本国寺の変後の1月10日に京都に駆けつけた織田信長は、そのまま4月21日まで、約3か月にわたって京都に滞在することになります。
その中で、信長は京都で行われた行事を見物しているのですが、そこであるアクシデントが起こってしまうのでした…(;^_^A
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●三毬打(左義長)
「左義長」という行事があります。
福井県勝山市の左義長がとくに有名で、杉や松の木を中央に据えて、それに竹を左右斜めに掛け合わせて四角錐の形となった「松飾り」と呼ばれるものに、役目を終えた正月飾りを中に入れ、藁で囲み、夜間に燃やす火祭りです。
現在は観光客のことを考えて2月に行われていますが、古くは小正月(1月15日前後)にあたる1月14日に行われていました。
この左義長はもともとは「三毬打」と書いたのですが、これは、馬に乗って毬を打ち、毬門に入れたグループを勝ちとする競技で使われる道具、毬打(ぎっちょう)を竹を組んだものに3つ結び付けていたことに由来しているそうです。
朝廷ではすでに鎌倉時代から行われていたようですが、室町時代になると、1月15日に加えて、18日にも三毬打を行うようになりました。
15日の三毬打は東庭で公開せずに行なった一方で、18日の三毬打は南庭にて一般の人々にも公開で行われ、しかも15日のものより大規模に実施されたので、15日のものを「小三毬打」を呼ぶのに対し、18日のものは「大三毬打」と呼ばれたそうです(村上紀夫氏『中近世の禁裏三毬打と大黒』)。
この公開された「大三毬打」は庶民に大人気となっていたようで、『言継卿記』には、
・見物に来た雑人(庶民)は近年では特に多かった。(永禄9年(1566年))
・見物の群衆が南庭に満ちていた。(永禄10年(1567年))
・大雪の中であったけれども、貴賤男女を問わず多くの者が見物に集まった。(永禄11年(1568年))
…と書かれています。
大人気であった「大三毬打」ですが、その中ではこんな事件も起きたようです。
暮れに三毬打が始まった。26・27本を燃やした。例年の如く、見物の者たちと聲聞師との間で喧嘩が起こり、負傷する者もあったという。危険な感じになってきているのはけしからぬことである。公家の家来たちもこれに加わっているとか。言語不可説不可説(まったくけしからぬ)。(天文17年[1548年])
ここで出てくる「聲聞師」について説明すると、芸能者の集団で、三毬打の際には内裏に呼ばれて、『お湯殿上の日記』によると、「ふえ。たいこ。つつみ。かつこ。はうなとにてはやしまいらする」とあり、笛・太鼓・鼓・鞨鼓を鳴らしたり、棒を振ったり、囃子(舞の調子を取るかけ声や演奏)を行なったりしたようです。
『言継卿記』を見ると、
・未明に参内した。三毬打は例年の如く聲聞師が囃子を行なった。(永禄9年(1566年))
・寅の刻(午前4時頃)、三毬打のため参内した。例年の如く聲聞師が囃子を行い、夜が明けるまでこれを行なった。(永禄10年(1567年))
・明け方、三毬打を例年の如く行なった。大黒以下の聲聞師は参内して囃子を行なった。(永禄11年(1568年))
…と聲聞師の活動が記されています。
篠崎東海(1686年~1740年)が書いた『故実拾要』には次のように、詳しく聲聞師の行う囃子の様子が書かれています。
左義長を焼く時に「陰陽師大黒」が囃子を行なう。先ず扇を持って清涼殿の庭の中央右の方に立ち、囃子を行ない、次に笹の枝を持った大黒が向かい合って囃子を行なう、次に鬼面をつけた子どもが短い棒を持って舞曲を行なう、次に面をつけ、頭に赤熊をかぶった子ども2人が太鼓を持って舞曲を行なう、次に小さい鞨鼓を前にかけて打ち鳴らしながら舞曲を行なう、舞曲の際には、他の者が笛・小鼓を鳴らして囃子を行なう。この間に、左義長に吉書(書初め。三毬打で焼くと書道の腕が上がるとされていた)を添えて焼くのである。
囃子で行うかけ声について、
「唐土やおほん左義長やおほん、とはやしをどりて、火をもやす、京中の諸人あつまりミる」
と、中川喜雲が寛文2年(1662年)に『案内者』に記しています。
(信長が安土城を作った近江八幡市にある日牟礼八幡宮の左義長祭では、「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」とかけ声をする)
