永禄3年(1560年)5月19日に行われた桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、
その後、今川方が持っていた桶狭間周辺の諸城を奪っていますが、
その中には三河国の鴫(重)原城や、池鯉鮒(知立)城もありました。
翌年の永禄4年(1561年)4月、織田信長は再び三河に出陣しますが、
このタイミングで三河に攻めこんだのは、どうやらスケールの大きい理由があったようです😧
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇西三河をめぐる攻防
桶狭間の戦いの後、今川氏の勢力が急速に弱まった三河は騒然とした状態になります。
織田信長以外で活発な動きを見せたのが松平元康(徳川家康)で、
まず、岡崎城代であった山田新右衛門が戦死して、城主がいなくなっていた岡崎城に入って本拠地とします(今川氏真から岡崎城を任されたという説もあり)。
その後の動向について、諸書には次のように書かれています。
『松平記』…岡崎衆は石が瀬というところで、水野信元と戦った。この戦いで岡崎衆では杉浦八十郎が戦死した。この戦いは、元康が岡崎城に入った後、初めての戦いであった。沓掛城の織田玄蕃が岡崎に攻めてきて、度々戦った。永禄3年(1560年)~永禄4年(1561年)の間、苅谷衆と岡崎衆で度々戦った。
『三河物語』…岡の城にいた板倉重定を攻撃し、東三河に追いやった。また、広瀬城・沓掛城・拳母城・梅坪城を攻めた。また、石が瀬で小河(緒川)勢と戦った。また、寺部城を攻めて攻略した。また、刈谷城に向かう途中、十八町で合戦となり、杉浦八十郎が戦死した。また、長沢城を攻め、鳥屋が根(登屋ヶ根)城を攻撃した。この時、榊原弥平兵衛之助(忠政)が素早く城内に入ったので、元康から「早之助」と名付けられた。また、西尾城・東条城を攻めた。また、拳母城を攻め、柴田と大久保治右衛門尉(忠佐)が一騎打ちをした。また、小河衆と石が瀬で戦った。また、梅が坪で戦った。ニ・三年の間、休みなく、月に三回から五回も戦いをした。
『水野勝成覚書』…桶狭間戦後、松平元康は刈谷・重原に出撃して戦い、付け城を築いた。刈谷の十八町の戦いでは、水野勢の水野藤助・滝見弥平次が一番槍であった。戦いには、矢田伝一郎・高木主水(清秀)・水野藤次・水野藤十郎(忠重)・梶川五左衛門・清水権之助・丹羽彦右衛門・久米合左衛門・わたべさめの助・神谷新七が参加し、松平軍と討ちつ、討たれつの戦いとなった。小川の石が瀬の戦いでは、水野忠重が一番槍となり、相手の左の脇腹を突き、一槍で相手を突き伏せ、首を取ったところ、高木清秀が「藤十郎殿、兄の藤次に首を取らせてやりなさい」と言ったので、藤次に首を譲った。織田信長はこれを聞いて、自分の手柄を兄にとらせる気遣いに感心したという。
『中古日本治乱記』…5月21日に岡崎城に入った松平元康は、敵が攻めてくるだろうと考えて、大樹寺のあたりで待ち構えたが、攻めてこなかったので、23日に再び岡崎城に入った。敵が攻めてくる前にこちらから攻めようと、信長方の拳母・梅坪を攻めた。また、広瀬城を攻めた時には、城主の三宅右衛門尉は城を討って出て拂楚坂で岡崎勢を防いだ。足立金彌が鉄炮に当たり死ぬなど、岡崎方が苦戦して崩れたところで、松平元康は旗本を率いて敵軍に突入し、十文字や巴のように縦横無尽に駆け回った。このため三宅方は敗北した。岡崎勢はそのまま沓掛城を攻めて城外に出て来た織田方を破った。城主の織田玄蕃允信平はくいとめられず、まさに城が落ちようとしたときに織田信長が大勢を率いて救援に来たので、松平元康は大久保新八郎忠利(忠俊)に殿を任せて退却した。