社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 上洛を目指し奔走する足利義昭~一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

2023年11月26日日曜日

上洛を目指し奔走する足利義昭~一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 上洛の準備を着々と進める織田信長

一方、その頃足利義秋(義昭)は何をしていたのでしょうか…?(゜-゜)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇永禄10年における松永久秀と三好三人衆の攻防

永禄10年(1567年)4月18日には三好三人衆が大和に出陣、そこから断続的に大和で戦いが繰り返されることになるのですが、

『言継卿記』の7月27日の条に、

…丹波より柳本・波多野・赤井等(松永久秀方)、4千ばかりにて西岡に出陣し、各所を焼き、西岡衆と合戦となり、双方に4・5人ほど死者が出た。・・・

とあるように、丹波勢が松永久秀方で活動を再開し、

8月頃には、『足利季世記』に、

松山彦十郎・松浦孫五郎(松浦氏の一族で、蛇谷山城主)は松永方で多門城にいたが、伊丹親興の勧めに乗って三人衆方に内通したものの、(彦十郎と同族である)松山安芸守は三好方で、飯盛山城にいたが、「彦十郎が内通するならば私に話を通すべきであったのに、そうしなかったのはどういうことだ」、と言い、なんと松永方に内通してしまった。謀反の気配を察した三人衆は兵を送って安芸守の家を囲ませた。安芸守はたまらず降参したが、許されて所領も没収されることは無かった。安芸守は10月15日に城を去って堺に退いた。…

とあるように、三人衆・篠原方・松永方双方から寝返る者が出るカオスな状況となっていきます(◎_◎;)

なお、松永方に寝返った松山安芸守について、『多聞院日記』には、

8月25日「飯盛城の松山与兵衛が松少に寝返り、城の内部で争いになったという」

9月6日「三人衆・篠原が飯盛城に攻め寄せ、和議が成って城は彼らに明け渡された」

10月21日「飯盛城にいた松山安芸守・山口は城を去って堺に行き、城は篠原・三好日向守が受け取った」

…と書かれており、『足利季世記』の内容がかなり正確であることがわかります。

その後も、『多聞院日記』9月15日の条に、「一昨日(13日)、河内の烏帽子形城に根来衆が攻め寄せたが撃退され、首4・50も取られたという」と書かれているように、松永方と三人衆方で戦いは続けられていましたが、

三好氏の内紛の1つのハイライトとなったのが東大寺の戦いでした(◎_◎;)

東大寺の戦いについて、『足利季世記』には、

…三人衆は東大寺の大仏殿に陣を構えた。松永久秀は多聞城より打って出て何度もこれと戦った。10月10日、松永久秀は大仏殿にいる三人衆を夜襲した。三人衆は慌てふためき敗走し、中村新兵衛をはじめとして名のある武士7人、雑兵300余人が戦死した。しかし池田勝政の陣は用心していたので夜襲に対しても落ち着いており、三人衆は池田勝政の陣に逃れた。この戦いの途中に三人衆方の陣から出火、混乱の中だったので消す暇もなく、火は燃え広がってついに大仏殿は焼失した。大仏殿は平家によって一度焼失したのを、後白河院(後白河上皇)の要望にこたえて源頼朝公が再興されたものであったが、200余年後、また兵火により焼失してしまった。世はいつまでも治まらず乱れに乱れ、再興を志す人も現れないだろうと、人々は皆嘆いたという。

…とあり、

『多聞院日記』には、

…今夜子の刻の始点(午後11時)に、大仏殿へ多聞山勢が攻撃を仕掛け、合戦に及ぶこと数度、戦いの中で起きた火災の消え残った物によって穀物の倉から法花堂に火が移り、それから大仏殿の回廊に次第に火が近づいて、丑の刻(午前1~3時)に大仏殿はすっかり火に包まれてしまった。激しく燃える火が空いっぱいに広がり、さながら雷電の如く、わずかな時間ですべてを焼き尽くしてしまった。大仏も湯になってしまわれた。言語道断、浅猿浅猿。昔、聖武天皇の発願により、天平16年に良弁によって建てられ、治承4年12月に炎上したが、その間437年であった。その後源頼朝が建久6年に再建し、今年まで373年になる。治承の炎上の時は15年で再建できたが、今は100年かかっても、なかなか再建はできないであろう。生きているうちにこのようなことに出会うとは、嘆中の嘆である。罪業のほど、悲しむべし悲しむべし。…大仏殿に陣取っていた者たちはことごとく敗北した。やり中村討ち死に、その他2・300人も切り死に、焼死したという。念仏堂・唐禅院・四聖坊・安楽坊・深井坊は同じ日に焼けた。

