前回の社会契約論マンガは12月1日に公開していたので、
3週間ぶりになりますね💦
前回も約一か月ぶりの公開となっていたので、いつもお待たせしてすみません(-_-;)
前回のマンガでは、
「立法権」と「執行権(行政権)」では、大事なのは立法権の方である、
なぜなら、法律を作り、変更し、廃止する権利が、主権者のもとにあるからこそ、
みんながやりたいこと(一般意志)が法律という形となって表れるのであり、
みんながやりたいことと反する法律ができた時に法律を変更したり廃止することができるのであって、
みんながやりたいこと(一般意志)が実現し、守られる社会となるためには必要不可欠なものなのだ、ということについてやりました。
その立法権は、現在の日本では主権者である国民を代表する国会議員に委ねられていますが、「立法権を委ねる(任せる)」ことについてルソーはどう言っているのか、ということについて見ていこうと思います🔥(今回のマンガで取り扱うのは、第三編第15章部分になります)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇主権は代表できない~ルソーはかく語りき
「国民主権」…国民に主権がある、と小学校で習いますが、
「主権」とは何でしょうか?
ルソーは第二編第1章でこう言っています。
「主権とは一般意志の行使に他ならない」
「一般意志の行使」とは何ぞや…!?(;^_^A
「行使」とは実行すること、ですから、
「みんなのやりたいこと(一般意志)を実際に行うこと」ということになりますが、
これだと執行権(行政権)の分野になってしまいませぬでしょうか。
まぁ、第三編第1章には、
「行政権は政府にある。…政府は間違えられやすいが主権者ではなく、…権力の行使を委任されているにすぎない」とあるんですが。
同じく第三編第1章には、
「主権者のすべての行為は法を定めることである」
とあるので、ルソーの言う「主権」とは、「法律を作ること」だということがわかります。
「法律」とは「みんながやりたいこと」を形にしたものです。
政府は主権者が決めたことを実行する存在にすぎません。
つまり、国のやることの最終決定権は、国民にあるということになります。
ある家庭で旅行先を決める最終決定権が、母親に任せられるとしても、
国の法律(一般意志。みんなのやりたいことを形にしたもの)を決める最終決定権(主権)は、国民ひとりひとりにあります。
しかし、現在の日本では、法律を作り、決める力は国民になく、
国会議員にあります。
国会議員は、日本国憲法前文でいうところの、
「正当に選挙された国会における(国民の)代表者」のことですが、
同じく日本国憲法前文に、主権は「国民の代表者がこれを行使」する、とあります。
しかし、この国民を代表して主権を代わりに行使する国会議員について、
ルソーはこう言います。
「主権は代表できない。意志は代表されるものではない。一般意志に中間は存在しない」
国会議員を真っ向から否定しているわけですが💦、なぜでしょうか。
ルソーは、第二編第3章でこう言っています。
「政治団体は作ってはならない。なぜなら、意見の数が減り、より少ない意見によって国が動かされてしまうことになるからだ」
ルソーは意見の多様さを重視します。
同じく第二編第3章で、ルソーはこう言います。
「すべての人の利害は、各人の利害と対立することによってはじめて合致する」
Aの意見とBの意見が対立したとき、その共通する部分が「一般意志(みんながやりたいこと)」になるのだ、とルソーは言います。
例えば200人生徒がいる学校があるとします、
ある校則について200通りの意見が出て、その200個の意見の中では対立する部分も多く見つかり、共通する部分を見つけるのは容易なことではないでしょう。しかし、共通部分が見つかれば、それはみんなが納得するもの(=一般意志)であるはずです。
しかし、10個あるクラスの級長がクラスの代表として10人集まって、その出した意見の共通部分は、全体の意志を代表しているのかといえば、それは明らかに違うでしょう。意見が少ない分、対立する部分が200人の時と比べて少なく、そぎ落とされる部分は多くないために、10人の意見の中で残った共通部分は、学校のみんなが納得できない部分が残っているはずです。
そのため、ルソーはこう言うのです。
「だから代議士は人民の代表ではないし、人民の代表になることはできない。代議士はただの代理人であって、最終的な決断を下すことはできない」
ルソーの言う守る義務のある「社会契約」とは、「一般意志に従う」というものだけです。
代表たちの意見は「一般意志」ではありません。
ですから、代表たちでは人々を従わせる、一般意志が形となった「法律」を作ることができないのです。
ですから、国会議員はなんだか偉そうにしていますが、
(給料も一般人よりも多くもらって)
本当はただの代理人であって、
本当は、自分の意志だけで法律案などに対する意思を表明してはならず、
いちいち地元に帰って、地元民の意志をまとめなければならないのです。
ですから、国会議員の仕事というのは、地元民の意志をまとめて法律案を作ること、法律案の趣旨をわかりやすく説明して地元民の意志を知ること、であるはずです。
しかし実際は国会議員は選挙の時くらいしか顔を見せませんし、何かの行事に挨拶するくらいで、
今国会ではこんな法律案を審議しています、こんな趣旨です、皆さまどう思われますか、皆さまの意見を集約させていただきたいと思います、などと言っている場面は見たことがありません。
一度当選してしまえばこっちのもので、自分の意志や、一部の意志(利権団体など)だけを判断材料にして国会で行動します。
本当は、衆議院であれば、小選挙区は選ばれた地域の意見を集約し、共通部分を見つけることに奔走しなければならないはずで、比例代表区であれば、そのブロック(北陸信越ブロックなど)の意見を集約しなければなりません。
ですから、小選挙区選出の議員からは細かい地域の共通意見が、比例代表区の選出議員からは、より広い範囲の共通意見が期待できる…はずなのですが、実際はそんな仕事している様子はありません。
ルソーも第二編第3章で「政治団体は作ってはならない」と言っていますが、
政党があるために、自分が選ばれた地域のために活動するのではなく、
自分の所属している政党に従って活動しているんですよね…(-_-;)
つまり、「一般意志」(みんながやりたいこと)ではなく、
「特殊意志」(特定の人物・組織がやりたいこと)を優先して活動するわけです。
国民は、みんなのやりたいこと(一般意志)が法律となり、それに従うのなら納得できます。
自分のやりたいことなんですから、言うなれば自分が自分を従わせているのといっしょです。
しかし、実際は政党のやりたいこと(特殊意志)によってつくられた法律に従わせられているわけで、
これだと自分の望まないことに従わせられることになるわけで、
これは奴隷状態であると言ってもいいでしょう😥
ルソーは、
「イギリスの人民は自由だと考えているが、それは大きな思い違いだ。自由なのは、議員を選挙している間だけだ。選挙が終われば、人民はもはや奴隷である」
と第三編第15章で有名な言葉を語っていますが、
国会議員は選挙の時だけペコペコして、地元民の意見を聞こうとする姿勢を見せますが、
当選すればこっちのもんだとばかりに、有権者を顧みなくなります。
ですからルソーは、
「人民が自ら参加していない法律は、無効である」と断じるのです。
国会議員に任せていたら、「一般意志(みんなのやりたいこと)」は実現できません。
国民は「一般意志にのみ従う」のであって、「特殊意志」には従う義務はないのです。
次回では、ルソーが人民の政治に参加について述べた部分を紹介したいと思います!
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