織田信長は水野信元に命じて松平元康を攻めさせ、石が瀬・十八町で戦いとなった。両軍の武士は親戚であったり、朋友であったりしたが、それにかまわず戦い、岡崎方は杉浦八郎三郎・杉浦八十郎が討ち死にしたが、大久保忠勝・忠世・忠佐・石川新八郎などが奮戦したので苅屋勢は敗北し、城に逃げ帰った。岡崎勢は47の首を取った。岡崎勢は勝った勢いに乗じて寺部・拳母城を攻めたが、両城は籠城して出てこなかったので、軍を二手に分けて長沢・鳥屋根城を攻めた。ここで榊原弥平兵衛尉が一番に塀際にたどりついて敵兵と戦ったので、元康は「隼之助」と名付けた。元康は続いて西尾城を急襲し、城主の牧野新二郎はかなわないと思って城を棄てて逃亡した。元康は次に東条城を攻め、三か所に付け城を築いてから岡崎城に戻った。桶狭間で負けた後の今川は穴に隠れた狸の如く、戦いに勝った織田方は山野を狩りする犬に等しく勢いがあったので、人々は元康は織田に降参するだろうと思っていたのに、元康は尾張・三河の織田方の城を攻め落とし、あるいは放火して城中に追い込んだので、織田方の将兵たちも予想外に思った。9月、東条城の吉良義昭は付け城の1つ、本多豊後守広孝が守る小牧砦を攻撃した。広孝は打って出て藤波畷で吉良方と戦い、広孝は自ら槍をふるって吉良方の冨永半三郎を討ち取った。大将の一人を失った吉良方は敗北して数十人を失った。
『総見記(織田軍記)』…松平元康は義元が死んだ後もしばらくは今川方に属していて、織田方の長沢・石が瀬で戦っていた。
『武徳編年集成』…5月23日、岡崎に入った松平元康は、拳母・梅が坪を攻め、次いで広瀬の三宅右衛門大夫と拂楚坂で戦った。先鋒が苦戦しているところに、元康は自ら兵を率いて敵陣に突撃したので、城兵は敗北した。続いて沓掛城を攻めて城下に火を放ったところで織田の援軍が来たので、大久保忠俊に殿を任せて退却した。6月18日、元康は刈屋城を攻め、横根村石が瀬で戦った。敵方の水野忠重が一番槍で、兄の重次に首を取らせた。敵の鉄砲が岡崎方の松井忠次の目をかすり、怒った忠次はその敵を討ち取った。大岡忠次が戦死し、筧重成は傷を負いながら首を取った。夕方になったのでお互いに兵を退いた。19日、再び兵を出して刈屋城外の十八町畷で戦い、杉浦八十郎・村越平三郎が戦死した。「酷暑堪難く敵味方共に退く」。8月、元康は寺部・拳母を攻め、また、山中医王寺の砦を攻撃させた。先陣の久松俊勝(元康の母・於大の方を妻とする)が槍で突かれたが、俊勝は怒ってその槍を切り、砦の中に入って火を放ち、砦を落とした。元康の武威に、西三河の多くの城が降参した。元康は続いて東三河に兵を進めようとした。東三河は今川の勢力範囲であったので、家臣たちは織田・今川を一度に敵に回す事になるといってこれを諫めたが、氏真は臆病で気が弱い。なんで恐れるのか、と言ってこれを聞き入れず、長沢鳥屋根城主の糟屋善兵衛を攻めるために中山に砦を築き、松平信一を置いた。今川は小原藤十郎を援軍として鳥屋根に派遣した。糟屋・小原は度々中山砦を攻めたが信一は絶倫の勇将で、敵の城の近くまで何度も攻め返したので、糟屋は苦しんだ。元康は松平康忠を先鋒として鳥屋根城を攻めさせた。対する城兵は小原藤十郎を先頭に突撃を仕掛けた。渡辺守綱は一番槍と一番首の功をあげた。榊原忠政が何度も突出して激しく戦っている様子を見て、元康は近くの者にあの者は誰だと尋ねた。近くの者が忠政ですと答えると、元康はその勇気を大いにほめて「隼之助」と名を改めさせた(これは隼鷹の鳥をとることが速いことに由来する)。また、梅が坪・広瀬・拳母城にも何度も兵を送って戦った。