ここまで聲聞師について紹介をしましたが、天文17年(1548年)の三毬打では、この聲聞師と見物の人々との間でなぜ喧嘩に発展するようなことがあったのでしょうか。
中川喜雲は『案内者』に次のように記しています。
左義長の竹を取った者勝ちで取って、弓を作り、小的を射れば、1年間疫病にかからずに済む、という言い伝えがあるので、皆この竹を欲しがって燃えているところに集まる。その年の恵方に向けて倒すのだが、このことをよく知らない者は、(恵方の方にいて)倒れてきた三毬打の火で髪の毛や衣服を焦がす。人々は倒れた竹を引き合い、奪い合って、手の内を火傷する者もいれば、騒ぎ争う者もいるという。
…竹をめぐって取り合いが起こるので、竹の近くにいる聲聞師が「邪魔だ!」ということで喧嘩になることがあったのでしょう😓
さて、ここまで三毬打(左義長)については話をしてきましたが、その理由は、織田信長と関係する事があるからなのですね。
永禄12年(1569年)の三毬打の様子を、『言継卿記』に拠って見てみます。
1月14日…明日禁裏で三毬打があるというのに、届くのが遅い。内侍所に行ってこのことを伝えると、堅く申し付けるとのことだった。山科大宅郷から三毬打用の竹が例年のように280本届いた[70門の分である](山科言継は三毬打を用意する担当であった)。三毬打10本を禁裏に進上した(進上したことを知らせる山科言継の書状には「三きつちやう」と書かれている)。
1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。暮れに参内し、東庭で三毬打を行なった。吉書を納め、蠟燭をもって火をつけた。例年の如く仕丁(朝廷の雑用係)が囃子を行なった。葉室(頼房)から注文していた藁が届いた。18日の三毬打用のものである。
1月16日…例年の如く、深草から18日の三毬打用の竹[9寸]4本、「しん竹」(真竹。心竹とも。三毬打の要となる大型の竹)1本などが届いた。
…ここまで、例年通りに準備が進んでいたのですが、
1月17日…明日の三毬打は延期になったという。諸国の衆が以ての外に集まっているからだそうである。
…いつも18日に行われていた三毬打が延期となってしまいます。本国寺の変後、義昭救援のために諸国から軍勢がかけつけてきていましたが、左義長を見物しようと集まり、いい場所を得ようと、物騒な雰囲気になったためでしょうか。
1月18日…明日に三毬打が行われることになった。織田弾正忠が三毬打の見物に来るという。また、警固もすると申し出てきたという。朝食後、例年のように、禁中で三毬打の準備を行った。
…しかし、左義長は1日延期しただけで行われることになりました。おそらく、朝廷の様子を見た信長が、混乱が起きないように警固を申し出てきたからでしょう。信長の部隊がいれば、諸国の軍勢も大人しくならざるを得ません。
そしていよいよ、信長参観のもと、三毬打が実施されます。
1月19日[天晴]…早朝に三毬打のため参内した。織田は日の出の後にやって来た。近習500人ほどを連れてきていた。その他の者たちは門外で警固にあたっていた。聲聞師が例年のように囃子を行なった。烏丸右中弁(光宣)が進上した三毬打が最も大きかったが、燃える中で足元が崩れ、平伏する形となったのは見苦しかった。
…連れてきたのが500人とはかなり多いですね😮しかもまだ門外にもいます💦
三毬打が倒れたまま燃えているのを見苦しい、と山科言継は言っていますが、この時はまだ恵方に倒す習慣が無かったのか、それとも、恵方に倒す前に早い段階で勝手に倒れたからでしょうか。
そしてこの三毬打の後、ある事件が起きます。
織田に小御所の庭で酒を賜ることになったが、(信長は)すでに到着しているのに、銚子がなかなか届かず、その間に(信長が)退出してしまった。「仕合せ不弁の至りなり」(物事を運ぶ様子が非常にまずかった)。
…見物に訪れた信長に、朝廷から酒が与えられることになったのですが、手違いからかなかなか酒が用意できず、しびれをきらした信長が帰ってしまった、というのです。
このことについて、今谷明氏は『信長と天皇』で、「信長が本心から朝廷を重んじていたとはとうてい考えられない」としていますが、桐野作人氏は「この一件だけで「尊王家」云々は大げさな議論だろう」と記しています(『織田信長』)。
