社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 明治日本にも影響を与えたポーランド分割(1795年)

2023年2月9日木曜日

明治日本にも影響を与えたポーランド分割(1795年)

 東ヨーロッパの国、ポーランドは、

1795年に周囲の3カ国に分割されて、1918年まで滅びてしまっていた時期があります。

ポーランドはなぜ滅びることになったのか。

ポーランドが滅びたことは、明治時代の日本人たちにも影響を与え、

同じような道を歩まぬように反面教師とされていきます。

ポーランド滅亡は決して遠い過去の話ではなく、

現在でも起こりうることです。

その原因について学ばなければいけません。

※マンガの後に補足・解説を載せています。



〇ポーランド王国の誕生

ポーランドはポラニェ(レフ)族のポーランド公ミェシュコ1世(935?~992年)の時に、

諸部族に分かれていたのを統一されます。

次のボレスワフ1世勇敢公(966?~1025年)は勇猛で、ボヘミア王国(現在のチェコ)を支配下に置き、

キエフ公国(現在のロシア・ウクライナ)を破り、神聖ローマ帝国からも土地を奪いました。

死ぬ直前に王位につき、ポーランド公国は王国に昇格しています。

ボレスワフ1世死後のポーランドは混乱が続き、

王が亡命したり、ボヘミアの反撃に遭ったり、神聖ローマ帝国と争ったり、

モンゴル軍の侵入を受けたり、ドイツ騎士団の東進を受けたりしました。

その中で現れたカジミェシュ3世 (大王。1310~1370年)は外交で譲歩しながらボヘミア・ドイツ騎士団・神聖ローマ帝国と和睦に成功し、

一方でウクライナ方面に攻めこんで領土を大きく拡大させました。

このカジミェシュ3世が男子無くして落馬して死ぬと、

甥にあたるハンガリー王ラヨシュ1世(1326~1382年)が王に選ばれます。

このラヨシュ1世も男子が無く、

中小貴族(シュラフタ)たちにわずかな税などを除き一切の負担を免除するという譲歩の代わりに、末娘のヤドヴィガ(1373?~1399)を女王にすることを認めさせます。

ポーランドは混乱の中で貴族の力が高まっていたのですが、ここで決定的に貴族が大きな力を持つようになります。

〇ヨーロッパの大国~リトアニア=ポーランド王国

ポーランドは一時、ヨーロッパで最大の面積を持つ国だったことがあります。

1386年、ポーランド女王のヤドヴィガと、リトアニア大公ヨガイラ(1362?~1434年)が結婚して、リトアニア=ポーランド王国が成立したのですが、

その面積は100万㎢、人口は1200万を数えました。

ヨガイラはポーランド王家と特段血のつながりはなかったものの、

東に勢力を広げつつあったドイツ騎士団という共通の敵がいたこともあって、

結婚と相成ったのです。

ヨガイラはポーランド名ヤギェウォで、ここから始まる王朝をヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)といいます(1386~1572年。ほぼ室町時代)。

ヨガイラは即位してヴワディスワフ2世と名乗り、

1410年にドイツ騎士団に戦いを挑んでグルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いでこれに勝利します。

3代目のカジミェシュ4世(1427~1492年)は1454~1466年の13年戦争で、再びドイツ騎士団を破り、首都マリーエンブルク(マルボルク)を陥落させます。

ドイツ騎士団との戦いは1525年、ジグムント1世(1467~1548年)の時に終わりを告げ、騎士団はポーランドに臣従し、騎士団領はプロイセン公国となり、ポーランドの保護下に入りました。

しかし一方でポーランドでは中小貴族たち(シュラフタ)の力が強まり始めており、

ジグムント1世はシュラフタを軽視した態度を取っていましたが、

ある時戦争の際にシュラフタに総動員をかけると、シュラフタはこれに抵抗、

結局ジグムント1世は総動員を撤回せざるを得ませんでした。

次のジグムント2世(1520~1572年)が跡継ぎ無くして死ぬと、

その後はシュラフタの選挙により王が選ばれるようになりました。

しかし1587年、シュラフタの選挙で選ばれたジグムント3世(1566~1632年)は、

絶対君主制を望んだため、シュラフタと内戦状態(1606~1609年)となりますが、ジグムント3世は1609年、これを屈服させ、以後、シュラフタの力は弱まっていきます。

