今川軍はミッドウェーの戦いの時の日本軍のように油断しきっていました。
簡単に丸根・鷲津砦を落とせたこと。
織田軍本隊についてきていた見物人が帰っていくのを見て、
織田軍の兵士が逃亡していると誤解したこと。
そもそも、長い時間をかけて遠征してきたにもかかわらず、
織田信長は清須城にいて、鳴海・桶狭間方面で待ち構えていませんでしたから、
織田信長は怖がって籠城策を選んだ、鳴海・桶狭間方面で決戦はない、と考えてもいたでしょう。
しかもこちらは圧倒的な大軍です。
その油断しきっていた今川軍に、織田軍は小勢で突撃を仕掛けたのです。
思いもよらない攻撃だったでしょう。
しかも大雨で織田軍の移動は隠され、まったくの不意打ち状態にありました。
今川軍の兵は、驚いて今川義元を見捨てて逃走していきます。
残ったのは旗本300騎のみ。
今川義元の命は風前の灯火でした。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
※マンガの1・3P目は、都合により公開いたしません💦〇今川義元という男
今川義元(1519~1560年)は、足利義氏(足利氏3代当主。1189~1255年)の庶長子、吉良長氏の子として生まれた今川国氏(1243~1282年)を祖とする今川氏の11代当主です。
今川氏は今川国氏の孫の今川範国(1295?~1384年)の時に遠江守護・駿河守護、幕府の引付頭人を務めるなどして勢力を強めました。
(遠江系今川氏となったのは範国の子、今川貞世[了俊。1326~1420年?九州探題の後、遠江と駿河、それぞれの半国守護となる]。子孫は瀬名氏や関口氏となった)
しかし、15世紀に入って間もなく、遠江守護は斯波氏に奪われる形となってしまい、
8代当主の今川義忠(1436~1476年。北条早雲[伊勢新九郎盛時]の姉と結婚)は応仁の乱のさなかに斯波氏と遠江をめぐって争うが、流れ矢にあたって戦死してしまいます。
子の氏親(1471?~1526年)はまだ若年であったため、
義忠の従兄弟の小鹿範満(?~1487年)に実権を奪われることになってしまいますが、
1487年、伊勢盛時の助けを借りて小鹿範満を討つことに成功します。
以前にも紹介しましたが、伊勢盛時はその後も今川氏に力を貸し、遠江における今川氏の勢力拡大に貢献し、三河を攻めたことすらありました。
今川氏親も伊勢盛時に助けられてばかりではなく、関東に兵を出してたびたび伊勢盛時を助けています。
氏親は1508年、ついに幕府から念願の遠江守護に任じられ、その後も斯波義達(1486?~1569?)と戦いは続いたものの、1517年、引馬城を陥落させて遠江を平定することに成功しました。
氏親は他にも甲斐にもたびたび出兵して、武田氏とも争うなど、バリバリの戦国大名でした。
死の2か月前には分国法「今川仮名目録」を制定しています。
氏親の子の氏輝(1513~1536年)も武田氏と戦い、一時は甲斐の南半分を奪いましたが、23歳で急死します。
その後、弟の玄広恵探と梅岳承芳が家督をめぐって争う花倉の乱が起こり、勝って勝利したのが梅岳承芳で、この人物が還俗して名乗った名前が今川義元です。
今川義元は武田氏と同盟を結び武田氏との戦いを終わらせますが、
このことが北条氏綱(伊勢盛時の子)の怒りを買い、長く続く対立(河東一乱[1537~1539・1545年])となります。
この間に織田信秀が三河に乱入してきて、今川氏の勢力は三河から大きく後退することになります(◎_◎;)
1545年、今川義元は山内上杉と同盟を結び、北条氏を挟撃する策に出ますが、これがうまくいき、北条氏が駿河に持っていた領土をすべて奪うことに成功します。
これで落ち着いた今川義元は、1548年、小豆坂の戦いで織田信秀に大勝し、
1549年、松平家の当主・松平広忠が亡くなったことに付けこみ岡崎城を占領、一挙に三河に勢力を広げます。
この年には安城城も攻略、以後、尾張に進攻し、鳴海城や蟹江城などを織田氏から奪っていきます。
1554年には武田氏・北条氏と三国同盟を結んで後顧の憂いを立つことに成功します。
ここまでは順風満帆でしたが、
1555年に右腕であった太原雪斎が病死・
三河国で吉良氏・奥平氏などが今川氏に敵対し(三河忩劇)、この鎮圧に1558年までかかることになるなど、逆風に見舞われることになります💦
織田信長はその間に尾張国内の織田氏の抗争をほぼ終わらせることに成功しました。
