丸根・鷲津砦が陥落し、佐々・千秋隊も敗れます。
状況は刻々と悪化していく中、
織田信長は周囲の制止を振り切って、
今川義元に決戦を挑もうとしていました…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇桶狭間へ向かう織田信長
丸根・鷲津砦が陥落し、佐々・千秋隊も敗れた織田軍。
それを見て、今川軍は相当気が緩みつつあったと思いますが、
さらにその気の緩みを促進させるような出来事が起こります。
『信長公記』天理本によれば、
途中から信長本隊についてきていた見物人たちが、
佐々・千秋隊が敗れたのを知って、
「急ぎ帰れと申し、皆罷り帰り候き、弥(いよいよ)手薄に成候也」
とあるように、もう負け戦だ、と判断して、ぞろぞろと帰ってしまったといいます。
今川軍はこの様子を見て、士気が落ちた織田軍は兵士の逃亡まで始まっている、
この戦いは早く終わるかもしれない、と考えたことでしょう。
その中で、織田信長は前進を続けようとしますが、
家来の者たちが信長の馬の轡に取り付いて、
「中島砦へ向かうと敵から丸見え、小勢なのがばれる」と引きとめようとします。
この時止めようとした家来の者たちは、『信長公記』には「家老の衆」としか書かれていませんが、
「天理本」には、「林・平手・池田・長谷川・花井・蜂屋」であったと記されています。
それぞれ、林秀貞(家老)・平手久秀?(平手政秀の子)・池田恒興(信長の乳母の子。以前のマンガで紹介)・長谷川与次?(長谷川橋介[前回のマンガの解説文で紹介]の兄)・花井三河守?(星崎城の守将?)・蜂屋頼隆(土岐氏の一族。以前のマンガで紹介)だと思われます。
(※『中古日本治乱記』小瀬甫庵『信長記』『総見記』は引きとめたメンバーを林秀貞・池田恒興・毛利新助・柴田勝家とする。毛利新助、そんなにえらかったのか…?)
しかし織田信長は、次のように演説して制止を振り切り前進します。
「各よくよく承り候え。あの武者、宵に兵粮つかいて、夜もすがら来り、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍ニシテ大敵ヲ怖ルル莫カレ。運ハ天ニアリ。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引付くべし。是に於いては、ひ稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕をなすべからず。打捨たるべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」
…今川軍は昨晩から兵糧入れや砦攻めでつかれている、
しかしこちらはつかれていない。
「少ない軍勢だからといって大軍を恐れてはいけない。勝敗は天が決める」という言葉もある。
敵が押して来れば引き、敵が引けば追撃せよ。逃げるものをひねりつぶすのはたやすいことだ。
倒した敵の首や武器は放置してとにかく前進せよ。
この戦いに勝てば、この戦いに参加した者たちの名は、末代まで家の名誉となるだろう。
ひたすらに励むのだ!
…という意味になるでしょうか。名演説ですね(◎_◎;)
その名演説を終えた後に、
佐々・千秋隊の生き残り(もしくは、先行して出撃していた部隊?)の、
前田利家・毛利長秀・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人が今川方の首を持ってやってきたので、
この者たちにも先の演説と同じ内容を言い聞かせます。
※ここで出て来たメンバーを紹介!
