美濃平定に乗り出した織田信長は、
永禄4年(1561年)5月、森辺(森部)の戦いで大勝し、西美濃地域に勢力を拡大します。
順調に思われた美濃平定ですが、だんだんと雲行きが怪しくなっていくのでした…😱
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇十四条・軽海の戦い
十四条・軽海の戦いの始まりについて、
『信長公記』には、5月23日、美濃勢が稲葉山城から大軍(信ぴょう性は低いが『武功夜話』によれば6000)を出撃させた、と書かれていますが、
この記述の中の「5月23日」は、何年のことなのか、というのが問題となっています(◎_◎;)
『信長公記』には、永禄4年(1561年)5月上旬、西美濃に乱入して、各所を放火した後、洲俣(墨俣)の砦を堅固に改修させ、そのまま洲俣に陣取っていたところ…と前置きがあるので、
普通に考えれば、永禄4年(1561年)の、森辺(森部)の戦いのあった5月14日から9日後の5月23日、ということになるのですが、
問題となるのは、
墨俣砦を改修したのが「5月上旬」、ということです(◎_◎;)
なぜ問題になるのかというと、
①森辺(森部)の戦いの時、信長は5月13日に美濃に進攻しており、5月上旬ではない
②森辺(森部)の戦いの際の記述には、美濃勢は墨俣方面からやってきた、と書いてあり、この時まで墨俣は美濃勢のものであったことがわかる
…からです。
信長が墨俣を奪い取ったのは5月中旬以後なのに、墨俣砦を5月上旬に改修している…これは矛盾しています(◎_◎;)
そのため、墨俣砦を改修したのは永禄4年(1561年)の5月上旬ではなく、永禄5年(1562年)の5月上旬なのではないか…とする史料も見られます。
例えば、(信ぴょう性は低いが)小瀬甫庵の『信長記』、『総見記』、『尾張群書系図部集』は「永禄5年」としています。
十四条の戦いで燃え、後に再建された八幡神社にある石版には、昭和58年のものですが、「永禄5年」としています。
難しい問題なのですが、自分は永禄5年(1562年)説をとりたいと思います💦
もし永禄4年(1561年)の事だとすると、信長は永禄5年(1562年)に一切戦わなかった、ということにもなるんですよね、実は…(;^_^A
後で述べますが、永禄5年(1562年)ではないかとする理由は他にもあるので、ここでは永禄5年(1562年)でいかせてください!(;'∀')
永禄5年(1562年)説でいくと、森辺(森部)の戦いの後の織田信長の動向は、次のようになります。
永禄4年(1561年)
5月14日 森辺(森部)の戦い
6月 信長、大垣城北部の神戸市場(神戸町)に禁制(攻撃しないという保証書)を出す
6月6日 尾張勢は攻勢に出ずに滞陣、一色(斎藤)龍興と、東美濃に勢力を持つ長井隼人佐が和談したことを知らせる瑞龍寺の書状。
6月16日 この頃信長帰国。もう10日長引けば出陣するつもりであったことを長井隼人に知らせる武田信玄の書状。
永禄5年(1562年)
2月27日 2月2・3日頃に美濃・尾張が人質を交換し、和睦したことを知らせる快川紹喜の書状。
ここからわかるのは、織田信長が、森辺の戦いの後も西美濃でしばらく戦いを続けていたが、一色龍興と対立していた長井隼人が和睦し、長井隼人と協力関係にあった武田信玄がその要請に従って美濃に出陣するそぶりを見せたため、信長は退却し、その後和睦した…ということです。
またしても信長の美濃攻めはうまくいかなかった、ということになります(-_-;)
先に述べた快川紹喜の書状には、墨俣と西方の2つの城を改修し…とあり、
墨俣は再び一色(斎藤)のものになっていたことがわかります。
信長は状況を打開するため、永禄5年(1562年)、再び美濃に出陣します。
