社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 瀬戸に制札を出す~信長初期の経済政策(1563年)

2023年11月19日日曜日

瀬戸に制札を出す~信長初期の経済政策(1563年)

 辞書を引くと、「瀬戸物」は「陶磁器の総称」とか、

「当時の通称」。「焼きものの事」などと出てきます。

粘土でできた皿などを見ると、あ、瀬戸物、と思うのですが、

実は「瀬戸物」とは、愛知県瀬戸市で作られている焼き物のことなのですね(◎_◎;)

西日本では「陶磁器」のことを「唐津焼」と呼ぶんだそうですが、東日本では「瀬戸物」と呼びます。

(主に東)日本のやきものの代名詞まで上り詰めた瀬戸物。

この瀬戸物と織田信長の関係について、今回は見ていこうと思います♪

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「瀬戸物」とは

瀬戸陶磁器卸商業協同組合さんのサイトによれば、

焼き物…正しくは陶磁器は、主成分が粘土のものを陶器(土もの)、陶石のものを磁器(石もの)と呼び、

陶器を初めて本格的に焼いたのが瀬戸で、磁器を初めて作ったのが唐津なのだそうです😲

瀬戸は良質の粘土がよく取れる土地で、5世紀後半には須恵器の生産が始まっていたとか。

諸説ありますが、「瀬戸」の名前は「陶(すえ)戸」から転じた物、とも言われています。

瀬戸物の特徴は「釉薬」(ゆうやく・うわぐすり)がかけられていることで、釉薬がつけると耐水性が増すとともに、焼いた時に独特の色や光沢、模様がつくのだそうです。

日本の代表的な焼き物を「六古窯」と言い、瀬戸物のほかには越前焼・常滑焼・信楽焼・丹波焼・備前焼があるのですが、瀬戸物以外は釉薬を用いません(現在の信楽焼は釉薬を使用するようになったそうですが…💦)。

そして戦国時代になると、瀬戸物は美濃(岐阜県南部)でも作られるようになっていくのですが、このことに織田信長が関係している、とも言われているのですね(◎_◎;)

その信長と瀬戸について、信長が瀬戸に出した制札の内容が伝わっているので、紹介したいと思います。

〇織田信長と瀬戸物

「制□(札?)  □□(瀬戸?)

一、瀬戸物之事、諸口商人国中往反不可有違乱事

一、当□(郷?)出合之白俵物并□(塩?)あい物以下、出入不可有違乱、次当日横道商馬停止之事

一、新儀諸役・郷質・所質不可取之事

右条々、違犯之輩在之者、速可加成敗者也、仍下知如件

永禄6年(1563年)12月 日(花押)

この制札が言っている内容は、だいたい次のようなものです。

①瀬戸物を売買する商人は、関銭を免除する(国内通行の自由)。

②瀬戸の市では塩・魚を自由に売買してもよいが、市場が開かれる際、瀬戸に向かわない道を通行することを禁止する。

③新しく諸役(年貢以外の雑税)を設けることを禁止する。

この制札を出した目的は何だったのでしょうか?(゜-゜)

①は、現代に置き換えて言うならば、瀬戸物を買いに瀬戸に訪れる人は、高速料金を無料にしますよ、という感じになります。そうなれば、瀬戸物を購入しようという者が増えますよね。

②は、伊勢湾周辺の塩・魚商人に関するきまりです。宮本常一『塩の道』によれば、伊勢湾周辺の人々は、潮と魚を、海がない信濃(長野県)に運んで大きな利益を得ていました。そのルートとなったのは木曽川(美濃ルート)・庄内川(尾張ルート)・矢作川(三河ルート)で、これらは「塩の道」と呼ばれたそうです。そして、瀬戸は庄内川を使う尾張ルートの中継地点でした。

塩・魚を自由に売買してもよい、というのは、瀬戸にもあったと考えられる、塩座・魚座による独占販売(瀬戸で塩・魚を売れるのは瀬戸の塩・魚座に属している商人だけ)を禁止しているということです。

瀬戸の塩・魚座の者は面白くなかったでしょうが、これを実施することにより、伊勢湾周辺の商人は尾張ルートを選択する人が増えるようになり、そうなると、塩・魚を売って瀬戸物を買う人も増えることになります。

