城の近くまで来ることになった→不安になった成政が信長暗殺を計画、という流れではなく、もしかすると、大蛇云々の話は成政方が作らせたもので、好奇心旺盛な信長を誘うための作戦であったかもしれません(◎_◎;)

それにしても、太田牛一は佐々成政による信長暗殺計画があったことをどのようにして知ったのでしょうね??(;^_^A

成政の関係者からその情報を知ったとして、なぜ佐々家のマイナスになるようなことを書いたのでしょう?

『信長公記』が書かれたのは佐々成政の没落後であり、忖度する必要性がなくなったからでしょうか?

ちなみに「天理本」では佐々成政云々の話は丸々カットされています。

〇現存する「あまが池」

「あまが池」は大きさは数分の1サイズにまで小さくなっているようですが、現在も蛇池神社(住所は名古屋市西区山田町大字比良)内に残っています。

蛇池神社にある立て札には、信長が帰った後も「10日ほど乾かし続けたが(大蛇は)ついに見付からなかった。その後この池を蛇池と呼ぶようになったという」という後日談が書かれています。

また、現存していませんが、当時は「あまが池」以外にも池や沼が点在していたようです。

このような変化は、蛇池周辺の地形にも見られます。

大きく変わったのは川です。

マンガに地図を描く際に大変困りました。今と全然違うんですもん(;^_^A

まず今の地図を参考に描いていたら、近くにあった川の名前が気になりました。

「新川」…?

もしかして新たに作られた川で、当時は無かったのでは…?と思い調べてみると、

江戸時代の頃、合瀬川と大山川は庄内川に流れ込んでおり、

大雨の際しばしば庄内川を氾濫させたので、

その対策として1784年~1787年に新川を新たに作り、合瀬川・大山川が庄内川ではなくこちらに流れ込むようにした…というのですね。

つまり戦国時代に新川はなかったわけです。

また、どうやら合瀬川も戦国時代には無かったようですね(◎_◎;)

江戸時代に農業用水として人工的に作られた川のようです💦

そしてもう一つ。『信長公記』にも出てくる「堤」です。

この堤は『愛知県内に築かれた室町時代の河川堤防の考察』によれば、

なんと斯波義重(1371~1418年)の時に大山川などに沿って作られたもので、「武衛堤」と呼ばれていたのだとか。

これは比良~大野木周辺に一部残存しているようです。


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