「手足を縛る」と検索すると、「手足拘束ベルト」なる商品(Amazon)が出てきます。
なんでこんなものが⁉と思ったら、認知症患者の介護用なんだとか。
厚生労働省が精神科病院に対して行った調査では、身体拘束の措置を取った例が、ここ10年で倍増しているそうです(2007年は6786人、2017年は12528人。しかし、都道府県によって実施率に顕著な差があり、埼玉の9.94%に対し、岡山は0.86%という)。
なぜ拘束するのかといえば、厚生労働大臣の定めた基準によれば、
ア 自殺企図又は自傷行為が著しく切迫している場合
イ 多動又は不穏が顕著である場合
ウ ア又はイのほか精神障害のために、そのまま放置すれば患者の生命にまで危険が及ぶおそれがある場合
…の場合に拘束が認められるとされ、「患者の生命を保護すること及び重大な身体損傷を防ぐ」のが目的なのだそうです(認知症になった人は自殺願望が大幅に増加するそうです)。
厚生労働大臣が定めた基準では、「代替方法が見出されるまでの間のやむを得ない処置として行われる行動の制限であり、できる限り早期に他の方法に切り替えるよう努めなければならない」とされています。
つまり、手足の拘束は基本行なうべきでない、やむを得ない場合に許される非常手段であることがわかりますが、
織田信長はなんと将軍義昭の「手足を縛った」ことがあるというのですね(◎_◎;)
この場合は比喩で、直接手足を縛るわけでは無く、「行動の自由を制限する」…将軍としてやれることを制限した、という意味になるのですが、
今回は、この信長が「将軍の手足を縛った」とされる掟について見ていきたいと思います!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●殿中御掟
信長が上洛してから間もない1月14日に、「殿中御掟」という、室町幕府における規則が作られます。この掟は義昭の承認のもと、信長の名で出されたものでした。
この掟は、奥野高広氏が『織田信長文書の研究』で、「幕府の内部にたいし、信長の与えた掟であって、将軍の手足を縛ったといえよう。将軍と信長が不和となった姿が如実に見られる」としているものですが、実際、どのような内容であったか、見てみましょう。
①不断に召し仕わるべき輩 御部屋衆・定詰衆・同朋以下、前々の如くたるべき事
常に将軍の側に仕えるべき者たちについて述べたものです。
「御部屋衆」は、6代将軍足利義教によって設置された役職で、もともとは2人選ばれて、1日交替で将軍のすぐ側を警固する役職であったようです。その後は将軍の側に仕える役職に変わっていきました。信頼できるものにしか任せられないので、これに選ばれたものは側近中の側近であったと言えましょう。『永禄六年諸役人附』によると、御部屋衆に選ばれたのは、三淵藤英が代表する三淵氏や、大舘氏・一色氏などがいました。
「定詰衆」も、当番制で夜間に将軍の側に控える親衛隊と呼べる役職であったようですが、これは御部屋衆よりはランクは落ちるものの、将軍の近臣であったといえる者たちです。『永禄六年諸役人附』によると、一番から五番の5組編成となっていて、一番組には、以前にも登場した曽我助乗がいました。
「同朋」は、将軍の側に仕え、こまごまとした雑務を担当した僧のことです。
②公家衆・御供衆・申次、御用次第参勤あるべき事
常勤ではなく、将軍が求めた時に働く事になることになっていた役職。
「公家衆」というのは、朝廷に仕えながらも、将軍にも仕える者たちのことです。
「御供衆」は、将軍が外に出る際にその供を務める役職です。『永禄六年諸役人附』によると、一色藤長や、細川藤孝、上野秀政などがいました。
「申次」は、将軍に文書や届け物を取り次ぐ役職です。義昭が覚慶時代から仕えていた飯川信堅や、義昭が近江の矢島にいた時にこれを受け入れた矢嶋越中守定行などがいました。
申次については、掟の⑧に、
⑧申次の当番衆を閣き、毎事別人の披露あるべからざる事
…とあり、申次を通さずに将軍に文書や届け物を渡してはならない、と定められています。
③惣番衆の面々、祗候あるべき事
「番衆」は、将軍の警固を務める役職です。『永禄六年諸役人附』では、「詰衆・番衆」とセットで書かれており、どうやら定詰衆のもとで働いたようです。
祗候とは側で仕えることです。①の「不断に召し仕わるべき輩」と何が違うのかというと、将軍との距離でしょう。将軍近くに控える詰衆と違い、番衆は御所の警固や、将軍の外出時の警固を務める役職であったので、将軍と直接関わる機会は詰衆と比べて少なかったと考えられます。
④各召仕う者、御縁へ罷上る儀、当番衆として罷下るべきの旨、堅く申し付くべし、もし用捨の輩においては、越度たるべき事
将軍に直接仕える立場にないものが御所に入ろうとしたときは番衆が止めなければならない、というきまりです。