瀬戸に必ず立ち寄るように命令していることも、瀬戸物を購入する機会を増やすことにつながった事でしょう。

つまり、①・②の政策はどちらも、瀬戸物がより売れるようにすることを狙ったものであった、ということになります。

では、信長はなぜ瀬戸物がたくさん売れるようにしたかったのでしょうか?(゜-゜)

それは、③を見るとわかります。

③は、新たな税の徴収を禁じるものであり、昔からの税を免除する、と言っているわけではありません。

奥野高広氏は、瀬戸物売買については旧来通り課税し、商業税は徴収した、としています。

商業税は売り上げにかかる税ですから、瀬戸物が売れれば売れるほど信長に入ってくる収入が増えるわけで、信長の狙いは収入の増加にあった、と言えるかと思います(゜-゜)

また、別の見方もあります。

16世紀後半になると、瀬戸の焼きもの職人が大量に美濃に移って瀬戸での瀬戸物生産が衰えるという現象(これを「瀬戸山離散」という)が起こっているのですが(1610年に尾張徳川家による呼び戻し政策が実施されて瀬戸焼は復興する)、

この理由について、戦乱のため美濃に移ったという説、陶磁器生産に必要な木材や粘土が枯渇したという説、信長が美濃を平定した際に美濃に移った(もしくは移動させられた)という説があります。

「戦乱のため美濃に移った」という説は、『方事書留記』に「…時に戦乱相続き、斯業振はず…」とあるように、たしかに瀬戸は尾張・三河の国境で、品野城などをめぐって、織田と今川の抗争の最前線であったので、1550年代は非常に危険な場所になっていましたから、この頃比較的安定していた美濃に移った、ということは確かに考えられます。

以上から、信長が瀬戸に制札を出したのは、衰えていた瀬戸の産業を復興させるのが目的だったのではないか、とも考えられるわけですね(゜-゜)

『瀬戸考略記』は、制札が出される永禄6年(1563年)のこととして、次の逸話を紹介しています。

織田信長は鷹狩のついでに、瀬戸村にやってきて 陶器の名品を見ていたとき、狩人の身なりをした者が、深川神社境内に隠れて、鉄砲で信長を撃とうとした。その時、深川神社の神主や陶工たちが、これを見つけて捕まえ、信長の前に連れて行った。信長が理由を取り調べると、斎藤竜興に頼まれたと白状した。信長はすぐさまこの者の首をはね、急いで城に戻った。危難を逃れることができたので、同年冬、深川神社へ奉射祭神料として、75石の神領を寄付した…

これを見ると、瀬戸村の者たちに命を助けられたことが、瀬戸に対し保護政策を実施する契機になったことがわかります(真実かどうかはわかりませんが)。

一方で、信長に移住を命じられたのではないか、という説もありますが、永禄6年(1563年)に瀬戸に対して上記の制札を出していたり、瀬戸の名工6人(加藤宗右衛門・加藤長十・俊白・新兵衛・加藤市左衛門・加藤茂右衛門)を選定していたり、天正2年(1574年)に、信長が瀬戸物の陶工である加藤市左衛門に、「瀬戸焼物釜の事、先規の如く、彼の在所に於いて之を焼くべし、他所として一切釜相立つべからず」(瀬戸物生産について、先に定めたように、例の場所で焼く事、別の場所で焼くのは認めない)という朱印状を出していたりして、瀬戸での焼きもの生産を保護している姿勢が見られることから、強制移住説に反対する意見もあります。

信長と瀬戸物について、ORIBE美術館のサイトには、「茶陶に関しては全て最高権力者の織田信長が直轄管理しました。窯業生産の管理育成は信長重臣の美濃の森領主(長可)が信長の信任ををうけ厳しく管理していたようです。また流通についても茶陶については信長指定の業者が担当し、収入は織田信長の収入であったようです。…桃山時代の美濃古陶(茶陶)の流通は、従来考えられてきた名もなき陶工が市場の要請に応えて作品を制作して販売したものではなく、織田信長、豊臣秀吉の管理の下で組織的に生産され組織的管理のもとで流通された歴史事実があります」とあり、信長が金銭収入を増やすために、茶陶(茶の湯で用いる陶器)の生産から流通までを厳しき管理、独占販売を実施していたことがわかりますね(◎_◎;)つまり、茶陶生産は国策産業であったわけです💦

