『信長公記』首巻には、いくつか織田信長の人となりがわかるエピソード回がありますが、
今回は、織田信長のすさまじさがわかるエピソードを紹介します😱
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇火起請(ひぎしょう)
尾張国大屋(大矢町)に織田信房の家来、甚兵衛という庄屋がいました。
この大屋の「ならび」(隣)に一色という村があった、と『信長公記』に書かれているのですが、
この一色というのはおそらく片原一色町のことだと考えられるのですが、
大矢町から片原一色町まで直線距離で約6kmあり、とても隣村とは思えません(;^_^A
ま、それは置いといて、この一色村に左介という者がいました。
大屋の甚兵衛とは昔なじみの中であったようです。
ある年の12月中旬、甚兵衛は年貢を納めるために清須に行きましたが、
左介はなんと、甚兵衛の留守を狙って甚兵衛宅に盗みに入りました!(◎_◎;)
しかし甚兵衛の奥さんは家にいたので、物音に気付いた奥さんと左介は暗闇の中もみ合いになり、
左介は逃走しましたが、奥さんは左介の持っていた刀のさやを奪い取りました。
この刀のさやは左介のものではないか、と考えた甚兵衛が守護の斯波氏に訴え出たところ、
火起請で決着をつけることになりました💦
火起請とは、中世においてよく行われた裁判のやり方で、
よく焼いた鉄を手に乗せ、
それを少し離れた場所に置くことができれば無罪、
できなければ有罪、というものでした(◎_◎;)
(火傷の具合で判断するやり方もあります。
火傷がひどいほうを有罪とします)
滋賀県日野町には、1619年に行われた火起請の記録が残っています。
東郷と西郷という2つの集落がありましたが、
その周辺の山の所有権(入会権)が東郷に決まったことに西郷が怒り、火起請で決着をつけることになったものです。
東郷の代表は庄屋の喜助で、
西郷の代表は浪人の角兵衛でした。
代表2人は神社の神前で熱した鉄斧を無事に手に取れるかを競ったのですが、
西郷代表の浪人の角兵衛は自分の取る鉄に、
火傷をしないように細工をしていたことが事前の検査でバレてしまい、
浪人角兵衛が敗北し、引き回しのうえ磔(はりつけ)になったそうです💦
(参考:新近江名所圖会 第298回 焼けた鉄斧をつかむ鉄火裁判の記念碑 ー日野町雲迎寺ー)
古代には盟神探湯(くがたち)というのもありました🔥
熱い湯に手を入れて火傷の程度で判断するものです。
これは中世以降も「湯起請(ゆぎしょう)」という形で続きます。
当時は警察とかもないですし、わざわざ裁判所にいくのも大変ですから、
このような方法で各村で決着をつけていたのです。
戦いに勝利しても、その後片手が使えなくなってしまう者が多くいたそうですが、
その場合村が責任もって最後まで面倒を見たそうです(そうでもないと誰も代表にならない)。
話を戻すと、刀のさやという、立派な証拠があるにもかかわらず、
火起請で決着をつけるということになったのには理由がありました。
一色村の左介は、池田恒興の家来であったのです。
池田恒興(1536~1584年)の母は養徳院(1515~1608年)といい、
織田信長の乳母を務めました。
幼いころの信長はなかなか乳を吸おうとしなかったようですが、
なぜか養徳院の乳だけは吸ったそうです。
そのこともあって信長は母子ともども大切に扱い、
池田恒興は10歳の時から小姓として信長に仕え、母の養徳院も土地を与えられるほどでした。
後に池田恒興は長久手の戦いで戦死しますが、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)は養徳院に謝り、
「これからは私を恒興だと思ってください」と言ったそうです。
池田恒興はこのように織田信長との縁も深く、大切に扱われていた人物であったのに対し、
甚兵衛の主人である織田信房は、
「小豆坂七本槍」の一人で、稲生の戦いでも奮戦した勇士ですが、
「織田」と名前がつくものの、戦いで活躍したため「織田」を名乗ることが許されたものであり、織田一族ではありませんでした。
立場としては池田恒興の方が上であり、
守護の斯波氏としては実力者の織田信長の寵臣である池田恒興の家来である左介を犯人にすることはできず、神に委ねることにしたのでしょう(-_-;)
さて、火起請は三王社(山王宮日吉神社)の前で行われることになりましたが、
ここで神の意思に逆らう恐ろしい出来事が起きました。
左介が熱した手斧を取り落としたのに、池田恒興の家来の者たちは手斧を奪い取って、今のことを無かったことにしようとしました。
そこに織田信長が偶然?鷹狩りの帰りに通りかかり、
「何事に弓・鑓・道具にて人多く候哉」(どうして弓や槍を持った者たちが多く集まっているのだ)と不思議に思い、
(武器を持って集まっていたのですね(◎_◎;)それは物騒すぎる…池田恒興の家来たちが武器で脅そうとしたのか??)