…とあるように、奇襲を受けた三人衆方の大敗に終わったのですが、この時、乱戦の中で起きた火事が元になって、大仏殿が全焼するという事態になってしまいます(◎_◎;)

足利義輝殺害と並び、戦国を象徴する事件ですね…。

〇足利義昭の焦り

松永方と三好三人衆・篠原方が激しく争いあっている頃、足利義秋はどうしていたのでしょうか(゜-゜)

『足利季世記』には、次のように書かれています。

…一条院覚慶様は永禄8年(1565年)8月、近江(滋賀県)の矢島に移った後、諸国に三好討伐の兵を挙げるよう呼び掛けている間、集まってきた者は大舘宗貞・晴忠、三淵藤英、細川藤孝、武田義統、沼田清延、京極高成、仁木義広、一色藤長、沼田統兼、上野秀政・信忠、和田惟政・雅樂助、飯河信堅、二階堂孝宗、牧島孫六、能勢丹波守、曽我祐乗、中坊龍雲院、公家では飛鳥井左中将などがいたが、三好を倒そうとする大名がいなかったので、美濃の長井(一色[斎藤]龍興のことか??)を頼みにしようとしたが父子の間で秩序が乱れること(??)があって叶わず、佐々木(六角)義賢を頼ろうとしたが家中で混乱が起きていてはっきりした返事をもらえなかったので、妹婿である武田義統の領地である若狭(福井県南部)に向かった。しかし若狭国は狭く、武田義統も上洛に必要な名案を何も出そうとしなかったので、これでは幕府を再興できないとして、続いて越前(福井県北部)の朝倉義景のもとに向かった。…

足利義秋が近江の矢島から若狭に移り、さらに越前に移ったのは永禄9年(1566年)9月8日のことでした。

越前に移った足利義秋が期待したのは、越後(新潟県)の上杉景虎と、越前の朝倉義景でした。

しかし、両者とも、心配な敵がいて上洛に集中できない状態にありました。

上杉は北条・武田、朝倉は加賀の一向一揆(本願寺)勢力です。

交渉の様子を箇条書きにまとめてみると、

・9月13日 上杉景虎へ使者を派遣して、北条氏との和睦を促す

・10月20日 本願寺顕如、朝倉義景との和睦を命令されたもののこれを断る

永禄10年(1567年)

・2月24日 上杉景虎に書状を送り、武田・北条との停戦を促す。足利義秋が越後に直接向かう可能性がある事も伝える

・3月 (毛利氏に対し、尼子氏に勝ったことを祝う書状を送り、上洛の支援を要請する)

・7月 上杉景虎に、兵糧を用意することと、上洛することを命令

・8月25日 北条氏政、細川藤孝に上杉との和睦を受け入れることを伝える

・11月 朝倉義景に加賀一向一揆と和睦するように命令

・12月12日 朝倉氏と加賀一向一揆の和睦の話し合いが進み、朝倉義景の娘が本願寺顕如の息子、教如に嫁ぐことが決まる

永禄11年(1568年)

・1月17日 朝倉氏と加賀一向一揆の和睦が成立する(「加越和議」)

(『多聞院日記』に加賀と越前の和談が成った、とある)

・3月6日 上杉景虎に対し、上洛支援を促す

・3月16日 上杉景虎、越中(富山県)の守山城を攻撃するも、3月25日、越後国内で本庄繁長が謀反したため、越後に帰国する

…というようになりますが、これを見ると、上杉景虎との交渉はうまくいかなかったものの、朝倉に対しては、現地にいたこともあってか、だいぶうまくいっていることがわかります。

足利義秋は朝倉と加賀一向一揆の和睦についてはだいぶ関与していたようで、

『朝倉始末記』には、朝倉義景が加賀一向一揆と和睦した際に、義秋は、

「両国和睦の其上は何の隔が有べきぞ壘寨の有ればこそ種々の違変も出来ぬれ急ぎ是を焼き払え」(和睦した以上、両国を隔てるものがあってはいけない、国境に城や砦があるからこそ、(疑心暗鬼になって)約束を破ることが出てくるのだ、早くこれを焼き払ってしまえ)

