社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 美濃から伊勢に転進?~北伊勢攻略(1567年)

2023年8月22日火曜日

美濃から伊勢に転進?~北伊勢攻略(1567年)

 河野島の戦いで手痛い失敗をしてしまった織田信長

織田信長は失敗をした後は同じ作戦はとりません。

次の戦いの場所に選んだのは伊勢北部でした。

なぜ伊勢北部を攻撃したのか?美濃攻略はあきらめたのか?

今回はその謎について迫ってみようと思います(;^_^A💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇滝川一益と伊勢

織田軍の伊勢攻めの中心メンバーとなったのが滝川一益(1525~1586年)です。

この滝川一益はどんな人物なのかというと、

『勢州軍記』には、なんと12代景行天皇の子孫だと書かれています。

たぶん盛ったんでしょうが(;^_^A

近江国(滋賀県)の甲賀郡の大原出身と書かれています。

大原というと、滋賀県の最南部にある甲賀市の中でも、だいぶ南の方にあり、

伊勢(三重県)にほど近いところにあります。

地元でよくないことをしたのでいられなくなり、浪人して尾張に流れ着き、

織田信長に認められて仕えるようになったようです。

『寛永諸家系図伝』では、一族の者といさかいになって殺してしまい、

浪人していたところ、鉄砲の腕を買われて織田信長に仕えるようになった、とあります)

つまり譜代でも何でもないのですが、豊臣秀吉や明智光秀のように抜擢されて出世し、蟹江城を与えられて(『蟹江町史』では、蟹江城を任されたのは1574年以降とされています)長島の抑え・伊勢攻略を担当するまでになります。

さて、その伊勢ですが、どのような状態だったのかというと、

『勢州軍記』によれば、大きく4つの勢力圏に分かれていたようです。

伊勢は13郡からなるのですが、

南の5郡を支配していたのは北畠氏。伊勢の国司を務めていた由緒正しい貴族大名です。

北の8郡は3つに分かれ、

一番北から員弁郡・桑名郡・朝明郡・三重郡は、

北勢四十八家(実際に48あるわけではない)と呼ばれる小さな国衆が乱立している状態でした。

員弁郡→上木家・白瀬家・高松家

桑名郡→持福家・木股家

朝明郡→南部家・加用家・梅津家・富田家・濱田家

三重郡→千草家・宇野部後藤家・赤堀家・楠家

この中で最も大きかったのは千草家、次いで楠家でした。

千草家はあの南北朝時代の千草忠顕の子孫であり、北勢四十八家の棟梁という扱いであったようです。

1555年、近江の六角家が北伊勢に侵入した際に千草城主・千草忠治は善戦し、和睦に持ち込んだのですが、ちょうど子がいなかったので、

六角家の家老、後藤賢豊の弟を養子としています(千種三郎左衛門

しかしその後、子が産まれてしまうという最悪のパターンとなり、

疑心暗鬼となった後藤賢豊の弟は千草忠治とその子を追放してしまいます。

名門の千草家もここまで落ちぶれてしまったわけですね…( ;∀;)

後に織田信長の子の信雄により、千草忠治は千草城に復帰することができましたが、この時には子はすでに滝川一益によって亡き者にされてしまっていた状態にありましたので、津城主・富田信高の甥を養子としました(千草顕理)。

