社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田信長と足利義昭の対面~信長御憑み御請けの事①

2023年11月30日木曜日

織田信長と足利義昭の対面~信長御憑み御請けの事①

 上杉・朝倉による上洛支援の望みを失った足利義昭は、織田信長を頼みの綱と考えるようになります。

斎藤(一色)氏を滅ぼし、美濃を平定して上洛に対する障害を取り除いた織田信長は、上洛支援を決意し、越前から足利義昭を迎えるとともに、京都に向けて軍を起こすことになるのですが、

京都に向かう途中には南近江の六角氏がおり、六角氏をどうするか、ということについて、対策を講じていくことになります(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇信長と義昭の対面

足利義昭が越前を離れ美濃に移った日にちについて、『足利季世記』と『信長公記』は、

『足利季世記』…永禄11年(1568年)7月25日、信長が迎えの者を送ってきたので、美濃国西庄立政寺に移った。朝倉は国境まで見送った。

『信長公記』…「永禄11年(1568年) 7月25日、越前へ御迎えとして、和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助進上なされ、濃州西庄立正寺に至りて、公方様御成り」(7月25日、和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満を越前に派遣して公方様を迎え、美濃西の庄[現在の岐阜県岐阜市西荘]にある立政寺にお移しした)

…と、両方が「7月25日」としており、1日で越前から美濃に移動したかのような印象を与えますが、

実際は7月25日よりも早くに出発していたようです(;^_^A

25日以前に出発した、とする記録に『越州軍記』『朝倉始末記』があり、『越州軍記』には「7月16日」に越前一乗谷を出発し、美濃の織田信長方に移った、とあり、『朝倉始末記』には「7月下旬」に出発し7月25日に美濃に到着した、とあります。

『越州軍記』『朝倉始末記』は天正5年(1577年)頃に作られたとされており(『越州軍記』は1592年以降という説も)、比較的信ぴょう性が高いのですが、

それよりも信ぴょう性の高い記録があるのですね(;^_^A

『多聞院日記』です。毎日つけていた記録ですから、9年後に書かれた『朝倉始末記』よりも情報の鮮度が良いのですね。

『多聞院日記』7月27日の条には、「公方様は去る16日に越前から近江の浅井館に移り、22日にさらに美濃に移った。『尾張上総守御入洛御伴申すべきの由云々』尾張上総守(介)が上洛のお供をすると言ったという」とあり、

16日に越前を離れ、22日に美濃に到着した、というのがどうも正しいようです。

(そもそも福井市から立政寺まで歩いて1日と少しかかります)

16日出発については、それを裏付ける書状(義景の側近が上杉輝虎に送った7月8日付の書状)が残されており、そこには、

…(足利義昭が)織田信長の美濃に移られることになったのは、上洛をすぐに行うということを、書状で何度も送ってきたからである。義景も納得の上で、7月16日に美濃に移られることが決まっている。

…と書かれているのですね(◎_◎;)

こうしてみると、16日に越前を出発した、ということは確実でしょうね(゜-゜)

出発からの流れを『足利季世記』『朝倉始末記』『信長公記』『多聞院日記』を用いてまとめてみると、

①16日に越前一乗谷を出発(『多聞院日記』)。義景は御供しようと思ったが、息子の死から立ち直れていないところであったので、朝倉景恒・前波景定に近江富乃の国境まで見送らせることにした。両名は晴れ舞台と勇んで、4000の兵と共に出立した(『朝倉始末記』。『越州軍記』では2000余)。

余呉の庄(滋賀県長浜市)まで信長の使者と浅井備前守(長政)の2000が迎えに来ていたので、景恒・景定はここで暇をもらって帰国した(『朝倉始末記』)。信長の使者は和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満であった(『信長公記)(『朝倉始末記』は不破光治のみ記す)。