実際、信長はこの後、朝廷に対していろいろと尽くす行動をとっていますし。
山科言継も信長の退出について、こちらの物事を運ぶ段取りがまずかった、と記しており、朝廷側からも、信長の行動はとんでもない、思いあがった態度だ、とはとらえられていなかったようですし。
まぁ信長も残っていればよかったとは思いますが、いったいどれだけ待たされたんでしょうね😅寒かったでしょうし、フロイスが『日本史』で「inimigo de dilações e grandes preambulos quando se com elle fallava」(信長は話をする際に、だらだらと話されるのと、長い前置きを嫌った)と書いているような、信長のせっかちな性格も関係していたでしょう。
●『言継卿記』の三毬打に関する記述(一部)
永禄9年(1566年)
1月14日…(山科家領の)大宅郷より、三毬打用の竹が今日送られてきた。三毬打70本分の280本であったが、100本不足しているという。
1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。三毬打10本を禁裏に進上した。
1月18日…未明に参内した。三毬打は例年の如く聲聞師が囃子を行なった。見物に来た雑人(庶民)は近年では特に多かった。
永禄10年(1567年)
1月14日…(山科家領の)大宅郷より、三毬打用の竹を巳の刻(午前10時頃)に持ってきた。70門の分280本であったが、10本不足しているという。禁裏用に10本、山科家用に3本、三毬打を用意したが、日が暮れかかってきていたので、禁裏には明日進上することにした。
1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。
1月18日…寅の刻(午前4時頃)、三毬打のため参内した。例年の如く聲聞師が囃子を行い、夜が明けるまでこれを行なった。見物の群衆が南庭に満ちていた。
永禄11年(1568年)
1月14日…(山科家領の)大宅郷より、例年の如く三毬打用の竹280本を持ってきた。
1月15日…吉書を入れた三毬打三本を焼いた。三毬打10本を禁裏に進上した。
1月18日…明け方、三毬打を例年の如く行なった。大黒以下の聲聞師は参内して囃子を行なった。大雪の中であったけれども、貴賤男女を問わず多くの者が見物に集まった。
永禄12年(1569年)
1月14日…明日禁裏で三毬打があるというのに、届くのが遅い。内侍所に行ってこのことを伝えると、堅く申し付けるとのことだった。山科大宅郷から三毬打用の竹が例年のように280本届いた[70門の分である]。三毬打10本を禁裏に進上した(進上したことを知らせる山科言継の書状には「三きつちやう」と書かれている)。
1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。暮れに参内し、東庭で三毬打を行なった。吉書を納め、蠟燭をもって火をつけた。例年の如く仕丁が囃子を行なった。葉室から注文していた藁が届いた。18日の三毬打用のものである。
1月16日…例年の如く、深草から18日の三毬打用の竹[9寸]4本、「しん竹」1本などが届いた。
1月17日…明日の三毬打は延期になったという。諸国の衆が以ての外に集まっているからだそうである。
1月18日…明日に三毬打が行われることになった。織田弾正忠が三毬打の見物に来るという。また、警固もすると申し出てきたという。朝食後、例年のように、禁中で三毬打の準備を行った。
1月19日[天晴]…早朝に三毬打のため参内した。織田は日の出の後にやって来た。近習500人ほどを連れてきていた。その他の者たちは門外で警固にあたっていた。聲聞師が例年のように囃子を行なった。烏丸右中弁が進上した三毬打が最も大きかったが、燃える中で足元が崩れ、平伏する形となったのは見苦しかった。織田に小御所の庭で酒を賜ることになったが、(信長は)すでに到着しているのに、銚子がなかなか届かず、その間に(信長が)退出してしまった。「仕合せ不弁の至りなり」(物事を運ぶ様子が非常にまずかった)。
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