ジグムント3世は、ロシアに遠征し、モスクワ・スウェーデン連合軍を破ってモスクワを占領、ロシアの西部を得ます。

ここがポーランドの絶頂でした。

経済的にも、ポーランド・ウクライナの平原で生産される穀物がヨーロッパで売れに売れ、

1490年頃には6000ラスト輸出していた小麦・ライ麦は、

1620年代には7万5000ラストも輸出されるようになっていました。

この頃、ポーランドで生産された穀物は約60%も輸出に回されていたといいます。

シュラフタは関税免除・外国商人と直接契約できるなどの特権を手に入れており、

その富はかなりのものになっていました。

〇斜陽

1620年、ポーランドはオスマン帝国と戦い、ツツォラの戦いで大敗します。

1621年、三十年戦争などで有名なスウェーデン王グスタフ2世アドルフの攻撃を受け、

スウェーデン・ポーランド戦争(1621~1629年)が起き、

序盤はリトアニアのリガを失うなど敗戦を重ねますが、次第に体勢を立て直し、

1629年に戦争は終結しますが、リトアニアの一部を失ってしまいます。

ヤン2世(1609~1672年)の時、

ウクライナでシュラフタによる収奪に怒りを覚えていたコサックたちの反乱(1648~1654年)があり、

1654~1660年にはロシア・スウェーデンと戦争になり、

ロシアとの戦争に敗れてウクライナの領土などを失い、スウェーデンとは苦戦しながらも押し返しますが、リガを失ってしまいました。

1640年以降のポーランドは経済的にも下降線をたどるようになっていました。

それまでの主力商品であった穀物の売り上げが低下していったのです。

なぜかというと、西ヨーロッパでジャガイモの栽培がおこなわれるようになったことが大きいと言われています。

西ヨーロッパでジャガイモが栽培されるようになったのは、

大航海時代の結果、アメリカ大陸からジャガイモが伝わったことによります。

さらにこの頃(1648~1660年頃)のポーランドは戦争とペストの流行により、

人口の4分の1を失い、国力は大きく低下していきました。

退潮のポーランドを盛り返させたのがヤン3世(1629~1696年)であり、

彼は1673年、ホチムの戦いでオスマン帝国を破って名を挙げ、

翌年、王に選ばれた男でした。

1683年、オスマン帝国によるウィーン包囲が起きると、

オーストリアと連合していたポーランドはこれを救援、

ヤン3世は軍制改革に努めて強化していた重装騎兵でオスマン帝国軍に突撃してこれを破り、

キリスト教世界の英雄と呼ばれるようになりました。

しかし一方でロシアの力は次第に強まってきており、1686年、ヤン3世はロシアの圧力に屈してロシアにとって有利な条約を結ぶことになります。

また、ヤン3世は、選挙で選ばれた弱みもあり、シュラフタに対して強く出ることができませんでした。

当時、議会は完全一致制で、1人の反対でもあれば議事は決まりませんでした。

17世紀後半に開かれた44回の議会のうち、15回は中断があり、2回は一つも法律を作れずに解散されたといいます。

ポーランドは前進しようにも、シュラフタに足を引っ張られていたのです。

次に王に選ばれたアウグスト2世(1670~1733年)の時に、

絶対王政を導入しようとしてシュラフタとの内戦が起こり、これにロシアが介入して解決したので、ますますロシアの影響力は強まっていきました。

アウグスト2世が死ぬと後継をめぐってポーランド継承戦争(1733~1735年)が起こりますが、

アウグスト3世(アウグスト2世の子。1696~1763年)はロシアの力を借りてこの戦争に勝利、国王になりますが、ここまでくるとロシアとの優劣は明らかでした。

こういう状況の中で、国王を中心に団結してロシアに立ち向かっていかなければならないはずですが、

ルソーは、『ポーランド政府論』(1771年)で、「ポーランド民族は、すべてであるシュラフタと、無である市民、無以下の農民、の3つの身分からなる」と述べているように、

