社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 近江浅井氏・六角氏に対する外交~信長御憑み御請けの事②

2023年12月4日月曜日

近江浅井氏・六角氏に対する外交~信長御憑み御請けの事②

7月25(27or29)日に足利義昭に対し早期の上洛を宣言した織田信長。

しかし、信長が上洛の軍を起こすのは9月7日までずれこんでいます(◎_◎;)

その間、約1か月。信長はいったい何をしていたのでしょうか?

それは、上洛がうまくいくようにするための最終調整…京都への通り道になる、近江の大名・浅井氏・六角氏に対する外交活動でした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪ 

(マンガの2ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>)

〇浅井氏との外交

信長が展開した近江に対する外交について見ていくことにしたいのですが、

基本史料となる『信長公記』の記述を軸にして、適宜、内容を諸書で補っていこうと思います。

「8月7日、江州佐和山へ信長御出でなされ、」(『信長公記』)

永禄11年[1568年]8月7日、信長は近江の佐和山城に出向きます。

まずこの日にちについて。

他に『足利季世記』『総見記』も8月7日にしているのですが、

『信長記』『当代記』『浅井三代記』は8月「8日」にしているのですね(◎_◎;)

『信長記』には、

8月5日、信長は岐阜に兵を集め、先陣が翌日に出発、信長は8日に出発して佐和山城に着き、

…とあり、8日に到着したと書いてあるわけではないのですが、

岐阜城から佐和山城までは60㎞、歩いて14時間ほどで着く距離なので、朝に出ればその日中に到着は可能かなと(;^_^A

2日かけたかもしれませんが…💦

『当代記』『浅井三代記』は8日に会ったと明記しています。

また、『信長記』で気になるのは、8月5日から兵を集め、その後3日かけて全軍が出陣している、ということですね(゜-゜)

3日かけて出陣が完了するというのは、よほどの大軍であったということです。

しかし、信長はこの出陣で、どこの城も攻撃していませんので、そんな大軍を連れていく必要性はないのですね(;^_^A 示威行為だったのかもしれませんが。

しかし、この8月上旬というのは、現在使われている太陽暦(グレゴリオ暦)でいうと、9月の上旬辺りになるのですね。

何が言いたいのかというと、収穫の時期なわけです。

こんな時期に兵士とか人夫とかで動員されたら農民としてはたまったものではありません(◎_◎;)

信長のこれまでの戦歴を見ても、8月上旬に戦っていることはめったにないのですね。

そう考えると、『浅井三代記』『総見記』にある、御供の数は240~50であった、というのが正しいのではないか、と考えられます。

敵地の近江佐和山城にそんな小勢で⁉と驚くかもしれませんが、

『信長公記』には一切触れられてないものの、当時、佐和山城は信長の同盟相手、浅井氏の持ち城であり、そこまでの近江の道中も、浅井の領土でした。そのため、兵を多く連れていく心配は無かったわけです。

『信長公記』には六角氏との外交しか触れられていないのですが、

信長が佐和山城に行った理由のもう1つは、浅井氏と外交を行う事にありました。

『細川両家記』には、「8月、織田上総介は近江北郡に行き、浅井方と仲間になり、話し合ったという」とあります。

浅井氏との具体的な外交の内容を記すのは『浅井三代記』と『総見記』です。

2つの内容は似通っているのですが、

『浅井三代記』の成立は寛文年間(1661~1672年)とされ、

『総見記』は貞享2年(1685年)頃成立しているので、

おそらく『総見記』は『浅井三代記』を参考にして記述したのでしょう(゜-゜)

