社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 「天下布武」の朱印状

2023年11月15日水曜日

「天下布武」の朱印状

 永禄10年(1567年)8・9月頃に美濃(岐阜県南部)を平定した織田信長。

その後、ある有名な朱印を使用することになります。

しかし、その字の解釈が、最近はだいぶ変わってきているようで…?💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「天下布武」の朱印状

織田信長は、永禄10年(1567年)11月に、家臣の坂井利貞に対して、次の非常に有名な書状を出しています。

「扶助として、旦の嶋のうち、二十貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違有るべからざるの状件の如し」

坂井利貞は、織田氏の吏僚で、長く奉行を務めることになる人物ですが、その利貞に、領地として、旦の島(現・岐阜県岐阜市守口町)のうち、40石相当の土地を与える…という内容の書状なのですが、なぜこれが非常に有名なのかというと、

実はこの書状は、あの有名な「天下布武」の朱印が押された、現在確認できる最古の書状なのですね(◎_◎;)

さて、有名な「天下布武」ですが、これはいったいどういう意味なのでしょう?

通説は、

「天下に武を布(し)く」と読んで、天下(日本全体)を武力で統一する、というものです。

つまり、この「天下布武」の朱印を採用したのは、美濃を制圧したばかりの織田信長が、これから天下統一に向け邁進していくぞ、と宣言した、という意味になるわけですね。

しかし、この通説に対して、近年様々な意見が出るようになってきています(◎_◎;)

まず「天下」についてです。

「天下」は日本全体、というような意味にとられることが多いですが、

当時の用例をいくつか見てみると、イメージが変わってきます。

一色(斎藤)の四奉行が永禄9年(1566年)に(おそらく)快川紹喜に対して出した書状

「織上天下の嘲弄これに過ぐべからず候」

(天下が信長をあざけってバカにする様子は、これ以上のものはないほどです)

②永禄13年(1570年)に織田信長が足利義昭に送った書状

天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は…」

(天下のことについて、とにかく信長に任されたのですから、…)

天下御静謐の条、…」

(天下が鎮まったのですから、…)


①の「天下」は、「日本国全体」…というとオーバーな感じもしますね。しかし、信長のことを悪く言っている書状なので、それもあり得るかもしれません。

②はどうでしょう。足利義昭が、「天下」のことを信長に任せた、と言っているのですが、義昭は日本全体を信長に任せたのでしょうか?

しかし、この時まだ信長は日本全体を平定していません。ですから、日本全体を任せられるはずがないのです。

その後、「天下」が落ち着いた、とも言っています。まだ日本全体が落ち着いていないのに…。

どうやら、「天下」は「日本全体」という事ではなさそうです(゜-゜)

ならば「天下」は何なのかというと、ルイス・フロイスの報告書を見るとわかってきます。

①1582年…織田信長は、公方を都から追い出して、日本の「君主国」、すなわち「天下」と称する「近隣諸国」の征服に乗り出した。

②1584年…信長の死後、誰が「天下」、すなわち、「都に隣接する諸国」からなる「君主国」の支配と政治を手にしたか。

③1588年…「畿内の5カ国」の君主を「天下の主君」、すなわち、「日本の君主国の領主」と呼ぶ。

…こうして見ると、当時の「天下」は日本の中心地域である、畿内の5カ国(山城・大和・河内・和泉・摂津)のことを指す、ということがわかりますね(゜-゜)

天正10年(1582年)に羽柴秀吉が、「坂本を持ち候えば、天下を包み候て」と書状に書いています。

当時、秀吉は播磨国(兵庫県南西部)を領国としていて、山崎の戦いの後の論功行賞で、秀吉が近江の坂本も手に入れると、「天下」を取り囲む形になる、と言っているのですが、このことは「天下」の範囲が京都周辺であったということを補完するものでしょう。

ここで、戦国時代以前の「天下」について考えてみたいと思います。

「天下」の言葉の最も古い用例は、大和政権の君主を指す「治天下大王」になります。

この場合の「天下」は、「天の下」。

『日本書紀』などでは、2人の神様(イザナギノミコト・イザナミノミコト)が天の上にある神様が住むところ(高天原)から下界に日本を作った後、天から降りて来て天皇となった、と書かれていますから、当時は「天下」=人間の住む下界全体という認識であったわけです。

鎌倉時代になると、

『吾妻鏡』の文治元年(1185年)12月6日の条に、

「光雅朝臣は追討の宣旨を下され畢。天下草創の時、不吉の職事也。早く停廢されるべき也」

(藤原光雅は源頼朝の追討の宣旨を出した者なので、頼朝の天下が始める時にあたって不吉な者ですから、早く辞めさせるべきです)

…とあり、この場合は「世の中」という意味になるでしょうか(゜-゜)

藤原道長の「この世をば我が世とぞ思う」みたいなもんでしょうか。

俺の時代が来た!みたいな。

建久元年(1190年)6月29日の条には、

「天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく候事也」

(天下が落ち着いた今、この後は後白河上皇の命令を聞くべきである)

…とあり、この場合も「世の中」にあたりますが、

これは奥州合戦を終え、日本中が平定された後なので、「天下」の範囲は「日本全体」を指していることがわかります。

…以上から考えると、戦国時代の「天下」の範囲はだいぶせばまっていたことがわかりますね(;^_^A

ちなみに、『日葡辞書』で「天下」を引くと、

「君主の権、または、国家」「天下第一…世界中で唯一独特のもの」

…と出てきます。

これでいくと、国を動かす実権、もしくは、日本国全体だととらえられていることがわかりますね…(゜-゜)

これは天下統一されて10年以上経った後に作られた辞書ですから、ルイス・フロイスの時と違って「天下」の範囲が広がっていたのでしょうか??