甚兵衛側・左介側双方から事情を聞きます。
すると信長の顔色がさっと変わります。すべてを理解したのでしょう。
そして信長は「何程にかねをあかめてとらせたるぞ。元のごとくかねを焼き候え。御覧候わん」(どれくらい手斧を熱したのか。さっきやったように手斧を焼いて見せよ)と言い、
先ほど手斧を熱した係の者が手斧をよく焼いて、このようにして握らせました、と言うと、
信長はなんと、
「我々火起請とりすまし候わば左介を御成敗なさるべきの間、其分心得候え」(自分が火起請をやる、やり遂げられれば左介を成敗する、覚悟せよ)と言ったのです(◎_◎;)
そして、『信長公記』は次のように続けます。
「焼きたる横斧を御手の上に請けられ、三足御運び候て柵に置かれ、是を見申したるかと上意候て、左介を誅戮させられ、すさまじき様体なり」(焼いた手斧を手の上に置き、三歩歩いて柵の上に置いた。信長は「これを見たか」と言って、左介を死刑に処した。ものすごい出来事であった)
おそらく作者の太田牛一もその目で見ていたのでしょう。
「すさまじい」とは、「ものすごい」とか、「恐ろしい」という意味があります。
織田信長の火起請は見ているものにものすごい衝撃を与えたようです。
織田信長、なんという決断力、行動力…!😱
しかし、信長はなぜ自身で判決を下さず、自ら火起請を行う必要があったのでしょう。
信長もかなりの火傷を負ってしまったはずです(信長はその後も桶狭間の戦いに直接参加するなど、普通に活躍していることから、おそらく大丈夫だったのでしょうが…)。
おそらく、左介が犯人だろうと考えていたと思いますが、
乳母の子、池田恒興の家来であったことに配慮したものでしょうか。
「天理本」には、左介が手斧を取り落とした…と書いてあるところの前に、
「譬は」の語句が挿入されています。「例えば」、という意味です。
そうなると、この一文の意味が変わってきます。
「例えば左介が手斧を取り落とすようなことがあったとしても、もみ消すつもりでいた」…ということになります。
そうなると、左介は成功した、ということになります。
「天理本」首巻を現代語訳された、かぎや散人氏は、次のような説を述べておられます。
…左介が成功するように、手斧はあまり焼かなかった。だから成功した。事情を聞いた信長は池田恒興の家来の者たちが何か細工をしたのだな、とピンと来て、先ほどと同じように焼いて見せよ、と言った、そして少しだけ焼かれた手斧を持って散歩歩いて柵の上に置いてみせた…
これなら、信長の手は無事ですし、色々と納得できます。
先に述べたように、実際に近江でも火起請で細工をしていた、という事例がありますし。
「天理本」でも「よくあかめ申」(よく焼いて)、信長に手渡した、と書いてあるので、少しうーん、となりますが、見ていた側にとってはそこまでわからなかったのでしょう。
この火起請の事件、実際は、かぎや散人氏の説の通りであったのではないかと思いますが、どうでしょうね…(;^_^A
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