①~④について、池上裕子氏は『織田信長』で、幕府が再興して、新参者がいたり、さまざまな者が御所に出入りするようになったので、「動め方・奉公の仕方について明文化」し、決まった者以外は御所に入れないようにすることで、「御所内の秩序づけをはかったものである」としています。
これと同種であるのが⑨で、
⑨諸門跡の坊官・山門衆徒・医・陰の輩以下猥に祗候あるべからず、付り、御足軽・猿楽は召に随って参るべきの事
…とあり、これは、僧侶・僧兵・医者・陰陽師が将軍と節度を越えて面会することを禁じたものです。一方で。足軽衆や猿楽の者たちは将軍に呼ばれたら対面が許されていました。足軽衆は合戦時に将軍の武力となる者たちで、以前に紹介したように、野村越中守や明智光秀がこれを務めていました。
⑤~⑦は政務や裁判に関するきまりです。
⑤公事篇の内奏御停止の事
訴訟について、奉行衆を通さずに将軍に直接訴えるのを禁止したものです。
「奉行衆」とは幕府の政務を担当する者たちのことです。
『永禄六年諸役人附』は、御供衆→御部屋衆→申次→詰衆(番衆)→奉行衆→足軽衆…の順番で書かれているので、高い地位にあったわけではありませんでした。事務方といったところでしょうか。
⑥奉行衆に意見を訪ねらるる上は、是非の御沙汰あるべからざる事
将軍が奉行衆の意見を聞いた際には、その意見の是非を問わずにそのまま採用されるように、というものです。
⑦公事を聞こし召さるべき式日、前々の如くたるべき
裁判の判決を出す日は今までと同様にする。
また、この2日後に、7条の追加が定められているので、これも見てみましょう。
⑩寺社本所領の当知行の地、謂なく押領の儀、堅く停止の事
寺院・神社の土地を横領することは禁止する。
これに関連しているのが⑯で、
⑯当知行の地においては、請文の上を以て御下知を成さるべき事
…とあり、土地を安堵してもらう際には、その土地が確かに自分の物であることを誓う請文を提出する必要がありました。
自分の物であるという証拠、ではないのがなんとも😓
まぁ、当時は神仏に誓ったことを違えた場合は罰が下る、と信じられていましたので、一定の効果はあったのでしょう(悪人には効果はありませんが…)
⑪請取沙汰停止の事
有力な者に裁判や借金の取り立てを代わってもらう事を禁止する。
⑫喧嘩・口論の儀、停止せられ訖んぬ、若し違乱の輩あらば、法度の旨に任せて、御成敗あるべきの事、付り、合力人同罪
喧嘩・口論は禁止する。違反した場合は罰する。味方した者も罰する。
⑬理不尽に催促を入るる儀、堅く停止の事
正当な理由なく年貢などを催促することは禁止する。
⑭直の訴訟は停止の事
これは⑤といっしょです。どうしたんでしょうか。
⑮訴訟の輩在らば、奉行人を以って言上を致すべき事
これは⑧といっしょです。どうしたんでしょうか。
⑭・⑮がかぶっているのをみると、どうも、先の9条の掟とは対象が違っていたようです。
先の9条は幕府内部に対して、追加の7条は幕府外部の者に対して、という感じがします。追加の7条は「武士が」を守護とするとしっくりくるんですよね😕
さて、これまで掟の内容について見てきましたが、奥野高広氏の「幕府の内部にたいし、信長の与えた掟であって、将軍の手足を縛った」ものである、という評価は妥当なものであると言えるのでしょうか。
まず、先に述べたように追加の7条は将軍の権力に関わる事ではありません。
先の9条は将軍と関連するのでこれを見てみると、
⑤の将軍に直接訴えてはならぬ、というのは、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、これを認めると奉行衆はなんのためにいるのか、ということになってしまいます。現在でも訴状は裁判所に出します。総理大臣に出す人はいないでしょう。
⑧の将軍に直接面会してはならぬ、というのも、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、これを認めると申次はなんのためにいるのか、ということになってしまいます。会社の社長に会いたい時に社長に直接電話をかける人はいないでしょう。
⑥は裁判などの際に、奉行衆の意見を将軍はノーと言わずにそのまま受け入れなさい、というもので、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、大日本帝国憲法でも、57条に「司法権は天皇の名に於て法律に依り裁判所之を行う」とあり、裁判は裁判所が行う、と書かれていて、天皇が裁判に関与することを認めていないのです。専門集団でなくて、1人の人間の独断で問題を採決しようとすると、公正な判断がしづらくなるのですよね。鎌倉幕府2代将軍源頼家は裁判に介入することが多く、これが公正さを欠いているという事で問題となり、結局、訴訟問題に頼家が関わることが禁止されることになっていますし。頼家の件もそうですが、将軍(や天皇)を責任から遠ざけることが、将軍(や天皇)を守る事にもつながるのです。