と言い、義景はこれを受け入れて、両国の国境に近い加賀(石川県南部)にあった城を焼き払うこととし、義景は黒谷・檜ノ屋・大聖寺の三城を、一向一揆側は柏野・杉山の二城を破壊、これにより、北陸道の移動は障害が無くなった、…とあります。

そして義秋は4月15日には、朝倉氏の本拠、一乗谷で元服します。

それについて、『足利季世記』は次のように記しています。

…義景は覚慶様をもてなし、一乗谷で元服の儀を執り行った。元服の義で加冠をするのは本来三職(三管領。細川・畠山・斯波氏のこと)の役目であったのだが、光源院殿(足利義輝)様が坂本で元服したときも近くに細川・畠山がいなかったので、佐々木(六角定頼)が管領の代わりを務めた、という例にならい、朝倉義景が管領の代わりを務めて加冠を行った。義景の父、教景の時に幕府の相伴衆となったが、名ばかりで、将軍の側で働くことは無かったが、その朝倉が加冠の大役を任されたのは、朝倉にとって名誉なことであると人々はうらやましがった。覚慶様は諱を義秋と名乗り、後に義昭と改めた。…

元服した時に「義秋」から「義昭」に改名しているので、元服して「覚慶」から「義秋」になった、というのは誤りですね(゜-゜)

朝倉にとって誉れの場面であると思うのですが、なぜか『朝倉始末記』には元服の場面は出てきません💦

朝倉と加賀一向一揆を和睦に導き、元服も果たし、いよいよ上洛…というところでしたが、ここで思わぬ事件が起こります(◎_◎;)

『朝倉始末記』によれば、6月25日に朝倉義景の愛息、阿君(くまぎみ)の乳母が毒によって死亡したのですが、その乳を飲んでいたためか、阿君もまた死んでしまったのです。

阿君はこの時6歳なので、乳を飲んでいたことは無いと思われるため、乳母経由で毒が回った、ということは無いと思いますが、周囲から怪しまれる死であったことは確かなようです💦

朝倉義景はひどく力を落とし、この様子を見た足利義昭は、「義景力にての御上洛は叶まじ」(『朝倉始末記』)と思い、密かに織田信長と連絡を取り、美濃に移ることを検討し始めるのですが、この頃、実は足利義昭には上洛を急がなければならない事情がありました。

その事情というのは、

①永禄11年(1568年)2月8日、ライバルの足利義栄が先に征夷大将軍に任じられてしまった。

②永禄10年(1567年)年10月に松永久秀が東大寺で大勝したものの、三人衆方は永禄11年(1568年)3月11日に十市遠勝を三人衆方に寝返らせ、5月19日には1月1日に松永方に寝返っていた河内の津田城を攻め落とし、6月29日には信貴山城を陥落させるなど、大和で攻勢に出ており、松永久秀は危うい状態にあった。『多聞院日記』8月21日条には、松永方の富野城が落城した、松永方が相果てる日も近い(「松弾方弥[いよいよ]相果つる者也」)、とまで書かれている。

(『足利季世記』には、…2月8日、三好の推挙によって、左馬頭足利義栄は征夷大将軍に任じられた。また、信貴山城には細川氏綱の弟・藤賢が三好義継方として籠城していたが、高屋城の三好康長が信貴山城に攻め寄せてこれを包囲した。細川藤賢がこれに苦しんでいたところ、石山本願寺の顕如上人が和睦を仲介し、信貴山城は三好康長が取り、藤賢は石山の城に送られた。…とあります)

…というものでした。

このままなす術なく時間がたてば、足利義栄の立場は盤石なものとなり、松永久秀が大和を失って、畿内における拠点を失うことになる…足利義昭はそれを恐れていたのです(◎_◎;)

永禄11年(1568年)6月13日に、松永久秀は「織尾出勢の儀、火急たるべきの由候条、大慶に存じ候」(織田尾張守[信長]の出陣が非常に差し迫っていると聞きました、非情にめでたく思います)という書状を多羅尾光俊(近江甲賀郡の国人)に出していますが、久秀が信長の出陣に大きな喜びを示しているのは、それだけ久秀の状況が切迫していたからでしょう。