さて、「天下」が「畿内5か国」のことだとわかったところで、

つづいては「布武」についてです。

こちらは「武力で統一する」という解釈が一般的ですが、

神田千里氏は『織田信長』で畿内を平定し、将軍の命令が行き渡るようになることだとし、

柴裕之氏は『織田信長』で、室町幕府再興を実現すること、

久野雅司氏は『足利義昭と織田信長』で、「将軍が支配する秩序の回復」だとしています。

「武力で統一」じゃないの!?とビックリしますが、

そもそも「布武」には「武力で統一する」という意味はないんだそうですね(◎_◎;)

中国の古典の『礼記』には、「堂上には武を接し、堂下には武を布く」とあります。

これは「宮殿内において、皇帝の近くでは「武」を近づけ、それ以外では「武」を離す」という意味で、

どういうこと?と思うのですが、

どうやら「武」には「足跡」という意味もあるようです。

つまり、この『礼記』の文章は歩き方のマナーについて示したものなのですΣ( ̄□ ̄|||)

これは「宮殿内では足跡をつなげるように歩幅を狭くし、宮殿の外では節度を守った歩幅で歩く」…という意味なんだそうですが、

川口素生氏は、この『礼記』から、『織田信長101の謎』で、「信長が、従来にはない方法(歩き方、姿勢)で天下をわがものにしようと考え、この印文を用いた可能性が高いように思います」と記し、

『平成談林』というブログでは、「天下布武」とは「天下を節度を持って歩む」という意味だ、としています。

信長はその後の行動の様子を見ても、無秩序な様子を非常に嫌った(ルイス・フロイスも「正義において厳格であった」と記しています)人であったので、納得できる考え方です。

しかし、織田信長の行動は「節度」(行き過ぎの無い程度)とはほど遠いような…(;^_^A 

曲がったことをした人間を許さない厳格さや、後年の安土城でのイベント・馬揃えなどで見せる派手好きな様子を見ると、とても「節度」を守っているようには思えないのですよね(-_-;)

一方で、「布武」には別のとらえ方もあります。

立花京子氏が『信長と十字架』で述べたように、「武」は中国の古典、『春秋左氏伝』に由来するのではないか、という者です。

岩波文庫版『春秋左氏伝』宣公12年(紀元前597年)のところには、

「「武」という字は戈(軍事)を止める意味である。」

「「武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの」という言葉が出てきます。

明治37年に作られた辞書・『言海』にも、「武」と引くと、「(1)威力を以て暴を服すること。能く兵乱を定むること。(2)いくさ。軍隊。(3)戦の力」と、一番最初に、暴れる者を従わせること、戦乱を収めることだと出てきますね(゜-゜)

「布く」というのは、「行き渡らせる」という意味ですから、

「天下布武」というのは、「畿内に秩序を行き渡らせる(安定した状態にする)」ということになるでしょう。

うーん、こちらの方がしっくりきますねぇ(;^_^A

また、「天下布武」を採用した時の話が、『政秀寺古記』に載っていますので、紹介したいと思います。

…沢彦は呼ばれて岐阜城に行ったところ、信長は興奮した様子で次のように言った、「天下を治めようとするにあたっては、朱印が必要になる。朱印に彫る字を考えていただきたい。」沢彦は何度も辞退したが、信長が強く頼むので、仕方なく「布武天下」と書いた紙を手渡した。信長は、「私の考えにピッタリな字だ(「思召の儘の字なり」)しかし、文字数が4つ、というのは、いかがなものだろうか」と言った。沢彦は次のように答えた、「中国の明国は皆4字を使います。日本で4字を嫌うのは、誤った考え方です。」信長はこれを聞いて非常に喜び、花井伝右衛門を呼び寄せて、「朱印の字が決まったから、黄金でもって判屋に作らせよ」と命じた。…

4字を嫌う…たしかに、上杉氏は「梅」の1字、里見氏は「里見」・徳川氏は「福徳」の2字、今川氏は「如律令」の3字、なのですが(武田氏は龍の絵が書かれているだけ)、北条氏は「禄寿応穏」と4字の朱印を1518年から使っているんですけどね(;^_^A

まあ、それはともかく、大事なのは「天下を治めよう(天下を平和にしよう)としていた信長の考えていたこと」と「天下布武」が一致していた、ということですね。

『政秀寺古記』が伝えることが正しいならば、「天下布武」の意味は、「(戦乱や不法行為を収め、秩序を取り戻すことで)畿内を平和にする」ということになり、「布武」は『春秋左氏伝』由来の意味であった、ということになるでしょう(゜-゜)


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