家来は頻繁に戦いがあるので安心できず、武器・馬具を常に傍に置いていたという。ある者は次のように言う、広瀬高橋城主・三宅右衛門大夫は追いつめられ、城を打って出て伊賀の服部党の側面を突き、市平保俊(服部半蔵正成の兄)など一族郎党53人が討ち死にした。しかし三宅右衛門大夫は保俊の家来に討ち取られ、城は陥落した。元康は三宅の家来70余人を許して本多重次の家来としたが、その多くは鈴木党であり、これを高橋衆と呼んだ。後に本多正信・正純に属し、代々幕府に仕えた。永禄4年(1561年)2月7日、水野信元の兵が元康の勢力圏を侵したので、元康は刈屋を攻めて再び横根村石が瀬で戦いとなった。先鋒は石川数正で、敵の隊長・高木清秀により伴藤助が討ち取られた。本多忠真は一日に六度も相手を突き崩しては傷を負い、七度目の槍傷を受けても倒れず敵に立ち向かったので、敵は恐れてあえて戦おうとしなかった。人々はこれを六度半の槍と呼び、その驍勇をほめたたえた。元康はまた伊保・広瀬城を攻め、松平好景を大将として中島城を落とさせた。中島城主の板倉弾正守定はなおも岡の城に移って抵抗したが、元康自ら攻め寄せてきたために敗北、東三河に移った。中島・長良の二郷は松平好景に与えられた。
『徳川実紀』…今川義元を討ち取った後、織田信長は松平元康を味方につけようとしたが、松平元康は拳母・梅津・拂楚坂・石瀬・鳥屋根・東條などで織田方と戦ったので、織田信長は思いがけないことに驚いた。
以上、諸書の内容を見ると、松平元康、八面六臂の大活躍!…ですが、これらの書物が書かれたのは江戸時代であることを考えると、神君・徳川家康様はこんなにすごかったのだぞ!!と世の人々に知らしめるために、その活躍は盛りに盛られている可能性が十二分にあり、だいぶ割り引いて考えなければいけません(;'∀')
『三河物語』を例に考えてみると、
①岡城の板倉重定との戦い…最初に板倉重定と戦っていますが、板倉重定は今川方として1563年に戦死していますので、織田方でもない今川方(まだ味方)の板倉重定をこの段階で攻めるとは思えません💦『三河物語』、いきなりのミス!!板倉重定との戦いについては、『武徳編年集成』の、今川義元と戦うことを宣言した後、1561年に行ったとする記述が正しいと思われます。
②広瀬城・沓掛城・拳母城・梅坪城攻め…広瀬城は、後に織田信長が三河に攻めこんだ際に広瀬城に攻めこんでいないのを見ると、一貫して織田方だったのでしょう。永禄6年(1563年)12月には、広瀬三宅氏の一族の三宅孫介が、栗毛の馬を織田信長に送ったことに対する礼状をもらっていますので、『武徳編年集成』にある、広瀬城が陥落した…というのはおそらく誤りなのでしょう。おそらく、松平元康は今川義元が死んですぐに織田方に寝返った広瀬三宅氏を見過ごせず、攻撃したものでしょうか(ただし松平元康が参加していたことを裏付ける史料はない)。梅坪城攻めについては、史料が残されており、9月10日に鱸新左衛門(信正)が梅坪で戦い、敵方に多くの手傷を負わせたことが、今川氏真の書状によって確認できます。ここからわかるのは、桶狭間後に梅坪城も織田方に寝返っていた、ということです。諸書では松平元康だけの手柄になっていますが、寺部城の鱸氏もこれに加わっていたわけです(ただし松平元康が参加していたことを裏付ける史料はない)。この時梅坪城が陥落したかどうかは書状では確認できないのですが、翌年に織田信長が梅坪城を攻めているので、おそらく今川方に降ったのでしょう。