『総見記』には、永禄5年(1562年)5月上旬に、信長が6000の兵を率いて西美濃に出陣し、多芸山のふもとから各所を放火しつつ北上し、墨俣に至って堅固な砦の建設を開始した、大垣城の者はこれに驚き、稲葉山城に報告したが、稲葉山城ではどうすべきか長く話し合っているうちに、夜も休まず普請を続けていた砦が完成し、信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に100の兵を与えて城主とした…とあります(墨俣にはもともと砦があったので築いた、というのは誤り。『信長公記』にあるように改修した、というのが正しい)。
『信長公記』には記述がないですが、『総見記』には「九条[十九条の誤りか]と云う所に要害を拵え織田勘解由左衛門を入れ置かる。是は犬山の城主十郎左衛門が弟なり」とあり、
織田信長はこの時、さらに十九条にも砦を築いており、信長はこの城に犬山城主・織田信清(織田信長の従兄弟にあたる)の弟、織田広良を置きました。
美濃勢はこれを捨て置けず、ついに冒頭で紹介したように、5月23日に稲葉山城を出陣、
十九条城の北にある、十四条に陣を構えます(十四条と十九条の間には、十七条と十八条という地名も残っている)。
このタイミングで出陣したのには意味があったようで、『総見記』には、
雨が降り続いて洲俣川が増水していたので、織田方の援軍が渡りづらくなるだろうと考えた、とあります。
永禄5年(1562年)5月23日は西暦に直すと6月24日となり、ちょうど梅雨の時期にあたりますから、雨もよく降っていたことでしょう。
(現在の地図を見ると墨俣城から十九条まで川は無い[墨俣城の南に川がある]ので、この記述は誤りか?と思ったら、明治24年の地図を見ると、なんと墨俣城の北に川が流れている!!長い間に流れが変わったのですね(;^_^A 『総見記』の記述は正しい、ということになります)
一色龍興は先陣を牧村牛之助、第二陣を稲葉又右衛門に任せ、織田の援軍が来れないうちにと十九条に攻め寄せました。
これに対し十九城主の織田広良は泳ぎの達者なものに命じて、墨俣にいる信長に窮状を報告しに行かせます。
これを聞いた信長は先陣を池田恒興、二番を佐久間信盛、三番を柴田勝家として即座に出陣(信ぴょう性は低いが『武功夜話』によれば3000)したものの、川はかなり増水していて織田兵は渡河をためらいました。
この様子を見た信長は、「河水増ればとて勘解由左衛門を眼前に討たすべきか」と言って単身川に突入します。これを見た家来たちは次々に川に入り、こうして、全軍が川を渡ることに成功します。
織田広良と合流した信長に対し、織田広良は自分の領する土地なのだからとしきりに先陣を望んだため、信長は先陣を池田恒興と交代させました(『総見記』)。
この後の流れは、『信長公記』と『総見記』では違いが見られます。
まず『信長公記』の内容を見てみると、
早朝に十四条付近で戦いが起こり、
織田軍は十九条城主・織田広良が戦死(討ち取ったのは野々村三十郎)するなど、敗北を喫してしまいます。
『信長公記』には、その後、美濃勢は勝ちに乗じて軽海に進んだ、とあるのですが、
十九条城とは正反対の方向に進んでいるので、頭の中に?マークが浮かびました。
調べてみると、どうやら、十四条の近く、軽海には永禄3年(1560年)に池田恒興の家老・片桐俊元(片桐且元との関係は無い)が修築した軽海西城があったそうなので、
美濃勢はこの軽海西城を攻め落とそうとしたのだと考えられます。
(※軽海西城跡に残る、本巣市教育委員会がたてた案内看板に永禄3年[1560年]とあるのですが、美濃勢に苦戦していた1560年の段階でこの地まで勢力を広げていたとは到底思えず、永禄4年[1561年]の誤りかと思われます(;^_^A)
織田信長(この時清洲城から到着した?清須から軽海まで33㎞、徒歩では7時間の距離なので、走ったら4時間半ほどで着く距離)は馬で軽海方面を駆け回って状況を把握し、
軽海西城付近に、兵を東側に向けて布陣しました。
信ぴょう性は低いものの『武功夜話』によれば、織田軍は松の木や祠を盾にして戦ったという事なので、
防戦に向いた場所を織田信長は各地を現地を駆け回って選定したのでしょう。