今川義元としては、三河の反乱に手を貸して三河経営を混乱させた上に、これによって織田信秀死後も続けていた尾張進攻をしばらく頓挫させた織田信長に対する憎しみの気持ちが強くあったと考えられます。
1558年、今川義元は家督を子の氏真にゆずり、織田との対決に神経を集中させ、1560年、満を持して尾張に進攻。
こうして、今川義元は運命の地・桶狭間に向かうことになったのです…。
〇決戦・桶狭間
「空晴るるを御覧じ、信長鎗をおっ取て、大音声を上げて、すわかかれかかれと仰せられ、黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるがごとく後ろへくわっと崩れたり。弓・鎗・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。 今川義元の塗輿も捨て崩れ逃れけり。旗本は是なり、是へ懸かれと御下知あり。未刻(午後2時頃)東へ向てかかり給う。初めは300騎ばかり真丸になって義元を囲み退きけるが、2・3度、4・5度、帰し合せ帰し合せ、次第次第に無人になりて、後には50騎ばかりになりたるなり。信長も下立って、若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒おし、いらったる若もの共、乱れかかってしのぎをけずり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りといえども、敵身方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員(かず)を知らず」…
『信長公記』に書かれている、桶狭間の戦いの場面です。
この部分は、軍記物語のように、非常に躍動的というか、ドラマティックな書き方がされている部分ですね😅
…今川義元の本陣に到着した織田信長は、馬から降りて、他の若武者たちと先を争って敵陣に突入し、敵を突き伏せ、突き倒し、苛立った(せきたてられた、血気にはやる)若者たちは、各自思い思いに突撃し、刀と刀がぶつかり合い、刀の鎬(しのぎ。刃の背に沿って小高くなっている部分)は削れ、鍔(つば。柄を握る手を防御するもの)は割れ、火花が散って火の粉が舞った。しかし、乱戦になったけれども、味方は味方と判別できるようにしていたので、同士討ちが起きるようなことはなかった。激戦となったため、信長の馬廻衆(大将の護衛や伝令を務める。親衛隊のような存在)・小姓衆(大将の身の回りの世話をする。親衛隊のような存在)で負傷した者・戦死した者は数知れなかった。…
『三河後風土記』によれば、信長軍は1500。対する今川軍は300。
数では押していましたが相手も旗本で精鋭中の精鋭であり、また、必死なので、
信長も多くの死傷者を出していました。
しかし、(おそらく三河方面に)逃げる中で今川義元の旗本は数を減らしていきます。
そして、現在今川義元の墓がある豊明市栄町のあたりで最期を迎えることになります。
義元に一番槍をつけたのは服部小平太(「天理本」では弟の小藤太)でしたが、服部小平太は今川義元に膝を斬られて倒れてしまい、義元の首を逃してしまいます。
この服部小平太は、桶狭間の戦いのこの場面のために有名な人物なのですが、
その後の人生は全くといっていいほど知られていません…💦
服部小平太は、諱を一忠もしくは春安などといいます。
織田信長の馬廻の一員だったといいますから、側近の一人だたのでしょう。
しかし、織田信長は若い時期の側近たちをその後あまり厚遇していません(-_-;)
信長の怒りに触れて悲しい最期を遂げるものも多いのです…。
服部小平太はその後長く活躍が見られなくなります。
弟の小藤太は『信長公記』に出番があり、
本能寺の変の際に、織田信忠のいる二条城から明智軍に突撃して死亡しています。
小平太はその後豊臣秀吉に仕え、小田原征伐で功を挙げ、
1591年、松坂城主となり、3万5000石を得ます。翌年には文禄の役にも参戦して朝鮮に渡っています。
ついに報われた小平太ですが、しかし、ここから人生は暗転します(-_-;)
豊臣秀次の与力大名となっていたことがあだとなり、
豊臣秀次の処刑に連座して切腹を命じられてしまうのです。
桶狭間の英雄の、あまりにかわいそうな最後でした…😥
さて、倒れた小平太に代わって義元の首を落としたのは、毛利新介でした。