シュラフタたちは自己の権益のことばかりを考えて行動しており、

また、彼らの横暴により、18世紀前半には議会はまったく機能しなくなっていたといいます。

ポーランドは自ら壊れていったのです。

〇第一次ポーランド分割(1772年)

1763年、アウグスト3世が死ぬと、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の元愛人で寵臣、スタニスワフ(1732~1798年)がポーランドの王位につきます(スタニスワフ2世)。

国王選挙は、1万4000ものロシア兵がワルシャワを包囲する中で実施されました。

その結果、選挙は「なにごともなく満場一致で選出された」(スタニスワフ2世)。

ロシアに反発する声もありましたが、

スタニスワフはポーランド人、それもシュラフタ出身だったので、

ほとんど反対の声はなかったということです。

1767年には、ロシアは臨時議会を強行開催させ、

王国内の非カトリック教徒の権利を認めさせます(ロシアは正教会)。

当時、非カトリック(正教会・プロテスタント)は議員を出したり、

軍隊や行政機関で高い地位に就くことが認められていませんでした。

また、新しい教会を建設することも度々拒否されていたといいます。

議決の際には、議会はロシア兵に包囲され、議場内にも数名のロシア兵がいるという状態でした。

それでも司教たちが非カトリックの権利に反対する演説をしましたが、

ロシア兵は司教2名を逮捕、ロシアに送ります。

また、ポーランドの憲法はロシアの同意なしには変更できないことも認めさせました。

ここにポーランドは完全にロシアの傀儡国家となってしまったわけです。

シュラフタはバール連盟を作り、同じカトリックであるフランスやオーストリアの援助を得てロシアに抵抗しますが、一方で非カトリックである西ウクライナのコサックたちの反乱がおきたこともあり、1772年、ロシアに屈し、参加者たちはシベリア送りにされました。

(非カトリックに権利を認めることに反対する様子を、ヴォルテール「国民の4分の1が市民権を享受することを阻止するために」戦っている、と評した)

そしてこの年、ロシア・オーストリア・プロイセンによる第一次ポーランド分割が行われます。

分割を潔しとしない議員たちは議会に出席を拒否しました。分割反対派で出席した議員の一部は逮捕されました。その他の議員は賄賂(わいろ)を渡されていて、分割を認めてしまいます。

ロシアは9.2万㎢、オーストリアは8.3万㎢、プロイセンは3.6万㎢を得ました。

(ロシアは正教会地域・オーストリアはカトリック地域・プロイセンはプロテスタント地域)

面積では一番多いのはロシアですが、住民数ではオーストリアが一番でした。

一方、プロイセンが得た地域は面積は狭かったのですが、

グダンスク(ドイツ名はダンツィヒ)周辺の海に面した、経済的に豊かな地域を手に入れました。

これでポーランドは面積の30%、人口の35%を失いました。

このポーランド分割の背景には、

第一次露土戦争(1768~1774年)がありました。

オスマン帝国は隣り合うポーランドにロシアの勢力が伸びるのが好ましくなく、

フランスの後押しもあって、

1768年、バール連盟と戦っている途中のロシアに宣戦布告しますが、

オスマン帝国は陸に海に連戦連敗します。

(ロシアは1770年7月7日のラルガの戦いでは7万人のオスマン帝国軍を、7月21日のカグールの戦いでは15万人のオスマン帝国軍を撃破した。海では、バルチック艦隊を大回りさせて地中海に派遣し、1770年6月25~26日に行われた海戦でトルコ戦艦をほぼ全滅させることに成功した)

