社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 大雪の中、本国寺へ急行~御後巻信長御入洛の事

2024年4月7日日曜日

大雪の中、本国寺へ急行~御後巻信長御入洛の事

  足利義昭が襲撃を受けた際、織田信長は岐阜にいました。

足利義昭のピンチを知って、信長はどう動いたのでしょうか…⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの2ページ目は都合により公開しません<(_ _)>

●馬借たちの「からかい」

『信長公記』には、1月6日、美濃の岐阜に(六条の合戦についての)報告が入った、とあります。

急報が入った日について、『細川両家記』は「1月5・6日」とし、『信長記』『足利季世記』『総見記』は『信長公記』と同じく「6日」としています。ここは6日でいいのではないでしょうか。

しかしそれにしても、報告が入るのが遅すぎやしないでしょうか😥

1月3日には三人衆方の軍は山城に入り、4日には本国寺に肉薄し、周囲を放火しています。

情報網の整備の違いはあれ、例えば、後の本能寺の変の際は、6月2日に起こったことが、翌日には遠く離れた越中国(富山県)にいた(しかも東部の魚津城)柴田勝家に伝わっています。

この報告の遅れの謎について、説明してくれているのが『足利季世記』で、

今回のことで、信長がすばやく上洛していれば、三人衆方はあっけなく敗れていただろうに、そうしていなかったのはなぜかというと、三人衆方が本国寺を襲うかもしれないという情報が(足利義昭のもとに)もたらされていたが、真実かどうかわからなかったので逡巡した末に、曽我兵庫頭を使者として派遣して村井民部少輔に相談し、村井が上意が心配されるのももっともなことです、と答え、信長に報告した、という経緯があったので、信長への報告が遅れることになったのである。

…と書かれています。

将軍方としても、三人衆方がまさか摂津・河内を突破してまっしぐらに本国寺を狙ってくるとは思いも寄らなかったのでしょう。

さて、報告を受けた信長が取った行動について、『信長公記』は、

信長はすぐさま上洛するように(領国の者たちに)命令し、自身は一騎でも京都に向かおうと、馬に乗った。

…と記しています。

原文は「一騎懸」とありますが、この後に馬借の者たちがついて行っている様子が書かれているので、一人で突っ走ったわけではありません😓

『信長記』にも、馬廻・近習を連れて出発した、と書かれています。

また、出発する前には、氏家卜全・伊賀(安藤)守就・稲葉父子・丸毛父子・近江勢に、本国寺救援のために即刻出陣せよ、と通達しています(『信長記』)。

丸毛父子は、丸毛長照(光兼とも。『信長公記』には「丸毛兵庫頭」として多数登場している)・兼利のことで、美濃国多芸郡の国衆であり、『総見記』では、永禄3年(1560年)に信長が美濃攻めをした際にこれを撃退した、と書かれています(以前にも紹介)。

『足利季世記』には、

諸勢にも京都に向かうように通達、特に近江衆は急いで出陣するように命じた。

…と書かれています。

続いて、『信長公記』は出発の際に起きた出来事を次のように記しています。

この時、馬借の者たちが荷物の重さが違うのではないかと「からかい」(負けまいとして張り合う・争う)を起こした。信長はこれを見て馬を降り、荷物を一つ一つ手に取って、「同じ重さである、急げ」と命令した。奉行の者がえこひいきをして、荷物の重さに違いをつけたのではないかと考えたので、こうしたのであった。

馬借は『日葡辞書』には「馬子、馬方」とあります。「馬借(Baxacu)馬子・馬方」とは、馬を使って物を運ぶことを職業とする者のことですが、運送業にとどまらず、米の販売なども行っていたようです。