毛利新介は織田信長の馬廻であったといいます(小姓であったとも)。
『信長公記』では、今川義元の首を取るという大功を得ることができた理由として、
天文22年(1554年)に尾張守護である斯波義統が殺された際(以前にマンガで紹介)、
その子の1人(のちの毛利長秀[秀頼])を助けたからだ、と書いているのですが、
毛利長秀を救出したのは「毛利十郎」です。
しかし、わざわざこう書いてあるということは、
名字も同じですし、毛利十郎と毛利新介は血縁関係にあり、
斯波義統の子を救出する際に新介は十郎に協力していたのかもしれません💦
毛利新介、諱は良勝(毛利良勝とだけ聞いて、誰だかわかる人が世の中にどれほどいるだろうか…(;^_^A)は、この後『信長公記』には2度登場します。
1つは永禄12年(1569年)に行われた伊勢の大河内城攻めに参加した時で、
もう1つは本能寺の変の時のことです。
毛利新介は、服部小平太の弟、小藤太とともに、二条城からうって出て戦死しています😥
桶狭間の英雄は二人とも、普通に亡くなることはできなかったんですね…。
ちなみに、毛利新介はイメージと違い、
その後は主に官吏として働いていたようです。
今川義元に指をかみちぎられたという逸話がありますが、
それが事実だとすると、その時の傷がひどく、あまり前線で戦えなくなってしまったのかもしれません💦
「運の尽きたる験(しるし)にや。おけはざまと云う所は、はざまくてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云う事限りなし。深田へ逃入る者は所をさらずはいずりまわるを、若者ども追付き追付き、二つ、三つ宛(ずつ)手々(てんで)に頸(くび)をとり持ち、御前へ参り候。頸は何れも清洲にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず(「天理本」だと「御満足は無限」)、もと御出で候道を御帰陣候なり。」(今川軍は運が尽きたのだろう、逃げた場所は「おけはざま」というところで、狭い湿地帯で、足がとられる深田もあり、高いところは木が生い茂り、この上もない難所であった。深田に逃げこんだものは抜け出せずに這いずり回っているところを追いつかれて首を取られてしまった。馬廻・小姓たちは、各自首を2・3個持って織田信長のもとにやってきた。織田信長は「首実検は清須で行う」と言ったが、今川義元の首だけはここで見て、非常に満足そうであった)
…この部分は、「おけはざま」について触れている非常に大事な部分ですが、
今川義元の死の後に書かれています。
…ということは、今川義元の死を知って、もうだめだとバラバラになって逃走したところ、
そこは難所の「おけはざま」で、深田に足を取られ次々と首を取られていった、ということなのでしょう。
ですから、桶狭間古戦場と言われているところは追撃戦が行われた場所で、主戦場ではなかったのかもしれません。
「山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目を懸けられ鳴海在城。不慮に御遷化候えば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節として居城鳴海へ引入れ、智多郡御手に属す。其上、愛智郡へ推入り、笠寺と云う所要害を構え、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助、在城。鳴海には子息九郎二郎入置き、笠寺の並び中村の郷取出に構え、山口左馬助居陣なり。
かくの如く重々忠節申すの処に、駿河へ左馬助・九郎二郎、両人を召し寄せ、御褒美は聊(いささか)もこれなく、無情無下無下と生害させられ候。世は澆季(ぎょうき)に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡(なび)かし、それも御用に立たず。千が一の信長、纔(わず)か二千に及ぶ人数に扣(たたき)立てられ、逃死に相果てられ、浅猿敷(あさましき)仕合、因果歴然、善悪ニつの道理、天道恐敷(おそろしく)候なり。」
この場面では、今川義元が討ち死にして果てることになった因果を説明しています。
山口教継父子については、これまでにも何度か説明してきましたね。
山口教継父子は織田氏を裏切った後は今川氏に忠節を尽くし続け、
今川氏の尾張国内における領土拡大に貢献したのに、
今川義元は冷淡に殺害した。
