北伊勢を攻略中であった織田信長に、ある報告が届きます。
それは、「美濃三人衆」が寝返った、というものでした!
その方を受けた信長は、例のごとく素早く行動を開始します!!😝
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇「美濃三人衆」は二度裏切った!?
「美濃三人衆」とは、西美濃に勢力を持っていた、
稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の3人のことを指します。
この中で最大の勢力を持っていたのは氏家卜全(直元。出家して卜全。元の名字は桑原。1512?~1571年)であったようで、
宣教師の報告書には「美濃の3分の1を領していた」とまで書かれていますが、
おそらくそれは言いすぎだとしても、西美濃一帯の旗頭的存在であったのでしょう。
持っている城も西美濃の中心となる大垣城です。
その次が安藤守就(義龍~龍興の頃は伊賀氏を名乗る。伊賀守であったので伊賀伊賀守となる(;^_^A。出家して道足[どうそく]。1503~1582年)。
西美濃の北方城の城主。
『信長の野望』ではどちらかというと知将タイプですが、
『松平記』には「武辺者」と書かれています。
1554年、織田信長の村木砦攻めの際には、尾張に援軍として派遣されています。
1564年、娘婿である竹中半兵衛と共に一時、稲葉山城を乗っ取りました。
その頃に出家しているようですが、稲葉山城を斎藤(一色)龍興に返還する際に頭を丸めたのかもしれません。
しかし、その後も子の貞(定)治(?~1582年)は龍興の四奉行の1人として重用されています。
稲葉一鉄(良通。1574年、再出家して一鉄。1515~1589年)は、
三人衆の中で一番知名度は高いですが、三人の中では勢力はもっとも弱かったようです。
そもそも外様の人間で、伊予(愛媛県)の河野氏の一族であり、一鉄の祖父の代に美濃に流れて来たようです。
しかし姉が斎藤道三の妻となった(斎藤義龍を産んだとされている)ため、出世したようです。
居城は曽根城。
この3人が一度に織田信長に寝返ったのですが、このことは
『信長公記』に「 8月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守 申合せ侯て、「信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り侯へ 」と申越し侯。」
…と書かれています。
三人衆の寝返りは、有名な事実なのですが、いろいろとナゾの部分があります。
例えば、なぜ寝返ったのかがわかっていません(;^_^A
調略の結果なのでしょうが、なぜこのタイミング?というのがあります。
また、寝返った日にちについても、『信長公記』では「8月1日」と書かれていますが、これが怪しいのです。
前回のマンガでも紹介しましたが、
『勢州軍記』には、
「信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。」
…とあり、織田信長が北伊勢の楠城を落とし、高岡城に進んでこれを包囲したときに美濃三人衆の寝返りの情報が入った、と書かれているのですが、
連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録には、
永禄10年(1567年)8月20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにはやってくるらしく、騒がしかった、と書かれているので、
楠城に8月20日に至り、その後に楠城が陥落、そして高岡城に移ってこれを包囲中に美濃三人衆が寝返った…とすると、
8月1日に寝返り、は明らかにおかしいことになります。
『瑞龍山紫衣輪番世代帳』には、「永禄十丁卯九月織田上総乱入」と書かれているので、
寝返りは8月1日、ではなく、9月1日、の誤りなのではないでしょうか。
一方で、寝返りは一度ではなかったのではないか?とする史料もあります(◎_◎;)
信ぴょう性は疑われている書物ではあるものの、
『武功夜話』の内容も一応紹介すると、
滝川一益が中心となって伊勢長島を攻めるために砦を作った、