・前田利家(1539?~1599年)…荒子城主前田利春の子。幼名は犬千代。1551年頃から信長に仕え、その後元服して前田又左衛門利家と名乗る。萱津の戦いで初陣、その後稲生の戦い・浮野の戦いでも活躍し、「槍の又左」と呼ばれるようになる。1558年、従妹のまつ(この時11歳!💦しかも翌年出産…)と結婚する。1559年、前田利家の道具を盗んだ拾阿弥を殺害しますが、拾阿弥は織田信長のお気に入りであったので、出仕停止の処分を受けてしまいます。一説には、織田信長と拾阿弥・前田利家は男色関係にあり、三角関係のもつれから起きた殺人事件ともいわれています。浪人となった前田利家は桶狭間の戦いに信長に無断で参加、活躍して信長の怒りを解こうとします。
・毛利長秀(1541~1593年)…尾張守護・斯波義統の子。義銀の弟。斯波義統の殺害後、毛利十郎に育てられる。後に秀頼と名を改める。豊臣姓の名乗りも許されているから、「豊臣秀頼」ということになるのだが、本物の豊臣秀頼が生まれた2か月後に死去。2か月間主君の子と同じ名前だったわけだが、大丈夫だったんだろうか(;^_^A
・毛利十郎…父は加納口の戦いで戦死した毛利十郎とされる。父の名前が敦元とする説もあれば、こちらが敦元という説もあってはっきりしない💦尾張守護・斯波義統が殺された後、その子を養子とするが、これが毛利長秀である。つまり養子と一緒に戦ってたんですな。ほほえましい…(?)😊
・木下雅楽助…中川重政の弟。その後長く歴戦し、1584年の小牧・長久手の戦いで戦死した。
・中川金右衛門…中川重政の一族?後に伊勢の大河内城攻めに参加。
・佐久間弥太郎…丸根砦で戦死した佐久間盛重の子。先祖の地である奥山荘(建仁の乱の城氏の持っていた土地ですね!)にちなみ、後に奥山盛昭と名乗る。文禄の役まで歴戦した。
・森小介…おそらく森氏の一族?ここでしか出てこない。
・安食弥太郎…名は重政。後に小牧・長久手の戦いで徳川方として参加。
・魚住隼人…はじめは斯波氏に仕えた。1568年、近畿の池田城攻めで活躍。
〇今川義元はどこにいたのか!?
今川義元の本陣はどこにあったのか。
主流となっているのは「桶狭間古戦場公園」「今川義元本陣跡碑」が存在する、桶狭間北という地名の所です。
他には、国指定史跡にもなっている「桶狭間古戦場伝説地」がある豊明市栄町。
ここには今川義元の墓や「今川義元公本陣跡碑」などがあります。
他にも中島砦のすぐ南の丘陵、漆山にあったという説や、
大高城と桶狭間の中間地点の殿山付近にあったという説もあります。
では、桶狭間の戦いが行われた1560年になるべく近いときに成立した書物の記述を見てみましょう。
①『松平記』(慶長年間[1596~1615年]頃。1637・38年頃という説もあり)
「今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、
昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、…」
…とあり、今川義元は「鳴海桶狭間」にいた、とアバウトにしか書かれず、場所は特定できません💦
しかし、「其辺の寺社方」とあるので、付近に寺社があったところだとわかります。
これだと、殿山説は付近に集落がほぼないので適さないことになります。
桶狭間古戦場説だと近くに長福寺(1538年に建立され、のちに今川義元の供養寺となる)があるので、可能性は高くなりますね(゜-゜)
漆山説だと、少し離れたところに鳴海の集落があるので、そこから酒を持ってきた可能性が出てきますが、鳴海は織田信長の勢力範囲でもあるんですよね…。
②『三河物語』(1630年頃)
『三河物語』には、今川義元は大高城に入ったのち、棒山の砦(丸根砦)を巡検し、そこで長い軍議をした、と書かれた後、突然、信長の兵が山を登ってきたので義元の兵はわれ先に逃げた…という描写が現れます。