今は末の世だというけれど、天は義元の行動をしっかりと見ており、
今川義元が山口教継の持っていた鳴海周辺までやってきたところ、
その大軍は用をなさず、わずか2千の織田軍にたたきのめされ、
逃げるところを殺されることになった。
みじめな最期を遂げることになった因果は歴然、善悪2つの道理は明らかで、
悪い行いをすると運命が変わって悲惨な最期を必ず迎えることになる。恐ろしいことである。
…今川義元が無残な死を遂げたのは、忠節を尽くした山口父子を殺したからだ、
というのです。
この論理でいくと、山口父子が殺されたのも、主君である織田信長を裏切ったからだ、ということになりますね(゜-゜)
他の史料では今川義元の戦死の場面をどのように記しているか、見てみましょう。
①『三河物語』
織田軍の兵は数人ずつ山を登り、今川軍はわれ先にと逃亡した、義元はそれを知らず、大雨の中で昼食を取っていた。信長はそこを3千ほどの兵で攻撃、義元は毛利新助がその場で討ち取った。他にも多くの者が敗走する中で殺された。信長はそのまま駿河まで攻め取ることもできたが、信長は勝ちにおごる人ではなかったので、清須に引き返した。
②『松平記』
鳴海桶狭間で祝勝の昼食を取っていたところに、織田軍が突然攻め寄せてきた。おが軍は笠寺の東の道を通り、善照寺で二手に分かれ、1つは今川軍の先陣を、1つは今川軍の本陣の油断しているところを襲い、鉄砲を撃ちかけてきた。今川軍はことごとく敗れ騒ぐところに、「上の山」からも100人ほどが駆け下ってきて、服部小平太という者が青貝柄の長い槍で義元を突いた。義元は応戦して槍を切断し、小平太の膝を割った。毛利新助が義元の首を取る際に、義元の口に入った左の指(『三河後風土記』では左の小指)が食いちぎられた。義元の旗本たちはよく奮戦したので、織田方も物頭(侍大将)である佐々隼人正(政次)・千秋新四郎(季忠)・岩室長門守・織田左馬允・一色など多くが戦死した。
③『道家祖看記』
佐々政次隊が350の兵で今川軍本陣に突撃、喧嘩が起きたかと6万の今川軍が騒ぎ立つところに、信長が2千の兵で、「一人ものがさじ」と叫んで斬りかかった。今川軍は支えることができずにどっと崩れ、義元は毛利新助に討ち取られた。この時西から大風が吹き、あられが降り、大高・沓懸の大木が倒れたという。
④『武徳編年集成』
沓掛の上の山の喬木(丈の高い木)が倒れるほどの風雨のため、信長軍が廻り来たのは今川軍にはわからなかった。信長は森三左衛門可成の進言を受け入れ、騎馬のまま敵陣に突撃した。突然織田軍が攻め寄せて来たので、今川軍は失火か、喧嘩か、反逆・裏切りかとあわてふためいた。水野清久(信元の従兄弟)が最初に手柄を挙げた。信長は塗輿が捨て置かれているのを見て今川軍の本陣であることは間違いないと判断し、未刻(午後2時頃)に東に向かって逃げる敵軍を追撃した。義元は300人ほどで退却していたが4・5度と戦ううちに50人ほどにまで減った。それでも義元は猛将なので兵士を励まし戦っていたが、そこを服部小平太が槍で突いた。義元は松倉郷の名刀をもって小平太の膝を割った。続いて毛利新助が義元を組み伏せたが、義元は新助の人差し指を噛みちぎった。それでも新助は義元の首を取り、義元の持っていた左文字の刀・松倉郷の刀も得た。義元は享年42歳(数え年)であった。
⑤桶狭弔古碑
今川方の武将で桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の子孫は、養子に入って津島神社の神官になっていましたが、1809年、尾張藩の許可を得て現在、今川義元の墓がある辺りに石碑を建立します。
そこには、
・5月19日、今川義元は桶狭間山の北に陣を布いた。
・今川義元は丸根・鷲津砦陥落を聞いて、明日の朝食には清須城を落とせているだろうと言った。
・その時大雨が降り、そこに信長が今川軍を背後から突然襲い、これを滅ぼした。
…といった色々と興味深い内容が記されています(゜-゜)
かくして、織田信長は今川義元を討つことに成功しました。
大名レベルが戦死した例は、他には沖田畷の戦いの龍造寺隆信・厳島の戦いの陶晴賢などがあるでしょうが、非常に珍しいことです。
次回のマンガでは、今川義元が死んだ後の尾張がどうなったか、それについて見ていこうと思います😆
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