この状況を快く思っていない国がありました。オーストリアです。

オーストリアはバルカン半島は自身の勢力圏だと考えていたため、

ロシアがバルカン半島に進出するのを嫌がりました。

(この関係は第一次世界大戦まで変わってませんね💦)

オーストリアはオスマン帝国に協力してロシアと戦う準備を進め始めていました。

(1771年にはオスマン帝国を援助する秘密条約を結んでいた)

同じくポーランドを支援しているフランスも参戦するかもしれませんでした。

プロイセンのフリードリヒ2世はロシアと次のような条約を結んでいました。

どちらか片方が1つの国に攻撃された場合、もう片方の国は財政援助を行う。

どちらか片方が2つの国に攻撃された場合、もう片方の国は歩兵1万・騎兵2千を派遣する。

オーストリアも戦争に参加するとロシアは2国から攻撃されたという形となり、

プロイセンは援助だけではすまなくなる。フランスも加わると大戦争になってしまう。

フリードリヒ2世はこれを嫌がり、戦争を回避する案を考え出します。

それがポーランド分割でした。

ポーランド分割はロシア・プロイセン・オーストリア三者にとって得であり、

これでオーストリアはロシアに対して口をつぐんだのです。

つまりポーランドは大戦を抑えるための犠牲にされたのです。

第二次世界大戦前のチェコスロバキア(第二次世界大戦を抑えるために、イギリスなどがドイツがチェコスロバキアを併合することを認めた。この際、ポーランド・ハンガリーもチェコスロバキア分割に加わっている)を思い出させるできごとでした。

〇1791年5月3日憲法

1774年に第一次露土戦争が終結した後、クリミア半島周辺にあった国、クリミア・ハン国はオスマン帝国から独立を認められましたが、

ロシアの影響下に置かれました。

1776年にはロシアはクリミア半島で、黒海艦隊と、セヴァストポリ軍港の建設に着手し、

1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合してしまいます。

1787年にはエカチェリーナ2世の大々的なクリミア半島の巡行も実施されましたが、

これらがオスマン帝国をいちいち刺激しました。

同年、オスマン帝国はクリミア半島の巡行を挑発ととらえ、

ロシアに宣戦布告します。

すると、ロシアにオ-ストリアが味方につきました。

なぜかというと、バルカン帝国に勢力を伸ばしたいオーストリアのヨーゼフ2世(1741~1790年)と、

孫のコンスタンチン(1779~1831年)を皇帝とするビザンツ帝国の復活(ギリシア帝国)を目指し、ギリシャ・コンスタンチノープル周辺の獲得を目指すロシアのエカチェリーナ2世の思惑が一致し、

1781年にロシアーオーストリアは、ロシアが攻撃を受けた際にオーストリアはこれを援助する、という秘密条約を結んでいたからでした。

ロシア・オーストリアの攻撃を受けたオスマン帝国は各地で敗れていきました。

しかし、1789年には今を好機と見たスウェーデンがロシアを攻撃して戦争が起こったり(1790年、スウェーデンは苦戦しロシアと和平して戦争は終結)、

1790年にオーストリアのヨーゼフ2世が肺結核で死去し、跡を継いだ弟のレオポルト2世(1747~1792年)がオスマン帝国と単独で和平をして戦争から離脱したりするなど、

状況の悪化もあって、1791年12月にロシアはオスマン帝国と講和条約を結びました。

露土戦争中にロシアに攻撃を仕掛けたスウェーデンのように、

露土戦争を好機ととらえたのがポーランドでした。

ポーランドは今ならロシアの干渉を受けずに国を改革できると考えて、

1788年から4年にわたる議会を開催(四年議会)、

1791年には「1791年5月3日憲法」(統治法)を作り上げます。

この憲法は、以下のようなものでした。

「我々の制度の老朽化した欠陥」を認め、

「ヨーロッパがおかれている好機」を利用し、

「他国の屈辱的な命令や強制から自由に」なるため、

「祖国とその国境を守るために、断固たる決意をもって以下の憲法を定める」。

第1条 宗教の自由

第2条 シュラフタの権利の保障

(一方で、1791年4月に作られた法律では、一定数の税金を払わないシュラフタの参政権は認められないことになった。また、一定数の税金を納める者は、シュラフタ身分が与えられ、参政権が与えられることになった