氏家卜全は、これは自分の領地を攻めるためなのではないかと勘違いして
織田を裏切って再び斎藤方につき、墨俣砦を攻撃した、
伊勢方面にいた佐久間信盛は、氏家卜全・安藤守就の裏切りを聞いて美濃にとって返し、墨俣砦を守る木下秀吉を救援したので氏家卜全らは敗れて退いた、
木下秀吉は稲葉一鉄を通じて氏家らと話をしたところ、
氏家らは今回の行動を恥じ入り、人質を差し出して降伏し、再度味方となった、
信長はこれを知って3000余りの兵を率いて、13日、河野島より瑞龍寺山を攻め登り、翌日の午前9時には稲葉山城を落城させた。これは永禄10年(1567年)8月のことであった、
…とあり、美濃三人衆は一度織田方に寝返ったが、さらに裏切って墨俣砦を攻撃、敗れてまた織田に降伏した…という驚きの事実が書かれてあり、また、稲葉山落城を8月14日としているのですが、どこまで本当なのかはわかりません(;^_^A
もしこれを事実とするならば、織田信長は、三人衆の寝返りを聞いてもこれを疑って美濃に向かわず伊勢を攻め、伊勢に向かったことを知った氏家・安藤が今の内だと墨俣を攻めたが敗北して降参、ここで織田信長はとって返して稲葉山城を攻略した…つまり、一度目の寝返りは織田をだましていた?ということになります。
また、比較的史料価値の高い『勢州軍記』は、
『信長公記』と同じく、描写が異なる別バージョンの写本も存在するのですが、
(先に紹介したのは稲垣泰一氏蔵『伊勢軍記』)
『三重県郷土資料叢書 第39集 勢州軍記 上巻』には、
信長軍は攻撃する際は必ず村々に火を放った、このため敵方は混乱した。
故に「戦に勝つには、夜討をしたほうが良い、城を落とすには、放火をしたほうが良い」というのである。
…という部分と、
美濃三人衆が裏切ったのを聞いて織田信長が美濃にとって返したことを述べているところに、
安藤伊賀守は、武田信玄と通じて(信長に)謀反をしたということである。
…というのが追加されています。
これを見ると、味方になったはずの美濃三人衆が裏切った、ということがわかります。
これを山路弾正の流したデマとし、これに信長はひっかかってしまった、とする説もありますが、
武田信玄とは同盟を結んでいるので、信玄云々はデマとしても、
『武功夜話』にも書いてありますし、実際に裏切った可能性もあります。
安藤守就は後に1580年に突然、織田信長から追放処分を受けますが、
その理由について、『信長公記』は、
信長が昔大変だった時に野心(身分不相応のよくない望み)を抱いたからだ、と書いていますが、
それはこの時のことだったのかもしれません💦
さて、まとめてみると、美濃三人衆の寝返りの日にちや経緯については、
以下の三説が考えられるのではないでしょうか。
A説
①織田信長、8月15日に伊勢に進攻
②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する
③美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る
B説
①美濃三人衆が寝返ったが、織田信長は信じきれず、8月15日、様子見で伊勢に向かう
②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する
③山路弾正が今のうちに墨俣砦?を攻撃するように美濃三人衆をそそのかす
④(稲葉一鉄を除く?)美濃三人衆が墨俣砦?を襲うが、撃退され、降参する(9月1日)
⑤美濃三人衆の降参を知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る
C説
①8月1日、美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る
②8月15日、稲葉山城陥落、斎藤龍興が伊勢長島へ逃れる
③織田信長、斎藤龍興を追って伊勢長島に攻め入る
…どれが正しいんでしょうかね(;^_^A
自分としては、のちの安藤守就追放の件もあり、
B説が正しいのではないか…とも思っています💦
〇稲葉山城の陥落
美濃三人衆の寝返りを聞いた織田信長は、
村井貞勝・島田秀満の2人に三人衆のさしだした人質を受け取りに行かせ、