③石が瀬の戦い(一次)…石が瀬の戦いについては史料が残されており、戦いで活躍した筧重成に対し松平元康が8月1日に出した感状があります。…ということは、7月あたりに戦いがあったということになります(『武徳編年集成』では6月18日)。しかし、ビックリするのは石が瀬が尾張国内にあるということです(◎_◎;)松平元康は国境を越えて尾張に進入したのですね。。かなりアグレッシブな動きをしています。
④寺部城を攻めて攻略…寺部の鱸氏は、先に述べたように梅坪城攻めに参加しているので、これは誤りでしょう(桶狭間前の寺部城攻めとの混同?)。岡崎城に帰還した松平元康にすぐに攻撃されて降伏し、梅坪城に参加した、という線もありますが、そうやってすぐに降参するのであれば、このあと1566年まで長きにわたって織田に抵抗をつづけたのか説明がつかなくなってしまいます。松平元康に屈服して降参したのだとしたら、織田と松平が結んだときに戦う意味がなくなるはずですし…。
⑤十八町の戦い…「十八町」(十八丁、十八町畷とも)とは、「日本歴史地名大系」によれば、知立から刈谷に至る街道で、苅谷に近い場所にあるといいます。どの書でもここでの戦いの時杉浦八十郎が戦死したと書かれていますので、これはおそらく事実でしょう。『中古日本治乱記』では松平勢が勝ったと書かれていますが、徳川御用達の『武徳編年集成』でも杉浦八十郎以外に大岡忠次・村越平三郎の戦死が記されており、かなり苦戦を強いられたようです。
⑥長沢城・鳥屋が根城攻め…「早之助」の逸話も記されており、おそらく事実であると思われますが、どちらも今川方の城であり、攻めたのは今川方との対決を鮮明にした後になります。具体的には永禄4年(1561年)8月のこととされています。
⑦西尾城・東条城攻め…吉良氏は当時今川方であったので、これも攻めたのは今川方との対決を鮮明にした後になります。具体的には永禄4年(1561年)5~9月のこととされています。
⑧拳母城攻め…柴田勝家と大久保忠佐の一騎打ちについて書かれていますが、これは桶狭間より前の、1556年の福谷城の戦いの時のことです(;^_^A
⑨石が瀬の戦い(二次)…『武徳編年集成』では永禄4年(1561年)2月7日のことになっています。この戦いでも松平勢は伴藤助を討ち取られています💦しかし、どの戦いでも、相手のだれを討ち取ったとは書かれておらず、松平勢ばかり名のある武将が討ち取られていますね…(-_-;)
⑩梅が坪の戦い…二回目ですね。これは織田信長が梅坪城を攻めた時の話かもしれません。
…というように、誤りが多々見受けられますので、信ぴょう性に疑問を持たざるを得なくなるのです(-_-;)
そう考えると、苅谷衆や沓掛城の織田玄蕃と何度か戦ったとのみ記す『松平記』の記述が一番信頼できるのではないか、と思います(;^_^A
これが正しいのではないか?と考えられるように並べてみると、
①永禄3年(1560年)5月? 広瀬城の三宅氏と拂楚坂で戦う(城は落とせず)
②沓掛城を攻めるが織田の援軍が迫ってきたので退却
③6月18日? 石が瀬の戦い(一次)
④6月19日? 十八町の戦い
⑤9月10日 今川方、梅坪城を攻撃(梅坪城を攻略)
④永禄4年(1561年)2月7日? 石が瀬の戦い(二次)
…のようになるでしょうか。
手に入れた城は今川方と協力して得た梅坪城しかありませんが、桶狭間での勝ちに乗る織田勢をおしとどめたのは、さすが徳川家康と言えるでしょう(;^_^A
こうして、永禄3年(1560年)中は、まだ松平元康は今川氏に属して織田氏からなんとか三河を防衛していました。
しかし三河の状況を大きく変える人物が現れます。
その人物とは、三河から遠く遠く離れた、越後国(新潟県)の長尾景虎でした!