しかしこの千草顕理は1615年、大坂夏の陣で戦死、千草家は断絶してしまいます…。

楠家はあの南北朝の争乱の楠木正成の子孫を名乗る家柄で、楠城を本拠としていました。

楠正忠(1498~1574年。後に楠木と改姓)は関氏一族の神戸氏と婚姻関係を結んでおり、

北勢四十八家というよりは、関氏のグループに所属していました。

六角氏とも友好関係にあったようです。

続いて鈴鹿郡・河曲郡を治めていたのが関氏です。

関氏の「関」は鈴鹿の関に由来しています。

関氏の分家にあたるのが鈴鹿郡の峯家・国府家・鹿伏兎家

河曲郡の神戸家でした。

関盛信(?~1593年)は六角氏の家臣、蒲生定秀の娘を妻としており、

六角氏のグループに属していました。

北伊勢で一番南にある安濃郡・奄芸郡を治めていたのが工藤家で、

あの鎌倉御家人・工藤祐経の子孫とされます。

伊勢の長野に住んでいたので、長野氏を名乗りました。

工藤(長野)の分家には、

安濃郡の生家・家所家・細野家・分部家

奄芸郡の雲林院家がありました。

領地を接する北畠家と抗争を続けていましたが、

1558年、北畠具教の次男を養子にせざるを得なくなり、臣従することになりました(息子はいなかった)。

つまり、まとめてみると伊勢は、4つというよりかは2つに分かれている、といったほうがよさそうです(;^_^A

六角グループ→北勢四十八家・関家

北畠グループ→北畠家・工藤(長野)家

近江の六角氏が北伊勢に進出している、というのが驚きですが(◎_◎;)、

北伊勢と六角氏については、

①『天文御日記』天文9年(1540年)10月2日条…「北伊勢…の在所いずれも小弼方の者持ち候所に候」(北伊勢は定頼方が領有する所である)

②天文18年(1549年)8月に伊勢朝倉氏が書いた書状…「先年千草退治にて国錯乱の砌、…梅戸謂われなき違乱これありといえども、五十石米においては、相違有るべからざるの旨、既に佐々木霜台直札これあり」(以前、千草征伐があって、伊勢国が乱れた時に、梅戸氏が秩序を乱すことがあったが、五十石米は朝倉氏の者であることを六角定頼が保証した文書がある)

③『勢州軍記』…六角義賢は、弘治年中(1555~1558年)に、北伊勢を攻め取ろうと、3人の家老の内の1人、小倉三河守に3000余りの兵を付けて千草の城を攻めた。千種家は良く守ったが、六角家の執権、後藤但馬守の弟を千草家の養子とすることを受け入れて和睦した。小倉三河守は続いて千草と共に三重・朝明の両郡を攻撃し、これを支配下に置いた。弘治3年(1557年)3月、近江勢は三重郡の柿城を攻めた。この柿城は神戸方の城であり、神戸与五郎が守っていた。28日、神戸下総守は1000の兵を率いてこれを助けに向かったが、神戸家の家老で鬼神岡城主・佐藤中務丞父子が謀反し、小倉三河守に味方して、神戸城から神戸一族を追い出した。しかし、佐藤の家臣の古市与助は佐藤に背いて鬼神岡の城を取り、神戸家を引き入れた。主人と家来の城が入れ替わったわけである。この頃、神戸と関一党は仲が良くなかったので、長野家に助けを頼んだ。長野家は工藤勢を率いて援軍に駆けつけ、神戸とともに神戸城を攻めた。小倉は防戦したが、神戸が奮戦して城内に突入するに及び、城から出て千草城に落ち延びていった。こうして神戸家は会稽の恥を雪いだのである(『伊勢軍記』では、長野家ではなく、関氏が神戸に味方している)。神戸は佐藤父子を赦すと言って城に招き、父子が城にやって来たところを殺害した。佐藤父子の死骸は市に3日さらされた(『伊勢軍記』は「これを北方の大乱という」と書いている)。小倉三河守はその後、近江市原で一揆勢と喧嘩になり、ついに農民によって殺された。その後、関盛信・神戸友盛は共に六角家臣の蒲生氏の娘を妻とし、永禄年中(1558~1570年)に六角氏の味方となった。関氏の分家にあたる峯家・国府家・鹿伏兎家もみな六角氏についた。工藤(長野)氏は、伊勢国司・北畠具教の次男を養子としていたので、これに従わず、北畠氏についた。この後、関氏と工藤氏は度々争った。ある時、工藤衆は北方の諸将と示し合わせて、船で三重郡塩浜に上陸したが、関衆は兵を隠してこれを待ち構えていた。工藤衆が上陸したところで打って出て、大勝利を収めた。これは大合戦であった。それから関氏の勢力が強まり、北方の諸将は関氏の五家(関・峯・国府・鹿伏兎・神戸)に従うようになった。