 足利義昭が織田信長のもとに移る経緯について、『足利季世記』は次のように記しています。

…尾張国武衛(斯波氏)の家来に織田上総介平信長この時は弾正忠という者がいた。今は美濃国にいるが、亡くなった光源院(足利義輝)様の時より、使者を派遣して、上洛し忠節を尽くしたい、と伝えていた。また、現在の公方様(足利義昭)が甲賀にいる時、和田伊賀守が使者を送って三好討伐の支援を頼んだ。(義昭が)越前にいる時には、信長は、上洛に御供して、御敵討伐の「荒切」(先陣となって敵に突っ込むこと)を務めます、どうということはありません。今は天下が安全になるか、危険になるかの瀬戸際、状況は非常に切迫しております、と再三にわたって伝えてきた。朝倉は諸国に御教書を送り、東国・北国が一度に攻め上るようになるまで待つべきです、私は公方様がこの国におられる間、いつまでもおもてなしをするつもりです、と言った。しかし、信長の言う事の方が公方様の心にかない、上洛の準備を始めたので、朝倉義景は大いに驚いて、私は必ず疎略に扱いません、当国にいつまでも落ち着いていてください、織田とは代々同輩であり、婚姻によるつながりもあるといえども、近年は「腹黒」であるという話を聞きます、信長の言うことに任せて、美濃に御移りになられれば、後で必ず私は讒言に遭い、幕府の敵として討伐を受ける対象となるのは間違いありません。これまでの忠勤が無駄になる事が悲しくてたまりません、と言った。これを聞いて、公方は自ら一通の御内書を書いて義景に渡した。「この度、当国を去ることになったが、朝倉の忠義、立派に思う。今後、見放すことは決して無い。…6月24日 朝倉左衛門督殿へ」…

7月12日に義昭が上杉景虎に宛てて送った書状が残っており、そこには、

…上洛の事について、信長がはっきりと約束したので、美濃に移ることにした、朝倉も上洛の際に忠節を尽くす覚悟をしているので、上杉も上洛の際には協力をするように、…

と書かれています。以前、信長に約束を破られたことがある義昭ですが、それでも信長の言うことを信じたようです。

その理由について、『朝倉始末記』には、

…信長は尾張を討ち従えただけでなく、美濃まで奪い取り、両国を併呑し、勢いはますます強まるばかりであったので、義昭公が頼みとしたのも当然であった…

と書かれています。

当時の信長はそれだけでなく、北伊勢も占領していましたし、領土を接する武田・徳川・浅井と同盟を結び、上洛に集中できる状態を整えていました。

『信長公記』には義昭が美濃に移ったことについて、

「朝倉事、元来その者に非ずといえども、彼の父上意を掠め、御相伴の次(なみ)に任じ、我国において雅意に振る舞い、御帰洛の事中々其詞に出だされざるの間、是又、 公方様御料簡なく、この上は、織田上総介信長を偏(ひとえ)に頼み入られたきの趣仰せ出ださる。既に国を隔て、其上信長尫弱 (おうじゃく)の士たりといえども、天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽んじ、御請けなさる。

…朝倉義景は、もともと将軍を迎える力量のある者ではなかった。朝倉氏は幕府の相伴衆を務めるが、これは義景の父の孝景が将軍の機嫌を取って得たものである。義景は越前において思い通りにふるまい、公方様(義昭)の上洛の話をなかなか口に出さなかった。公方様は手の打ちようがなく、こうなっては、信長を頼みにするしかない、と仰せになった。信長は京都から離れた場所にいるし、弱いものであるのだが、それでも天下のために忠義を尽くしたいと思い、死ぬことを恐れず、この話を受けた。…

と、朝倉義景に対してかなり手厳しく書いています(;^_^A

織田と朝倉はもともと仲が悪いですし(織田は朝倉を格下だと思っている)、

朝倉義景としては将軍を保護するという名誉を(よりによって)織田に奪われた、というのも面白くなかったでしょう(◎_◎;)

また、『総見記』には、


『足利季世記』には、

…やがて、信長から、上洛の準備が整いました、という報告が入り、公方様は喜んだ。

…とあり、ついに足利義昭は勇躍、越前を出発して美濃に移り、信長と対面することになります…🔥

(続きは近日中に公開しますm(__)m)

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