永禄3年(1560年)5月に今川義元が桶狭間の戦いで死ぬと、長尾景虎は、これで今川氏は当分、北条氏の援護に来れなくなったとみて関東に出陣します。
永禄3年中に上野国(群馬県)をほぼ平定して年を越し、
翌年2月には相模国(神奈川県)に達して鎌倉を攻略し、
3月には北条氏の本拠である、小田原城を大軍で包囲します。
この状況を見過ごせなくなった今川氏真(義元の子。1538~1615年)は、
北条氏救援のため、3月に関東に向け出陣します。
この状況を見て、おそらく3月中に松平元康は決心したでしょう。
今川氏真は関東に出陣したため、三河に援軍に来れない。
…となると、織田信長が三河に思い切って攻めてくるだろう。
防ぐのは難しい。
それよりも、織田と手を組んで、今川氏から独立して、
今川氏を三河から追い出すべきなのではないか…。
こうして松平元康は織田信長と和睦することになるのですが(同盟に発展するのは永禄6年[1563年]3月、信長の娘・五徳と元康の息子・信康が婚約してから)、
織田との和睦の経緯について、実は『信長公記』は一切触れていません(;^_^A
諸書にはどう書いてあるのか、見てみましょう。
『松平記』…織田信長から、水野信元を通して、和談の話があった。そこで互いに起請文を取り交わして和談が成り、岡崎と尾張の間に戦いは無くなった。
『三河物語』…信長と和議を結び、織田方の城との戦いは無くなった。
『中古日本治乱記』…信長は三河を攻めたが、逆に元康の為に味方の城を落とされ、三河の織田方の城のほとんどが退去するに至り、水野信元を通して元康と和睦することにした。しかし元康は、今川は桶狭間で敗れたといってもその兵力はまだ信長の10倍ある、兵を集めれば一両月(一、二か月)の間には尾張に攻めこめるだろう、その時元康は先陣となって織田と雌雄を決しようと思う、と言って信元を帰してしまった。その後も信元は何度もやってきて和睦を願った。ここで酒井・石川が今川には散々な目にあわされてきたではありませんか、また、このままでは駿河・遠江は北条氏康や武田信玄にとられてしまうでしょう、その前に、織田を味方にして駿河・遠江を攻め取るべきです、と元康を諫めたこともあり、元康は和睦を受け入れることにした。これを伝え聞いた今川氏真は何の恨みがあって織田に味方するのだ、と使者を派遣して詰問したが、これに対して元康は、桶狭間で今川方が敗れた後、織田は三河に攻めこんできたが、元康は砦一つも奪われず、逆に織田の数城を落とし、さらに尾張にも進入して各地に火を放った、義元の弔い合戦を行うならば先陣となります、と何度も伝えたのにこれを聞き入れない上に、援軍を一つもよこそうとせず味方を「捨殺し」にしようとしておられる、元康だけでは小勢で織田と戦い難い、だから織田と和睦するのだ、もし氏真殿が今、弔い合戦をするというなら和睦を撤回してその先陣となりましょう、と返事をした。これを聞いた氏真は元康攻撃をとりやめた。
『総見記(織田軍記)』…織田信長は、気遣いなく畿内に上るために、東に名将を置きたいと考えていた。松平元康は私心無く戦う名将であったので、信長は苅屋城主水野信元を通して元康と和睦を図り、永禄3年(1560年)終わりには元康と和睦することに成功した。信長は喜び、次のように言った、今川氏真は父の義元よりもはるかに劣る暗将であるが、今川を滅ぼそうとすれば縁戚関係にある北条・武田が助けに来て、畿内に出るのが数年遅れてしまうことになる。そういう時に、元康が随順(=大人しく従う)したのは天の与えた幸いである。…そして織田は林佐渡守・滝川左近将監、松平は石川伯耆守・高力与左衛門を派遣して、鳴海で和睦の話し合いを執り行った。こうして和睦が成ったので、鳴海周辺に置いていた兵を清須に戻したので、清須にいる兵は大勢になった。この後、織田家に重大な出来事があったときには松平が軍を派遣し、松平家に面倒なことが起きた時は織田が援軍を送ることになった。翌年春、元康は和睦の礼の為に清須を訪れた。供は酒井忠次・石川数正など100騎ほどであった。林佐渡守・滝川左近将監・菅谷九右衛門が熱田まで迎えに行った。城の本丸まで至ったとき、信長も迎えに出た。その後酒宴となったとき、信長は長光の刀・吉光の脇差を元康に贈った。元康が帰る時、林・滝川・菅谷が熱田まで見送りに行った。