…と各史料にあります。

〇北伊勢攻略作戦

『勢州軍記』には、

永禄十年ノ春、濃州ノ住人織田上総介平信長、伊勢ノ国ヲ取ルベシトテ、滝川左近将監大伴ノ宿称一益ヲ大将トシテ、勢州北方ヘ向ヒケル。滝川家尾州境、桑名長嶋ヘン、美濃境多度ヘンヘ打出、北方ノ諸士、或ハ攻、或ハ和之、武威ヲフルヒ、員弁郡、桑名郡両郡ノ諸士、上木、木俣、持福以下、自然ニ織田家ニシタカヒケルトカヤ。」

…とあり、永禄10年(1567年)の春には滝川一益に命じて伊勢攻めを実施、

桑名長島・多度方面を攻撃し、上木・木俣・持福家などが降伏し、

員弁郡・桑名郡を攻略していたことが読み取れます。

伊勢攻めはこれで終わらず、

8月に第二弾を実行に移します。

「永禄十卯年八月、信長ハ初テ桑名表ヘ発向シ玉フニ、北方ノ諸士、南部、加用以下、随之。其後信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。依之、信長、滝川左近将監一益ニ北方ノ諸士ヲ相ソエ、勢州ノ押ヘトシ、勢ヲ打入、岐阜ヘ帰リ玉フ。」

…織田信長自ら伊勢に攻めこみ、朝明郡の南部・加用家はさしたる抵抗もせずに織田信長に従った、続いて楠城を攻め、これを落とし、楠家を先導役としてさらに神戸具盛の家老、山路弾正の守る高岡城を包囲した、この時、美濃三人衆が寝返った、という知らせが届いたので、伊勢の抑えに滝川一益を残し、織田信長は美濃に急行した…という内容です。

連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録がこれを補完しています。

曰く、

8月15日に、津島に向かい、桑名に行こうと思ったら、「長島成敗に尾州太守出陣なれば」…長島攻めのために織田信長が出陣した

18日に大高で、「夜半過ぎ、西を見れば、長島をいおとされ、放火の光夥しく、白日のごとくなれば、起出で」

20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにやってくるらしく、騒がしかった。…

これを見ると、伊勢を攻める前に、まず長島を攻撃していることがわかります。

『弥富町史』には、

鯏浦城の服部友貞が北伊勢の国衆に応援を頼みに城を離れたところを狙って、

織田信長の弟、織田信興(織田信秀の七男。?~1570年)を大将、補佐役に滝川一益がつき、鯏浦の服部党を攻撃、これを破って興善寺に放火した、…と書かれています。

おそらく里村紹巴の見た夜の放火の光というのはこれのことを指しているのでしょう。

ちなみにその後、織田軍は長島近辺に古木江城・鯏浦城を築き、長島の一向宗勢力(服部党)を圧迫していくことになります。

織田信長は美濃三人衆の寝返りで中断したものの、

北伊勢攻略作戦を2度にわたって進めていたわけですが、

なぜ北伊勢を攻略しようとしたのでしょうか?

説の1つには、

足利義秋を救援するための上洛ルートとして、

美濃を使いたいが、河野島の戦いで撃退されたのもあり、難しい。

ならば、ということで、伊勢周りで近江→京都に至る上洛ルートを確保しようとした、というものがありますが、かなり強引すぎやしないでしょうか…。

北伊勢は六角氏グループに属していた、というのを先に述べましたが、

その六角氏は美濃斎藤氏と友好関係にありました。

つまり、この北伊勢攻撃は六角氏の斎藤氏援助ルートをたたこうとしたものであったのではないでしょうか?

長島も攻撃していますし、北伊勢や木曽川を通じて美濃に支援するルートをたたくことで、

美濃の武士たちの動揺を誘った…。

美濃三人衆が織田方に降ったのも、これが関係しているかもしれません。

次回は、その美濃三人衆の寝返りから稲葉山城落城までを取り扱っていこうと思います!🔥


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