『浅井三代記』には、浅井氏との外交の様子が次のように書かれています。

…永禄11年(1568年)7月28日、信長は浅井長政に使者を送って言った、「貴殿は数年にわたって我らと対面したいと申されていたが、道中の心配もあり、先延ばしにしていた。しかし、相談したいことがあるので、8月の8日に佐和山城で対面したい」。佐和山城は磯野員昌の城であったので、員昌に掃除など迎えの準備をするように伝えた。長政は一門・家老を連れて佐和山に向かい、対面の日には摺針峠(彦根市)まで行って出迎えた。信長は小姓・馬廻240~50人を連れてやって来た。長政がこれまで迎えに出向くことは無かったので、それを知った信長はひどく満足そうであった。佐和山城に着くと、信長は長政には一文字宗吉の太刀・槍100本・しじらの反物100端・具足1領・馬1疋を贈り、父の久政には黄金50枚・太刀1振を贈った。浅井の家老・一門があいさつをすると、それぞれにも贈り物をし、特に磯野員昌には銀子30枚・祐光の太刀1振・馬を贈った。三田村・大野木・浅井玄蕃には太刀・馬が贈られた。長政はとても喜び、丁重に信長をもてなした。翌日、信長が小谷の方(お市)に長く会っていないので会いたいと言うので、小谷から呼び寄せ、2人は睦まじく話をした。その夜、信長が言った、「長政殿は義理堅い方なので、返礼に岐阜城に来られると思っているのだが、今は上洛を間近に控えていて、あちらこちらに移動するわけにもいかないので、明朝はこの城で返礼を受けたい」。長政は辞退したが、信長が強く求めるので、受けることにした。その後、2人は夜通し密談したが、後で聞いたところによると、箕作城攻めの事・三好討伐の事・義昭公の上洛の事などについて話し合ったのだという。翌朝、信長は佐和山城にて長政・久政父子をもてなした。長政は家宝の備前兼光の太刀(名は「石わり」)・近江綿200把・布100疋・月毛の馬1匹・藤原定家が藤川に来た時に近江の名所について詠んだ歌書2冊を贈った。久政や家老・一門もそれぞれ贈り物をした。また、長政は信長の御供の者たちに新品の太刀・脇差を贈った。この時に長政が贈った備前兼光の太刀は久政が秘蔵していたものであった。備前守が備前兼光を信長に贈ったのは、備前守長政が信長に滅ぼされるということの前兆であったのだと、後で思い知ることになるのである。信長は浅井の家老たちに次のように言っていた、「長政はこのように私の「子分」になったからには、日本国は全て織田と浅井によって治められることになるだろう。一生懸命努めれば、その者を大名に取り立てよう」。翌日11日には佐和山浦で大網を使い漁をして、鯉・鮒など多くの魚を得た。信長は「美濃ではこのような楽しいことは無い。魚は近江国の名物であるから、岐阜に持ち帰ろう」と言った。

だいぶ詳細ですね(;^_^A 一方の『総見記』は、

…8月5日、上洛の兵を岐阜城に集めた。浅井氏に使者を送り、近江を平定するための相談のため、佐和山城に向かうので、長政も出向かれるように、と伝えた。長政は佐和山城主の磯野員昌に、もてなしの準備を念入りにするように伝えた。7日、信長はわずか240・50の兵を連れて佐和山城に入った。長政は摺針峠で信長を出迎えたが、これが初の対面であった。このことについて、京都の人々は「婿入り前の舅入りとはこのことだ」と言ったという。佐和山城に入った信長を、長政は山海の珍物でもてなした。浅井氏の一門・家老が残らずあいさつに来た際に、喜んだ信長は、「浅井備前守(長政)殿と縁者となり、備前守殿が上洛の御供をするとなれば、今年中に日本国を残らず従えてしまえるだろう。そうなったら、そなたらを高い地位につけるから、待っているがよい」と言って笑わせた。その後、信長は長政と密かに、義昭の上洛・近江平定の事について話し合った。

…と簡潔で、『浅井三代記』とちがって、お市の話・備前兼光の話・漁の話はありません。

また、『浅井三代記』には、「長政が信長の子分になった」という衝撃的な内容が書かれているのですが、この場合の「子分」というのは、「手下・配下」という意味ではなく、「義理の子」という意味でしょう(『言海』で「子分」を引くと、「仮に子とすること。義子・仮子。」とある)。『浅井三代記』では信長は妹のお市を養女としたうえで長政に嫁がせていますから、形の上では長政は信長の子の夫、ということになるので、「義理の子」ということになるわけです。『浅井三代記』には、あとで信長が長政の事を親子のように思っている、という描写も出てきます。

(今回の話の残り部分は都合により公開いたしません<(_ _)>)

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