寛正6年(1465年)の越前国(福井県北部)の定書(協定書)には、河野浦・今泉浦と山内(中山・湯谷[ゆや]・八田・別所・匂当原)の馬借が塩・榑(材木)を商売するときの取り決め(河野浦・今泉浦と山内で商売量を均等にすること、市場以外での売買を禁止すること[永正5年(1508年)の定書には、他国から塩・榑を運んできた船から直接買ってはいけない、他国に行って買ってはならない、村落に行って商売をしてはならない、とある。豊田武氏『中世日本の商業』には、「外来商人は、都市内の問屋へこれを持込み、小売を委託せねばならなかった。問屋の手を経ずして商取引の契約をなすことは、外来商人には殆ど禁ぜられていたのである。例えば、京都市民の食用に供せられる米穀は、地方より諸口を経、駄を以て陸続として搬入せられたが、それは必ず米場に着ける義務があり、住民への直接小売や小売商への直売は絶対に許されなかった」、堺から奈良への塩は、堺→馬借→問屋→座という移動を経た、と書かれている)が書かれています。

中学校の歴史教科書などには馬借は室町時代のところで登場しますが、11世紀に書かれた『新猿楽記』に「馬借」と書かれているので、すでに平安時代から存在していたようです。

しかし存在感が高まったのが室町時代で、米の販売をめぐってたびたび土一揆を起こしたので、1603年にポルトガル人が著した『日葡辞書』には先に述べた「馬子・馬方」以外に、「一揆・暴動」のこと、一揆・暴動が起こることを、「馬借が起こる」と呼んだ、と書かれるまでになっています。

さて、今回のエピソードでは、この馬借たちが積荷の重さをめぐって争っているのですが、なぜ争うのだろう?といまいちピンときません。

俺は重いのにあいつは軽い!あいつは楽だ、許せねぇ!…ということなのか?とも思ったのですが😅、『勧学講条々』によると、文永7年(1270年)、越前国藤島庄から運ばれた米は敦賀津に送られ、そこから馬借が近江高島郡海津に運んだが、この時、馬借は運ぶ米の量に応じて駄賃(馬で荷物を運ぶ運賃)が与えられた(この場合、荷物の量が多い時は1石につき1斗4・5升、荷物が少ない時は1石につき1斗)、とある(「荷のはやる時は1駄1石に1斗4升5升…、荷の無時は1斗…」)ので、運ぶ量が多いほど多くの賃金がもらえたようなので(他には、年未詳の越前の文書に榑運送の駄賃として1000支につき400文を支払うことを命じた物がある)、あいつは奉行にえこひいきされてたくさんの荷物をもたせてもらってやがる!許せねぇ!…ということでいさかいが起きていた、ということがわかります。

このいさかいに対し、信長は「激怒してだまらせる」という解決法は選択せずに、自ら荷物の重さを確認して、重さに軽重はない事を伝えるという方法でこれを解決しました。

時間が無い中で、あの信長がこのような解決法を取るのは意外な感じがしますね😐

その後について、『信長公記』は、

京都まで3日かかる所を2日で到着した。

…と記しています。

だいぶとばしていますね😦

Googleマップによれば、岐阜城から本国寺は121㎞、歩いて28時間で行ける距離だそうです。

「乗馬用品専門店ジョセス」さんのサイトによれば、日本の在来馬は人を載せて時速15㎞程度で走れるが、この速度を維持できるのは1時間だけだと書かれています。

つまり、(おそらく主要道各所に置かれていたであろう)馬を乗り換え乗り換え走れば、8時間で岐阜から京都に着けるという事になります。

そう考えると、2日かかった、というのは遅い気もしますが、先ほど紹介したように、信長は荷物を運ぶ馬借たちも引き連れていました。

荷物を載せた馬は走ることはできませんから、もちろん歩きます。

馬の歩くスピードは時速5㎞ほどで、1日に歩ける距離はMAX60㎞くらいなんだそうです。

そうなると、岐阜~京都の121㎞の距離を移動するには、まるまる2日必要になるわけですね。

しかも、この時は天候もひどく悪かったようで、『信長公記』には、「其節以外大雪なり」と記されています。そのため、人夫の者で凍死する者が数人出たといいます😨

この状況では進むスピードも遅くならざるを得ません。それでも2日で移動した、というのですから並大抵のことではありません。

『信長公記』には岐阜を出発した日、京都に到着した日が記されていませんが、『言継卿記』には、

10日、美濃より織田信長上洛、松永弾正小弼(久秀)も同行しているという。

…とあり、

『多聞院日記』の1月11日条にも、

松永久秀が昨夕に信長と共に京都に到着したという。

…と書かれているので、京都に到着したのは10日(の夕方)であることがわかります。

(『越州軍記』も、1月10日に駆けつけた、と書いている)