⑨は将軍が僧侶・僧兵・医者・陰陽師を過度に重用してはならない、ということになるので、将軍の権力を制限している!と言えなくもありません。
実際に、先代の将軍の義輝は、僧侶の道増や義俊、医者の曲直瀬道三らを重用し、外交に関わらせていました。
しかし、幕府の構成員でないものが政治に関わる、というのはどうなんでしょう。黒嶋敦氏は『天下人と二人の将軍』で、「彼らが将軍のもとに頻繁に伺候するのは、幕府にとって正常な状態とはいえなかった」と書いていますが、昔、僧侶の道鏡が称徳天皇に寵愛を受けて、一族が次々と昇進するなど、政治に深く関わった時は大騒動となりましたし、現代でも、韓国大統領の朴槿恵が実業家(シャーマンとも)の崔順実(自由に大統領官邸に出入りできた)に政治の機密情報を伝え、その意見に従って政治を行っていた、ということが世間に知られた時は大問題となりました(朴槿恵と崔順実は逮捕されている)。
徳川家康も崇伝や天海を重用したではないか、と言われるかもしれませんが、徳川家康の場合は幕府の草創期で知識人層が不足しており、僧侶に頼る必要があった、と擁護する点もありますし、過度に重用していたわけでもありません(この2人は騒動を起こすことなく、処罰を受けることなく死去している)。
そもそも、⑨は会ってはならない、と言っているわけではありません。過度な寵愛(贔屓)は国を乱すもとになるので、ほどほどになさってくださいね、と言っているのです。
⑥・⑨については、久野雅司氏は『織田信長政権の権力構造』で「天下」の「静謐」(秩序安定)のためには、「恣意・贔屓偏頗を排除した公平性」が必要であった、と書いています。「恣意」とは自分勝手、「贔屓」とは気に入った者を特別扱いすること、「偏頗」とは偏って不公平なことです。
つまりこの掟は世の中が治まるように、将軍の独裁を防ぎ、立憲君主的なものにするものであった、とも言えるでしょう。しかもこれは、幕府の権力を弱める内容の物であったわけでもありませんでした。
また、そもそも、⑥は先例を踏まえたものであったようで、設楽薫氏は『室町幕府の評定衆と「御前沙汰」』で、応仁の乱以降、裁判に関して、管領や評定衆が参加することが無くなり、もっぱら奉行衆だけが意見を述べるようになった、と記しています。
臼井進氏も『室町幕府と織田政権の関係について』で、この掟は「室町幕府が有していた以前の規定を幕府再興に当たり信長の構想した幕府を目指して改めて条文として再確認して規定したもの」であり、「織田信長と将軍義昭が相互に約諾したもの」である、と書いています。
信長がゼロから新たに作り、義昭に押しつけたものではなかった、というのですね。
…こうしてみると、この掟が、「将軍の手足を縛った」ものであるとはとても思えません。
それでは、「支配と秩序の安定をもたらすことを目的とした」(久野雅司氏『足利義昭と織田信長』)この掟はなぜこのタイミングで作られたのでしょうか。
桐野作人氏が、『織田信長』で「信長が上洛してすぐさま、殿中掟と追加を定めたのは、すでに前年の在京中から信長に訴訟や苦情が持ち込まれており、それへの対応策をあらかじめ考慮していたからだろう」とする一方で、
黒嶋敦氏は、前掲『天下人と二人の将軍』で、「たしかに殿中御掟は信長の名義で出されてはいるものの、信長がこのような幕府の司法業務にまで精通していたとは考えにくい。しかも、義昭の将軍就任後すぐに岐阜へ帰り、永禄12年正月10日に再上洛した直後の14日に殿中御掟が出されている。この間、信長が幕府の先例や司法体制について学んでいた痕跡もない」し、この殿中御掟で果実を享受できるのは奉行人を含む将軍側近集団であることから、「殿中御掟の基本スキームは奉行人らによって練られたものとするのが自然ではないだろうか」とし、掟を作った理由を、幕府を本来の姿に戻し、司法業務を推進するためである、としています。
黒嶋敦氏の意見の方が説得力があるように思えますね。後でも述べますが、この時期の信長は、幕政に関しては基本ノータッチで、幕府のことは幕府に任せている傾向が見られます。
しかし、黒嶋敦氏は「なぜこのタイミングなのか」という事は述べていません。
考えてみると、今回の本国寺の変をほぼ幕府の戦力だけで解決することに成功し、畿内における権力を不動のものとした幕府の勢威が向上している時期にあたり、そこにやって来た信長のお墨付きも得て実効性も付与された殿中御掟を出すことで、幕府を本来の形に復古し、幕府が主体となって「天下静謐」をめざしていくことを内外に印象付ける狙いがあった…というのは言いすぎでしょうか。
この時はまだ信長と幕府の関係は蜜月状態にあったといえるでしょう。しかし、両者の関係は次第に齟齬が生まれていくことになるのです…😨
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