第4条 農民

農民は、「よき配慮がなされ、法と国内統治権力の保護下に置かれなくてはならない」。「一定の土地を保有する農民は、それに付随する義務を排除することはできない」。

第5条 三権分立

「人間社会のあらゆる権力は国民の意思に端を発している。国家の統一や公民の自由や社会の秩序を…永遠に保つためには、…政治体制を3つの権力が構成せねばならない。」立法権・最高執行権・裁判権である。

第6条 立法権

議会は代議院と、国王を議長とし、司教・県知事・城代・大臣で構成される元老院から成る。「代議院は国民が全権であることの化身かつ統合体として、立法の聖域となる」。すべての議案はまず代議院で決議される。代議員で決まったことは続いて元老院に送られ、元老院に送られた法律が留保されたときは、次回の代議院に送られ、合意された場合は、採択される。議会は2年ごとに開催する。議決は全員一致制を廃止し、多数決制とする。 

第7条 執行権

執行権は法律の範囲内で行われる。執行権には、法の制定権・課税権・公債発行権・予算変更権・宣戦布告、講和を行う権利は含まれない。

国王は、世襲制とする。「秩序を転覆させた空位期による周知の混乱」の回避・「世襲制時代の我々の祖国の繁栄と幸福の記憶」・「外国やポーランドの有力者に王権への野心を閉ざす必要」があるためである。

ザクセン選帝侯家(1697~1763年までザクセン選帝侯家が国王を務めていた)が代々ポーランド王につくこととする。

国王は「自分を通じて何も」行えないので、責任を持たず、身の安全を保障される。専制者であってはならず、この憲法を守らなければならない。

戦争の際の最高指揮権は国王にあり、司令官の任命も国王ができるが、国民はこれを自由に変更できる。

大臣の更迭について、両院合同の無記名投票で3分の2以上の賛成があれば、国王は直ちに別のものを大臣にしなければならない。

第8条 裁判権

「裁判権は立法権、国王いずれによっても行使できない」(司法権の独立)。

県・地区・郡ごとに第一審法廷を置き、判決に不服な際は各州の大法院へ控訴ができる。

第10条 国王の子どもたちの教育

国王の子どもたちに「国の憲法への愛情を植えつける」ように教育は行われなければならない。

第11条 兵役の義務

国民は、「自分の領土を守ることを義務付けられる」。「軍隊とは、国民に由来する」。国民は、「軍隊に褒美を与え、軍隊に敬意を表する義務を負う」。「軍隊は国境守備と普遍的治安維持によって国民を守る、すなわち国民の最強の盾とならねばならない」。軍隊は「執行権の従属下に置かれ、国民と国王に忠誠を誓い、国民の憲法の擁護を誓わなければならない」。



〇第二次ポーランド分割


〇木戸孝允、ポーランド滅亡を語る

木戸孝允(1833~1877年)は1871年12月より、1873年9月まで、岩倉使節団の一員として欧米を回りました。

帰国後の10月、木戸孝允は演説をしましたが、その際にポーランド滅亡について触れました。

「…私は汽車に乗ってプロイセンからロシアに行くときに、悲しい笛の音色を聞いて目が覚めた。ガラス窓を開けると、ポーランドの住民がお金をめぐんでくれるように願っているのだった。私はポーランドの栄えていたときを思い、涙が流れるのを止めることができなかった。…」

原文:(…予火車に駕し、普より魯に行く、一暁悲に徹し、残夢たちまち破る、起ちて玻璃窓を推せばホーランドにして、土人の旅客に銭を乞うものなり、よってその盛時を追想し、涙禁ぜざるものこれを久しうす…

(※3ページ目以降は近日中に更新します!💦)

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