そうなると、出発したのは8日か9日ということになります(谷口克弘氏は2日かかった、というのを1泊2日として、『信長と将軍義昭』で「信長の岐阜出発が9日だったことは動かないと思う」と記している)。

一方で、『信長記』には、

7日に岐阜を出発した。…この日は近江の高宮に陣取った…8日早朝に高宮を出発して、この夜は勢田に着き、翌朝に本国寺に着いた。

…と詳しい行程が記されているのですが、こちらは到着は9日の朝となっています(『信長記』を参考にしたと思われる『足利季世記』『総見記』も同様)。

『信長記』の信憑性は低いので、信用ならんと切り捨てればいい所なのですが、

『言継卿記』には、

1日 巳の刻(午前10時頃)より雨 2日 晴 3日 晴 4日 晴 5日 晴 6日 晴 7日 雨 8日 晴ときどき雪 9日 晴 10日 晴。雪がちらつく。

…と京都における日々の天気が記されており、これを見ると、天候が悪いと思われるのは7日と8日しかないのですね。

美濃・近江・京都と場所は違い、局所的な悪天候はあったと考えられますが、京都の天気を美濃・近江にもあてはめるとするならば、9日出発だと、とても「以外大雪」になるとは考えられないのです😥

(しかも、そもそも論として、9日出発はどう考えても遅すぎやしないだろうか?6日に本国寺の変[六条合戦]は終結していたのだから、9日にはさすがにその情報が岐阜にも伝わっていたはずで、そうなると急ぐ必要もなくなる)

一方、『信長記』を信じるならば、悪天候である7・8日に美濃・近江を移動していたことになります。

『信長記』に書かれている7日・8日の移動距離は、岐阜~高宮間は60.1㎞、高宮~勢田間は47㎞で、1日の移動距離として適切なものであり、ここからも、『信長記』の記述はある程度信用できるのではないか、と思うのです。

『言継卿記』に10日に上洛した、とあるではないか、とお𠮟りを受けるかもしれませんが、当時は合戦の後の混乱した時期であり、また、『信長公記』には、わずか10騎(『越州軍記』では3騎)で六条に入った…とあり、この通りだとすると、京都の人に「信長」が入京した、ということが認知されず、入京がわかったのが1日遅れた可能性もあります。

一方で、『信長記』には、こんな記述もあります。

7日、京に向かう途中で次第に軍勢は増え、6千余となった。先陣は大津・勢田・野洲・永原に満ち満ちていた。

なんと信長は10騎ほどではなく、結構な軍勢を率いていたというのです😧

たしかに考えれば先に話が伝わっていたであろう近江勢が動いていないのはおかしいですよね。

これだけの軍勢が来たのならば、信長が来た、ということがわかりそうなものです。

しかし、次のように考えることもできます。

6千余騎が京都の近くまで進んだものの、本国寺に入ったのは信長などの10騎ほどであった…。

これなら『信長公記』との整合性も取れます。

『足利季世記』に、

途中で三人衆敗北の報を聞いて、喜ばれること限りが無かった。

…とあるように、さすがに6日に勝負が決していたことは信長に途中で伝わっていたでしょうから、6千余もの軍勢を本国寺に向かわせる必要はありませんでした。

以上から、1月10日に到着した、という『言継卿記』の記述が基本線とはなりますが、『信長記』の言う9日到着というのも可能性としてなくはないのではないか、というのが私の考えになります。

さて、本国寺に着いた信長は、本国寺が無事である様子を見て、大いに満足した(『信長公記』)後、足利義昭と対面します。

その様子について、『信長公記』は記していないのですが、『信長記』は、

(信長は)義昭公のもとに参り、無事でおられたのは、まことに天の扶けであります、と言って喜ぶこと限りなかった。

…と記述しています。

(※解説の残り部分は都合により公開しません<(_ _)>)

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