③近江小谷の浅井館に到着(『多聞院日記』)。

④22日、美濃に到着(『多聞院日記』)。

⑤25日、美濃の立政寺に入る(『足利季世記』『信長公記』)。

…ということになります。

(ちなみに『浅井三代記』には、越前一乗谷を出発してその夜は今庄に泊まり、翌日に近江に入り、木之本地蔵院[滋賀県長浜市]に参詣して三条定近の太刀1振・鳥目[銭の事]を奉納し、地蔵院を出発するところに浅井長政が小谷城から迎えに来た、それから小谷城に移って城下の救外寺に入った。浅井長政は義昭に貞宗の太刀1振・銀子50枚・鹿毛の馬1疋を贈った。浅井長政は藤川まで義昭を見送った。ここで信長からの迎えである菅谷九右衛門尉[長頼]・内藤庄助・柴田修理亮[勝家]が多くの兵士を連れてやってきた。ここで浅井長政は小谷に戻った…とあり、やけに詳しく書かれています[後の『新書太閤記』になるとさらに詳しい旅程が書かれている(;^_^A]。一方、『総見記』は『浅井三代記』と愛用が非常に似ているもの、違う点が見られます。例えば、①一乗谷を出発した日を「16日」と書いている、②義昭が地蔵院に奉納したのは「100貫文と太刀」、③「救外寺」の表記が「休懐寺」になっている、④長政は義昭に贈り物を贈っておらず、浅井久政があいさつに訪れて、「様々な珍物」を献上している、⑤義昭は地蔵院に「3日」とどまった後、美濃に向かっている、⑥織田から迎えに来たのが「不破河内守・内藤勝助・菅谷九右衛門」になっている、⑦「27日」に美濃国西の庄立政寺に到着した、…というもので、「16日」に一乗谷を出発した、というのは『多聞院日記』の内容と同じであり、『浅井三代記』と比べ、一定の信ぴょう性はある物と考えられますね。ちなみに、「救外寺[休懐寺]について、『東浅井郡志』は、「三代記の著者が、空中楼閣的に築きたる者にして、実在の寺に非ず」と全否定しています(◎_◎;))

美濃に入った後の義昭の動きについて、残念なことに『多聞院日記』は記していないので( ;∀;)

それ以外の記録に頼るしかないのですが、

①『足利季世記』…永禄11年(1568年)7月25日、信長が迎えの者を送ってきたので、美濃国西庄立政寺に移った。信長はあまり日数が経たないうちに出仕した。

②『朝倉始末記』…永禄11年(1568年)7月25日、織田信長は美濃に到着した義昭公を立政寺に入れ、兵士に命じて昼夜を問わず警固させた。7月27日、信長が岐阜からやって来て、義昭公に謁見した。

③『信長公記』…永禄11年(1568年)7月25日、和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満を越前に派遣して公方様を迎え、美濃西の庄(現在の岐阜県岐阜市西荘)にある立政寺にお移しした。

この3つの史料は立政寺に移った日を共通して25日、としているので、

足利義昭が立政寺に入ったのは7月25日と見て間違いないようです(゜-゜)

問題はその後で、信長と義昭が対面した日について、

『信長公記』はその日のうちのような書き方をし、

『足利季世記』は数日後としていて、

『朝倉始末記』は「7月27日」としており、

こちらは統一されていないのですね(◎_◎;)

しかし、『信長公記』は25日に会った、と明言しているわけではないので、

「数日後」という条件にも合う、『朝倉始末記』の7月27日説をいちおう採用することとします(;^_^A

さて、いよいよ信長と義昭の歴史的な対面の場面と相成るのですが、これについて、諸書はどう記しているのか。

①『足利季世記』…信長は太刀・馬・青銅千貫を献上した。

②『朝倉始末記』…信長は国綱の太刀1振・葦毛の馬1疋・鎧2両・沈香(香木の1つ)1折・縮100端(反。1反は布1巻きの事。1反は12mほど)・鳥目(銭のこと)千貫(今で言うと1200万円)を献上し、御供の方々にも贈り物を渡した。それから、様々なことについて話し合った後、信長は岐阜城に帰った。

③『信長公記』…「末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬、色々進上申され、その他、諸侯の御衆、これまた御馳走斜ならず。此の上は、片時も御入洛御急ぎあるべきと、思し食さる」(下座に銭千貫を積み、太刀・鎧・武具・馬などを献上した。お供の方々に対するもてなしもまた、並み一通りのものではなかった。信長は、「こうなったからには、少しでも早く上洛しなければならない」と考えた。