とりあえず山の上にはいたようですが、居場所がよく分かりません。丸根砦が見える位置にある山の上でしょうか。でもそうなると大高城に近く、信長に攻められた時に逃げこめそうなものです。うーん、『三河物語』で居場所をつかむのは至難の業と言った方がよいでしょう(;^_^A
③『中古日本治乱記』(1677年頃)
『中古日本治乱記』はまず、桶狭間の戦いが19日・20日と2日間にわたっています。
1日目は佐々・千秋の戦死までです。「瀬山」にいる今川軍の先手を攻撃して討ち死にしています。
2日目、大雨の中で織田軍は動き、「道より遥に隔つ西の山陰に陣取」っていた今川軍の先陣を攻撃し、「田楽坪」にいて酒宴をしていた本陣を襲撃した。
…『中古日本治乱記』からわかるのは、「今川軍の先陣は道から遠く離れた西の山陰(瀬山?)に陣取っていた」「今川本陣は田楽坪にあった」ということです。
「田楽坪」はちょうど現在の「桶狭間古戦場公園」があるところです。
「道から遠く離れた西の山陰」はおそらく先に述べた「瀬山」のことだと思われるのですが、実は「瀬山」という地名は現在残っておらず、「瀬山」がどこの山のことなのかわからないのです(-_-;)
候補となるのは先陣がいたとされる「高根山・幕山・巻山」です。
高根山とすると、道に近い方なので、幕山か巻山あたりになるでしょう。
「山陰」とは山の北側をいうそうなので、そうなると北の方にある高根山かもしれませんが、
そうなると道に近くなるので、幕山か巻山の北側という事なんでしょう(;^_^A
④『総見記』(1685年)
「桶狭間の山下の芝原に敷皮しかれ義元それに坐し休(やすら)い勇み誇りける處…」とあり、
桶狭間にあるどこかの山の下にいた、という非常にアバウトな記述(-_-;)
⑤『三河後風土記』(1610年・正保年間[1644~1648]という説もある)
こちらは15~20日の6日間(!)に渡って戦闘が繰り広げられています。
鷲津砦が陥落したのが15日夜。
この日に中村城・鳴海城を守っていた山口父子が今川方に寝返っています。
その後丸根砦も陥落。
19日の夕方から雨が降り注ぎ、しかも向かい風であったため、今川軍本陣は「鳴海桶狭間の内にて田楽が窪」から動けなかった。
20日の朝、佐々・千秋隊が「瀬山」に陣取っていた今川軍先陣を攻撃した…とあります。
今川軍の先手は「瀬山」にいた、というのは『中古日本治乱記』と同じですね。違うのは本陣は「田楽が窪」にあった、と言っているところです。
「田楽が窪」の地名は現在も残っており、「沓掛町」にあります。
今川義元は「田楽が窪」にいた、とする書物は他にもあり、
『武徳編年集成』にも「桶狭間田楽が窪義元の陣所」とあり、
また、天正15年(1587年)に駿河清見寺の僧、東谷宗果が、義元の軍師であった太原崇孚雪斎の33回忌について書いた記録には、「5月19日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」…とあり、今川義元が田楽窪で戦った後、自ら首をはねた、と書いてあります。
では、それでは今川義元の本陣は「田楽が窪」にあったのでしょうか?(゜-゜)
1628年、俳人・斎藤徳元(斎藤道三の曽孫にあたる)は、東海道を西から東へ移動した際、「馬手」(右手)に「小高き古塚」があった、これは昔織田信長公が駿河の今川義元と「夜軍」(夜戦)をし、戦いに負けてこの場所で死んだ今川義元の「古墳」であると聞いた、と『関東下向道記』に記しています。
これを確かだとするならば、今川義元は東海道より南側で死んだことになります。
…となると、東海道より北(左手)に3㎞も離れた「田楽が窪」は今川義元が死んだ場所として正確ではないということになります。
それではなぜ、清見寺の東谷宗果は今川義元が「田楽が窪」で死んだと書いたのか??