『武徳編年集成』…松平元康の外祖父・水野忠政の子・水野信元は三河の刈屋・尾張の小川を領し、その勢力は小さいといえども、今川義元の勢力が強いときでも今川に屈服せず、織田家に従って戦った。ある時信長にこう言った、今川氏真は暗愚で、和歌・蹴鞠にふけり、父の弔い合戦をしようともしない、一方松平元康は旧領西三河を回復するために果敢に戦っている、元康は親族であり、戦うのも忍びない、どうか、元康と和議を結び、東の憂いを無くして、美濃征伐を急がれてはいかがでしょうか…。信長はすぐにこれを聞き入れて、滝川一益に命じて、石川数正に、「両家和融して境目の兵を収め信長は上方へ伐登るべし、徳川家は東国へ向て武力次第に伐取たがいに助勢を成して其大功を遂べき」旨を伝えさせた。…松平元康がこれを受け入れると、信長は喜び、林通勝・滝川一益を鳴海表に派遣し、石川数正・高力清長と織田・松平の境目を決めさせ、織田は尾張の鳴海・沓掛・大高、三河の丹家・広瀬・拳母・梅が坪・寺部・岡等の城を松平に渡した。…元康は信長に会うために清洲に向かったが、信長は駅舎を補修し茶店を設け、道路を清掃して清潔にし、橋を作り船を集め、元康を迎え入れた。林通勝・菅谷長頼・滝川一益は熱田まで迎えに出向いた。織田の家臣たちは元康を見ようと群れ集まったが、これを見た本多忠勝は長刀を振るいながら、「汝等斯くの如猥りなる振舞は何事ぞや」と怒ったところ、織田家臣たちはみな平伏した。元康の家来の植村家政は剣を持ったまま信長と元康の対面所に向かったところ、織田の兵に呼び止められたが、植村は、私は元康の家臣である、主君の刀を持ってきているのになぜ呼び止められなければならんのだ、と言うと、この様子を見た信長は喜び、「誠に勇士也、吾士とがむること誤れり」と言った。元康が信長に一礼すると、信長は、こうなったら二人で天下を統一しようではないか、これからは水魚の交わりをなして、お互いに嘘はつかないようにしよう。織田が天下を取ったら、元康はその下につき、元康が天下を取ったら、織田はその下につこう、と言った。その後酒宴となり、信長は、元康には長光の太刀と吉光の脇差を送った。それから信長は植村を呼び、そなたの男気、鴻門の樊噲のようであった、と言って行光の刀を渡した。元康が礼を言って帰途に就くと、信長は城外までこれを見送り、林・菅谷は熱田までこれを見送った。ある書はこの和談は永禄4年(1561年)1月16日のこととしているが、2月まで水野信元とは合戦をしているので誤りであろう。本書(『武徳編年集成』)では和談の月日を明らかにしていないが、これは文献が足りないためである。
こうしてみると、『武徳編年集成』を除いて、織田信長と松平元康が直接対面した、とは書かれていないのですね(゜-゜)
唯一書かれている『武徳編年集成』の内容を見ると、これでもかというくらいに、松平元康のスゴさが盛られていますよね(;^_^A
信長が多くの城を譲ってまで和睦を願った(しかも尾張の城まで!)…後に徳川家康が信長に対してやったような信長の出迎えぶり…元康の家臣にひれ伏す織田家臣たち…(;'∀')
城を譲った云々というのは、『総見記』の、松平と和睦したので松平との境目の城の兵を退きあげさせた、というのを拡大解釈したものでしょう(;^_^A
『中古日本治乱記』も盛っている感じがしますが、今川氏真が弔い合戦として尾張に出陣せず、小勢力の松平だけでは立ち向かうことが難しい…という理由で織田と和睦することにした、と書いているのは、盛っている内容の中に、実際の松平の苦境を伝えていて、真実味があります。
先に述べたように、松平勢は多くの武将が織田方との戦いの中で戦死しています。実際のところは常にギリギリの戦いを強いられていたのでしょう。その中で、今川氏真の援軍が頼みの綱であったのに、いつまでたっても来ない上に北条の所に行ってしまった…これで愛想が尽きてしまったのではないでしょうか。
織田信長と松平元康の和睦の時期については、『武徳編年集成』がいうように、はっきりしていません。現在通説となっているのは永禄4年(1561年)の2月頃です。
しかしそうなるとよくわからないのは、閏3月21日に、松平元康が反今川方であった簗瀬家弘(浅谷城主)・原田種久(久木城主)を従属化に置いていることです。
反今川=織田方というわけではないのでしょうか…?