しかし、信長の保護政策があっても、瀬戸から美濃に移住する焼き物職人は後を絶ちませんでした。

『陶磁器お役立ち情報』のサイトには、瀬戸山離散により瀬戸が一時的に衰退する一方、美濃では黄瀬戸(きぜと)・瀬戸黒(せとぐろ)・志野(しの)・織部(おりべ)など近世を代表する茶陶が作られました」「美濃産の茶碗に「瀬戸」の名がみられる理由は、桃山期には瀬戸と美濃の区別がなかったためです。美濃焼という区分がされるのは明治の廃藩置県後のことです」とあり、瀬戸の職人が美濃に移ったことが茶陶の名前からもうかがえます。

また、信長が選んだ瀬戸の名工6人のうちの1人、加藤市左衛門景光(1513~1585年)は天正11年(1583年)に美濃に移り、久尻(くじり)清安寺(岐阜県土岐市泉町久尻)の裏山に窯を築いています(久尻焼の起源)。

加藤市左衛門が美濃に移った理由は、先に紹介した永禄6年(1563年)の朱印状と共に伝わっている正徳二年(1722)の文書に記されており、そこには、同業者のねたみに対して命の危険を感じたためだ、と書かれています。

これを見ると当時の瀬戸は相当殺伐としていたのでしょうか…(;'∀')

もしくは旧態依然としていて、新しいことに挑戦する人が目の敵にされる状態にあったのかもしれません。

だいぶ時代が下った江戸時代中期の文書ですし、実際にそうだったかどうかはわかりませんが…。

ORIBE美術館のサイトには、「永禄8年織田信長は家臣で一番信頼の厚い実力者の森可成(信長側近の森蘭丸の父)(今川との桶狭間の戦いで織田信長に奇襲作戦を進言した織田信長にとって最重要人物)を美濃領主と定め、行政面からも窯業育成に本格的に力を入れました」とあり、

土岐市美濃陶磁歴史館のサイトには、「元屋敷陶器窯跡は、天正年間に織田信長の産業振興策により、瀬戸から移動した陶工が開窯したと伝えられ、天正10年(1582)の「本能寺の変」の後、東濃地方を平定した森氏の配下に入った妻木氏の領地になります。妻木氏は窯業を積極的に支援し、元屋敷陶器窯跡では美濃桃山陶生産が盛んに行われました」とあり、

これらによれば、信長や森可成は美濃において陶磁器生産を積極的に支援したため、これに魅力を感じた陶工たちが美濃に移っていった…ということになりますね(゜-゜)

この説が一番いい線いっているのではないかな、と個人的は思います。

また、赤羽一郎氏は『室町時代の常滑窯業』で、瀬戸の陶工の移動は、「瀬戸一帯の燃料や良質陶土の枯渇も原因としてあげられますが、あらたな生産体制をつくりあげるに適した東濃地方を目指したことが想定される」と述べています。

陶器生産がまた活発になっていなかった美濃は、新しいことを始めるのに適した土地であったといえるでしょう。

まとめてみると、

①1550年代、織田と今川の抗争の最前線となり、瀬戸物職人の中で美濃に逃れる者が現れた。

②永禄3年(1560年)、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破り、永禄4年(1561年)には徳川家康と同盟したため、瀬戸周辺は平穏になる。

③永禄6年(1563年)、信長は敵対する美濃から職人を呼び戻そうと、瀬戸に対する保護政策を打ち出す。

④永禄10年(1567年)、美濃を平定した信長は、森可成を通じて、美濃で茶陶生産を積極的に支援、茶陶生産・販売を一元管理する政策を実施していく。茶陶生産に魅力を感じた瀬戸の陶工が美濃に流れるようになった。

…ということになりますね。

信長が長篠の戦いで大量に鉄砲を用意できたのも、この茶陶マネーがあればこそ、だったのかもしれませんね(゜-゜)

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