「田楽が窪」は鎌倉街道にあり、東海道が整備されるまでは主要道でした。
「田楽が窪」はその名の通り窪地になっており、「濁池」と呼ばれる大きな池もあるため印象に残りやすく、古くは和歌にも詠まれたようです。
そのため、戦いのあった「田楽坪」と、聞き知っている「田楽が窪」を混同してしまった…のではないでしょうか(゜-゜)
今川義元の本陣の場所は通説の通り、名古屋市緑区桶狭間北にある、桶狭間古戦場公園周辺、ということでいいでしょう。
〇新説・今川義元が桶狭間に至ったのは撤退中のことだった!?を検証する
今川義元の動向について、近年、かぎや散人氏や水野誠志朗氏などにより新説が提示されました。
それは、
5月18日の夜、今川義元は大高城に入り、翌日、丸根・鷲津攻撃の前に小川道を通って漆山に赴き、丸根・鷲津砦の陥落を見届けると、撤退を開始して手越川沿いに桶狭間に向かい、まず高根山にいったん陣を布いた、撤退していく今川軍の殿軍を佐々・千秋が攻撃したが撃退された、これを喜んだ今川義元はさらに進んで桶狭間村に入った、
…というものです。
この説に信ぴょう性を与える素材が2つあり、それは、
①小瀬甫庵『信長記』に、佐々・千秋隊が進軍しようとした際に、「見るとひとしく義元が先陣の勢山際に引へたるに…」とあり、今川軍の先陣が山の裾の方に退いていった、という記述があること。
②「天理本」にて、織田信長が「尾張に踏み込まれて逃げられては情けない」と言っていること。
…の2つですが、
信長としてはこれまでの戦いを通して、今川軍は攻め寄せては引いていく、というのを繰り返していたため、今回も短期間で退却していく、と考えていたのかもしれません。
しかしその考えは誤りです。今回の戦いで今川義元が短期間で撤退していくとは考えにくいからです。
なぜか?理由は4つあります。
①いつもは武将に任せているのに、今回は今川義元自ら出陣していること。
②織田信長の活躍を際立たせるための誇張でなければ、今川軍はいつも以上の大軍を動員していること。
③丸根・鷲津砦を落としただけで撤退しては、鳴海城はまだ包囲されたままになる上に、織田に再び大高城周辺に砦を再建される可能性が高く、状況は改善されないこと。
④後述するが、今回の戦いで今川義元は大高城の部隊を服部友貞が率いてきた船に乗り、内応した斯波義銀・吉良・渋川により海上から尾張領内に突入する計画を立てていたこと。
この4つから、今川義元が丸根・鷲津砦を落としただけで撤退するとは到底思えないのです(-_-;)
〇織田信長は部隊を二つに分けていた!?
織田信長は今川義元と戦うために中島砦を出撃するのですが、桶狭間までどのような進路をたどったのか、諸説あって定まっていません。
(例えば藤本正行氏は今川軍を正面から突撃して破ったとする正面攻撃説を唱え、桐野作人氏は織田信長は丸根・鷲津砦方面の敵に攻撃を仕掛けこれを蹴散らした後、東に向かい進軍しているときに大高城に向けて進軍する今川義元本隊を発見、これを攻撃した、という説を唱えている)
諸書にはどのように記述されているか、見てみましょう。
①『信長公記』
「山際迄御人数寄せられ侯の処、俄に急雨(むらさめ)石氷を投打つ様に、敵の輔(つら)に打付くる。味方は後の方に降りかかる。沓懸の到下の松の本[「天理本」では「松の本」は削除されている]に、二かい・ 三かいの楠の木、雨に東へ降倒るる。余りの事に熱田大明神の神軍かと申し侯なり。」(中島砦を出発して山の裾に進もうとしたところ、急に雹が降ったような雨が降ってきて、西向きの敵軍には顔面に、東向きの織田軍には後方から降り注ぐ形となった、沓掛峠にあった二抱え・三抱え分もある大きな楠の木が東向きに倒れたので、織田軍の兵士たちは熱田大明神が味方してくれているのだと言った)
これからわかるのは、
1:中島砦から山の方向に向けて進んだところ、激しい雨が襲ってきた
2:織田軍は東向きに進み、今川軍は西向きに陣を布いていた
3:織田軍は沓掛峠を進んでいた
…ということですね。
とりわけ大事になってくるのが3で、後でもふれます。
②『松平記』
「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。…鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、…信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、」