2人が帰ってこないうちに早くも美濃に入って稲葉山城と山続きになっている瑞龍寺山に攻め込みました。
美濃勢はあまりのスムーズさに、「あれは敵か?味方か?」と戸惑っていましたが、
そうしているうちに城下町などに火がつけられてしまいます🔥
その日は風が特に強かった、と書かれているので、あっという間に日は燃え広がったことでしょう。
翌日、信長は指示を出して稲葉山城の周りに鹿垣を築かせてこれを包囲します。
そうしているときに美濃三人衆が信長の所にやってきたのですが、
『信長公記』には、
「肝を消し、御礼申し上げられ侯。」
…ひどく驚きながら、信長に挨拶をした、と書かれています。
驚いた理由は2つあったと思います。
①通常は、寝返りをしたものが先鋒となって敵を攻めるものです。
しかし、信長はそれを待たずにスピーディに稲葉山城に攻撃を仕掛けました。
②織田信長が稲葉山城を攻撃した、と聞いて慌ててかけつけたところ、
昨日攻めこんだという話なのに、もう四方に鹿垣が築かれ包囲が完了していた。
美濃三人衆は織田信長の決断と行動の迅速さ・手際の良さに恐れをなしたのだと思います。
『信長公記』には、
「信長は何事も、かように物軽に御沙汰なされ侯なり。」
…信長はこのように、何事も迅速に(慎重さを持たずに)命令された。
…とも書かれています。
せっかちな性格であったのかもしれませんが、
この圧倒的なスピードで数々の成功を収めてきたのが織田信長という男です。
おいつめられた一色義紀(斎藤龍興)は、ついに籠城をあきらめて、
舟で伊勢長島へと逃れていきました。
『信長公記』では落城の日を「8月15日」としていますが、
関市龍福寺の「年代記」には、
「信長入濃九月六日」とあり、
横山住雄氏は、この日をもって稲葉山城落城としています。
しかし、9月6日に美濃に乱入した、ということかもしれないので、
9月6日以後に稲葉山城が落ちた、と見るのがいいのかもしれません。
『信長公記』は8月15日としてたので、一か月分間違えて書いていたのだとすると、
9月15日に稲葉山城が落城したのかもしれません。
一方、稲葉山城の落城について、別の経緯を伝える話もあります。
それは、ルイス・フロイスの『日本史』です。
そこには、美濃勢と陣をかまえて向かい合い、夜に軍の半分以上を7・8里(約30キロ)迂回させ、美濃勢の後ろにつかせた、兵力の減った織田軍相手に優勢に戦いを進めた一色義紀(斎藤龍興)は喜んだが、そこに背後から、美濃勢の旗を持った織田軍が突進して挟撃の形となり、美濃勢は崩壊した、信長は続いて稲葉山城を攻撃してこれを攻略した、一色義紀(斎藤龍興)は数名と共に脱出し、京都、さらに堺へと逃れていった…と書いてあるのです💦
『信長公記』の場合だと野戦の描写はありませんが、
フロイスは1563年から1595年に死ぬまでほぼ日本に滞在し、
稲葉山落城の頃は京都にもいたので、信頼できる部分もあります。
一方、『信長公記』は美濃攻めの部分については簡略な記述が多く、
書き洩らされている事実も多いことから、そこまで信頼できません。
稲葉山落城の経緯については、
自分はフロイスの方に軍配を挙げたいのですが…どうでしょうか(;^_^A
さて、こうして7年かけて織田信長は美濃平定(東美濃は武田勢力圏)に成功しました。
織田信長の次なる目標は上洛であり、そのため、本拠地も京都により近い稲葉山城に移します。
この際、小牧山城は廃城となってしまいますが、
後に1584年の小牧・長久手の戦いの際に徳川家康により、その遺構を基に大改修され復活しています。
また、織田信長は稲葉山の城下町が井口(いのくち)と呼ばれていたのを、
「岐阜」に改名したことは有名ですが、
実は以前から臨済宗の僧の間では井口や稲葉山のことを、
中国をまねて「岐山」「岐阜」「岐陽」などと呼んでおり、
信長は臨済宗の僧・沢彦宗恩から、改名するならばこの3つの中から選んではどうかと提案、
信長が「岐阜」を採用したという経緯があったようです。
…ということは、「岐山」県や「岐陽」県になる可能性もあったということですね(;^_^A
「岐陽」県だと、しうまいの崎陽軒とかぶっちゃってましたね(;^_^A アセアセ・・・
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