もしかすると、和睦した際に、織田・松平の勢力範囲を設定し、松平の勢力範囲となった簗瀬・原田に対し、信長が松平元康の下につくように伝えたのかもしれませんね(;^_^A
実際に松平元康は今川氏に対して敵対行動をとったのは4月11日で、今川方の牛久保城を攻撃しています(4月14日の今川氏真の書状に「去る十一日、参州牛久保に於いて一戦に及び…」とある)。
今川氏真は永禄10年(1567年)8月5日の書状で、「去る酉年(永禄4年[1561年])4月12日、岡崎逆心の刻…」と記しており、1日遅れで伝え聞いた4月12日をもって、松平元康が裏切ったと判断していることがわかるのですが、
松平元康は実はその前から今川方に対する敵対行動を起こしており、永禄4年(1561年)4月5日に、松平元康は東条での戦いで活躍した都築右京進をほめる書状を出していることからわかるように、閏3月~4月上旬には今川方の吉良氏と戦闘に入っていました(◎_◎;)
今川氏真は松平が吉良を攻めたことは今川に対する裏切りだと判断しなかったということですね(;^_^A
織田信長はこれを見て(松平元康と裏で手を組んでいたかどうかは不明だが、おそらく和睦の際に決められた織田の勢力範囲内にあたる部分を手に入れに行ったのだろう)、西三河を攻撃します。
まず梅坪城を攻撃し、敵を追いつめますが、敵も必死に反撃して、
前野義高(1504~1561年。父の前野長義は岩倉織田家の奉行を務めた)が戦死します。
一方で、織田方では平井久右衛門が敵方からも称賛されるほどの凄腕の弓矢の技を見せています(平井久右衛門はこの後も何度か『信長公記』に登場します)。
信長はそこで一夜を明かした後、高橋郡(豊田市高橋町・寺部町あたり)を攻撃して火を放ち、
敵方と弓矢の応酬をしています。
続いて加治屋村(豊田市荒井町鍜治屋畑?)を焼き払い、再び一夜を明かします。
翌日、今度は伊保城を攻撃して田畑を薙ぎ払い、最後に尾張国境に近い八草城を攻撃し、
ここでも田畑を薙ぎ払って帰国しました。
ここで攻撃した城を落としたのかどうかはわからないのですが、
おそらく、織田信長は松平元康の援護のために軽く兵を出しただけだったのかもしれませんし、
西三河に力を見せつけておくだけのつもりだったのかもしれません。
しかし、永禄4年(1561年)中に、織田信長が攻めた周辺にある拳母城を攻撃して落城させていることは確かなようです(城主の中条氏は戦死)。
織田信長はここに佐久間信盛を配置して西三河を任せ、
佐久間信盛は着実に西三河に勢力を広げ、1566年に寺部城を攻略して、
猿渡川~矢作川より西の三河の平定に成功します。
おそらくここまでが織田氏の勢力範囲にするという取り決めがあったのでしょう。
織田信長がこの時に三河に本腰を入れず、三河を松平元康に任せる形にしたのは、
おそらく美濃国の重大な情報をつかんでいたからでしょう。
それは何かというと、美濃の大名、一色(斎藤)義龍の病が重いという情報でした!!💦
0 件のコメント:
コメントを投稿