昼、大雨が降っていた、その頃、織田信長が急に攻め寄せてきた。織田軍は善照寺で二手に分かれ、一つの部隊は今川軍先陣を攻撃し、もう一つの部隊は今川軍本陣を攻撃した…。
善照寺砦で二つに分かれた、と書いてあるのが一番のポイントですね。
今川軍先陣を攻撃した部隊というのは、佐々・千秋隊のことでしょうから、
織田信長本隊はそれとは別のルートで今川軍本陣を攻撃した、ということになりますね。
③『中古日本治乱記』
19日、織田信長は善照寺砦で軍勢を整え、5千余りの軍勢を二つに分け、佐々・千秋隊は信長の木瓜紋の旗を掲げて瀬山の裾に陣取る葛山播磨守・同備中守・富永伯耆守を攻撃した、今川軍は食事中だったので混乱し、敗走したが、そこに朝比奈・庵原・三浦などが増援に駆けつけたので佐々・千秋は討ち死にした、岩室長門守は側面から攻撃をかけたが大軍に取り囲まれて討ち死にした、しかし今川軍も830もの兵を失ったので後退し、桶狭間に至って織田方の大将首3つを今川義元に献上した。信長は今川義元が布陣している山の背後に回って明日、攻撃を仕掛ければ勝てる、と将兵に檄を飛ばして夜間に二手に分かれて進んだ、翌日(20日)、大雨の中で今川義元の本陣を攻撃した、今川軍は不意を突かれたうえに激しい風が吹きつけて目を開けることもままならず、信長は天の時を得たというべきであった…。
こちらも善照寺砦で二手に分かれています。また、一軍は佐々・千秋隊であったとはっきり書かれています。『中古日本治乱記』の内容は小瀬甫庵の『信長記』の内容に酷似(文章表現も)していますが、変わっているポイントは夜に進み、翌日、雨が降っていることであり、戦いが2日間にまたがっていることです。あと、信長は今川義元の背後を狙って行軍していますが、敵の顔に向かって風が吹きつけているのは謎です(;^_^A
④『三河後風土記』
織田信長は善照寺砦の東の山際に兵を集め軍議を開き、佐々・千秋を呼んで「自分は間道を進んで今川義元の本陣を襲う、佐々・千秋は信長の馬印を押し立てて(本隊のふりをして)、瀬山の際にいる今川本隊の先手を攻撃せよ、敵は本陣から助けを向かわせるであろう、そうすれば本陣はがら空きになる、そこを攻撃すれば義元を討ち取れる」と言い、5千の軍を二手に分け、3500を佐々・千秋に預け、自らは1500で敵軍のいる山の後ろから攻撃することにした。19日の夕方から雨が降り注ぎ、しかも向かい風であったため、今川軍本陣は「鳴海桶狭間の内にて田楽が窪」から動けなかった。20日の朝、佐々・千秋隊が「瀬山」に陣取っていた今川軍先陣を攻撃した、佐々・千秋隊は「離合集散秘術」(ゲリラ戦法のことか?)を尽くしたため、今川軍は手を焼いた、そこに岩室長門守が横槍を入れて今川軍は総崩れになったが、庵原美作守(元政)・朝比奈主計頭(秀詮)等の猛将が自ら槍を取って奮戦したので佐々・千秋・岩室は戦死した。一方、織田信長は雨の中、織田造酒丞(信房)・林佐渡守(秀貞)等を先手として「山間の細道」を進んでいた、すると瀬山の近くに至ったときに鬨の声がおびただしくしていたので、もう佐々・千秋は戦いを始めたか、この機を逃してはならないと、自ら率先して今川軍に突撃した、…とあります。
『中古日本治乱記』よりも詳しいですね。詳しすぎて不安になります(;^_^A
「離合集散秘術」などと言われるとますます不安になります(;'∀')
直前に山口教継が死んだという記述もあるのを見るとどこまで本当なのだろうか…と思いたくなります。
こちらも善照寺砦で二手に分かれ、信長は「山間の細道」を通って今川義元の背後から攻撃しようとしています。「瀬山」がどこかはわからないのですが、「瀬山」での戦いの声が聞こえたとあるので、別動隊と本隊はそこまで離れた位置にいなかったことがわかります。
(「山間の細道」について、江戸時代後期の田宮如雲(1808~1871年)は、『桶狭間図』内に「中嶋の砦に入直に東の山間を押太子が根の麓より屋形狭間へ横入の由」と記し、中島砦の東の丘陵のことだとしています)
⑤『道家祖看記』(1643年成立)