信ぴょう性は落ちますが小瀬甫庵『信長記』と『総見記』には会見の様子が詳しく書かれているので、これを紹介します。

・『信長記』…7月25日、義昭公は越前から美濃の立政寺に移り、27日に信長が出仕して、信長は国綱の太刀1振・葦毛の馬1疋・鎧2両・沈香1折・縮100端・鳥目千貫を献上し、御供の方々にも贈り物を渡した。信長の礼儀は正しく、その様子は堂々として威厳があった。義昭公は次のように言った、「三好の叛逆によって義輝・鹿苑院(義昭の弟の周暠)が討たれ、私は孤独の身となった。将軍家を断絶させてはならぬと、私は密かに奈良を抜け出し近江・越前に至って、計略を廻らしたものの、帰洛の宿願を叶えることはできなかった。そこで信長を頼ったところ、了承の返答があったのはめでたいことであったが、その後、距離が遠いのにかかわらず数人の使者を派遣して迎えに来させ、今また、礼儀正しく振舞っている。これらのことにすでに忠義の心が現れている。長年の心配はここに無くなった。謀反人を誅戮し、近くは義輝・鹿苑院を弔い、遠くは大祖(足利尊氏)から長く続いてきた将軍家を再興することはもう決まったようなものだ。礼を言ってもしきれない。しかし、そうであればこそ、事を急に進めて身を危うくするようなことがあってはならない。はかりごとを廻らせ、必ず勝てる手段を得られれば、大きな仕事を成し遂げることができる。そうであるならば、将軍家再興の守護神とも言うべきである」。信長はこれに答えて言った、「私も命に危険の恐れのある事はわかっていますが、巨悪を討たないことには天道も命を救おうとしますまい。自分の命は天道に任せるのみです」。義昭公は深く感じ入り、頼もしく思った。そして酒宴となり、杯を重ねる中で、上の者も下の者も、みな万々歳と声を挙げて、非情に浮かれている様子であった。その中で信長は退出を願い出て、岐阜城に戻った。

・『総見記』…29日に信長は立政寺に出仕した。この際、国綱の太刀1腰・葦毛の馬1匹・紫糸の鎧・沈香1斤・縮100端・青銅千貫を献上した、と聞いている。公方は三好三人衆などの討伐を頼み、信長は「私は愚かな者ですが、すぐにでも兵を挙げて攻め上り、御敵を討伐いたします、将軍家再興の事、ご安心なさってくださいませ、当国に居場所を移されたことは、恐れ多いことで、仮御所を作るべきところですが、仮御所ができるまで美濃に留まることはありません。それほど時間がかからないうちに、京都にお連れできることでしょう。それまでしばらくの間、この寺でくつろいでいて下さい」と述べた。これを聞いた公方は、「信長の言うことは、どれも私の望んでいたことばかりだ」と非常に喜んだ。しばらくして酒宴が始まり、盃を賜り、祝詞が読み上げられた後、岐阜城に帰された。

『総見記』が会見の日を「29日」とするのは独自性がありますね(゜-゜)情報源はいったいどこから…?(;^_^A

また、『総見記』はすぐに上洛を達成するので仮御所は作らなかった、としていますが、『越州軍記』には、新御所を作り、昼夜を問わず守護し、大切に養い守った、と正反対の記述があります(◎_◎;)

どちらが正しいかはわかりませんが、『越州軍記』の方が成立は早いので、新御所を作った、というのが正しいようにも思えます(゜-゜)

しかし、『信長公記』には、後に信長が近江を平定した際に、「立政寺」に迎えの使者を送った、という記述があるので、これを考えると、立政寺を改装したかもしれませんが、新たに御所を作った、とは思えないのですよね…(;^_^A

立政寺にある碑文にも、「義昭公御座所」「永禄11年紀元1568年織田信長足利義昭公を越前州より当山に招き高居と為す」とあるだけで、御所を新たに作ったとは書かれていないのですよね…(゜-゜)

マンガでは『総見記』の記述を採用させていただきました(;^_^A


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