ここで美濃勢と激突し、おそらく夕方頃に始まった戦いは日没となった後も続けられ、暗闇の中の乱戦となります。
美濃勢は真木村(牧村)牛介が突撃を仕掛けてきましたが、これを撃退し、
進んで稲葉一鉄の叔父・稲葉又右衛門を攻撃、
池田恒興・佐々成政が協力してこれを討ち取ります。
夜戦は続きましたが、美濃勢は夜に紛れて撤退します。
織田信長は夜中のことで、突然夜襲を仕掛けてくるかもしれないと案じて、
軽海に朝まで残り続け、夜が明けてから墨俣に戻りました。
次に『総見記』の内容を見てみます。
夜間、織田広良は織田軍を案内しながら先頭を進んでいると、これに気づいた美濃勢の先陣、牧村牛之助が織田軍に攻撃を仕掛けた、織田広良は奮戦してこれを退けたものの、次にやってきた稲葉又右衛門隊の野々村三十郎に討ち取られた。織田方は池田恒興・佐々成政が稲葉隊に突撃、稲葉又右衛門を池田・佐々が協力して討ち取った。二人はお互いに首をゆずりあったので、これを見た柴田勝家はその首を取って信長のもとに届け、事情を報告した。その後、池田恒興は負傷し歩けなくなっていたが、家来の片桐俊元・戸倉四郎兵衛が敵の馬を奪い取ってこれに主人を乗せて戻った。夜間であったので勝敗がわからなかったものの、信長は又右衛門を討ち取ったためかったと考えて勝鬨をあげさせた。美濃勢も織田広良を討ち取ったことに満足してすばやく引き上げた…。
『信長公記』では十四条・軽海で朝・夜の二回戦っているのですが、『総見記』では夜の一回だけだということがわかりますね(゜-゜)
『中古日本治乱記』でも十四条・軽海の戦いについて記されているのですが、大筋は『総見記』の内容と同じなので、異なる部分だけかいつまんで紹介します。
①西美濃を攻めるにあたって、近江(滋賀県)の六角氏に林佐渡守を派遣して応援を頼んだが、六角承禎は「龍興如き弱将に、織田・佐々木(六角)の2人でかかっては、世の人々の嘲弄を受けるだろう。織田だけで攻めて、織田の手に余るようであったら佐々木(六角)が美濃を攻め取ろう」と憎々しげに返答した。林佐渡守がこれを信長に伝えると、信長は「後には思い知らせん」と怒りながら西美濃に出陣した。
②洲俣砦には織田勘解由左衛門(広良)を入れ、十九条城には犬山城主の織田信清を置いていた。
③信長は渡河する際に、「今、勘解由を捨て殺しにしたら、今後誰が勇んで城を守るだろうか、者ども続け」と言った。
④池田恒興は先陣を代えられる際に、「勘解由殿は当所の守兵であるから、先手を望むのも道理である。信輝(恒興)は二陣を担当します」と言った。
⑤牧村牛之助は先に軽海に到着して敵を待ち構えていた、そこに織田勘解由隊が攻めこんだが、深田を越えて疲れて息絶え絶えになっていたので、すぐに敗れ去った。織田勘解由は一人、徒歩で奮戦し、5・6人を槍で突き伏せた。そこに野々村三十郎がかかってきて、織田勘解由は抵抗したが疲れていたのでついに討ち取られた。
⑥稲葉又右衛門を池田・佐々の二人で討ち取ったとき、池田は佐々に首を取れと言ったが佐々は断った。そこで池田は稲葉の首を持って信長のもとに向かい、経緯を伝えたところ、信長は非常に感動して、二人に褒美を与えた。
⑦戦後、信長は犬山城に織田十兵衛尉(不詳)の350、洲俣城に池田恒興の480、十九条城に佐久間大学(不詳)の320を、それぞれ配置した。
…城主に関する記述はめちゃくちゃな感じがしますが、それ以外は『総見記』の不足部分を補っている感じがしますね(;^_^A
さて、墨俣に戻った織田信長ですが、しばらくして墨俣を去って尾張に向かいます。
墨俣砦を強化するという目的を果たしたからかと思いきや、
どうもこの時尾張に戻ったのには、ある人物が関わっていたようです。
ある人物とは、信長の従兄弟で犬山城主の織田信清。
この信清がどうしたのかというと、なんと織田信長に敵対したのです(◎_◎;)
苦戦しながらも少しずつ進んでいた美濃平定は、ここで後退し、信長は方針転換を余儀なくされることになります😥
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