佐々正次は信長に、「我々は東むきに今川はた本へみだれ入べし、殿はわきやりに御むかい、てっぽう・ゆみもうちすて、ただむたいにうちてかからせたまい候え」(我々は東向きに今川本陣に突撃するので、殿は、鉄砲も弓も持たなくてもいいので、とにかく側面から攻撃してください)と提案し、350人ほどで突撃した、今川軍が混乱するところに、信長は「一人ものがさじ」と大音声をあげて2千の兵で側面より攻撃した。…
信長の進行方向はわからないのですが、二手に分かれて今川軍を攻撃、信長は側面より攻め入ったことがわかります。
以上、様々な史料から類推するに、二手に分かれて今川本陣を攻撃した、というのは間違いないと思われます。
醍醐寺理性院の僧、厳助僧正のつけていた記録には、永禄3年(1560年)4月(5月の誤り?)に今川義元が尾張に入った、織田信長は「武略を廻らし」義元を討ち取った…とあり、
1573年以降に書かれたとされる『足利季世記』には、「19日尾州おけはさまと云処にて、伏兵起て信長の為に打れける」という記述が見られ、
当時の人々も信長が単に正面から突撃しただけで勝ったわけではないと考えていたことがわかります。
さて、諸書によれば信長本隊は善照寺砦で2つに分かれていますが、佐々・千秋隊は中島砦にいたので、これには含まれません。
…となると、この善照寺で分かれた別動隊はどこに行ったのでしょうか?(゜-゜)
手掛かりとなるのは『信長公記』の「沓掛の到下の松の本に、二かい・三かいの楠の木、雨に東に降り倒るる。余りの事に熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申候なり」という記述です。
沓掛は桶狭間古戦場公園からは直線距離で3km以上も離れており、
この記述は遠く離れた出来事を挿入しただけだとされていました。
「余りの事」は、暴風雨のことと解釈するのが一般的ですが、
そうではなく、普通に読んで、
「非常に太い楠の木が暴風雨で倒れた」のをその目で見たため、
「余りの事」と織田軍が驚いた、とするべきでしょう(゜-゜)
さて、この記述から、織田軍は鎌倉街道の沓掛峠を通っていることがわかるのですが、
ここを通っているのは信長本隊でしょうか?別動隊でしょうか?
織田信長は善照寺砦から中島砦に向かった、という記述がありますので、
反対方向になる沓掛峠方面に行くというのは考えにくい。
沓掛峠に向かったのは別動隊、ということになります。
橋場日月氏は、別動隊は沓掛峠を越えて、沓懸城にほど近い松本(沓懸城の北東部)まで進出、そこから南下して豊明市栄町上ノ山より西進して今川義元の背後を襲ったとしています。
上ノ山より…という説のもとになっているのは、『松平記』にある「上の山よりも百余人程突て下り…」という記述などです。
しかし、松本まで行くのはオーバーランすぎます(;^_^A
「天理本」では削除されていますし、「松の本」という記述は気にしなくてもいいのではないでしょうか。
私は、沓掛峠の田楽が窪あたりで南下し、桶狭間にある上の山(豊明市の上の山とは別)方面から今川義元を攻撃したのではないか、と考えます。
これだと、橋場説の13㎞、徒歩時間3時間と比べ、
9㎞、徒歩時間2時間と大幅に短縮できます。
沓掛峠まで行くと大回りすぎる、という批判があるかもしれません。
しかし、
善照寺砦~桶狭間北にある「今川義元本陣跡碑」までの距離(本隊のルート)は4㎞、徒歩で52分。
善照寺砦~沓掛峠経由~桶狭間上の山~桶狭間北にある「今川義元本陣跡碑」までの距離(別動隊のルート)は9㎞、徒歩で1時間55分。
両方の差は5㎞なので、走っていくと30分ほどの差にしかなりません。
その間、信長は中島砦に移動するのに引きとめられていたり、演説したりしているので、その時間の差はだいぶ埋まるでしょう。
もしかすると、これは別動隊と攻撃を合わせるための時間調整だったのかもしれません(゜-゜)
信長としては今川軍先陣を正面から攻撃、その間に別動隊に本陣を襲わせる…という計画を立てていたのかもしれませんが、暴風雨の発生という予期せぬ出来事が起こり、信長は敵の先陣に気づかれずに今川軍本陣付近に到達することに成功します(そのため、別動隊よりも先に今川本陣を攻撃することになった)。
ついに、決戦の時が訪れようとしていました…!🔥
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