社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 上洛の軍を起こす~信長義兵を揚げて攻め上らる事

2023年12月10日日曜日

上洛の軍を起こす~信長義兵を揚げて攻め上らる事

 ついに織田信長は宿願の上洛に移ります。

京都に攻め上る道中で最初に立ちはだかる敵は、近江南部の大名、六角氏でした…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇上洛軍、出陣

『信長公記』を軸に、信長と六角氏の戦いについて見ていこうと思います(゜-゜)

「9月7日に公方様へ御暇を申され、江州一篇に討ち果たし、御迎えを進上すべきの旨仰せ上げられ、尾・濃・勢・三、4ヶ国の軍兵を引卒し、9月7日に打ち立ち、平尾村御陣取。」(9月7日、足利義昭に別れを告げ、近江を平定し、迎えを差し上げると伝え、尾張・美濃・伊勢・三河4カ国の兵を引き連れ、その日中に出陣し、この日は平尾村に陣を構えた)

日本の諸書で、信長が率いた軍勢の数を伝えるものは『越州軍記』の「8万余」、『勢州軍記』の「5万余」、『氏郷記』の「数万」しかありません(『細川両家記』には、上洛達成直後のことになりますが、9月30日に、「5万人計(ばかり)」で池田城を包囲した、という記述があります)。一方で、ルイス・フロイスは1568年10月4日(永禄11年9月14日)付の書簡で、「5・6日前、尾張の国主が殺された公方様の兄弟を武力によって都の領主につかせるため、突如、6万の兵を率いて都に到来した」と記しています。しかし、ルイス・フロイスは後に書いた『日本史』で、「彼は5万人以上を率いて来たので」と書いています(;^_^A 『勢州軍記』とも一致しますし、こちらの方が正確なんでしょうかね(゜-゜)しかし5万とはすさまじい人数です💦

また、人数は記していませんが、『信長記』『総見記』は、「先陣は早くも近江の平尾に着いたが、後陣はまだ美濃の垂井・赤坂の辺りにいた」という表現で大軍である事を示しています。ここで「近江」の平尾と書いてあるのは誤りで、「美濃」の平尾のことです(;'∀')近江の平尾は岐阜城から80㎞離れており、歩いていくと18時間もかかります(◎_◎;)しかも近江の平尾は京都へ向かうのにだいぶ遠回りになってしまいます(;'∀')

信ぴょう性の高い『足利義昭入洛記』は「7日に岐阜より平尾に陣取、惣勢は垂井・赤坂・不破・関山に着畢」と記しています。

これは先陣は関山(おそらく不破の関に近い松尾山?)にいて、それから不破→垂井→平尾、後陣は赤坂に布陣した、ということです。信長の市は後ろから2番目であったということですね(゜-゜)後陣が赤坂、となると、信ぴょう性に疑問が持たれている『信長記』の記述にも、正確な部分がある事がわかりますね(;^_^A

関山(松尾山?)と赤坂の距離ですが、約14㎞ほどです。14㎞を5万人で割ると、1列だと1人当たり28㎝のスペースしかないことになりますから、おそらく2~3列(前との間隔:56㎝~84㎝)ほどで行軍したのでしょうね。人間の幅は約30㎝なので最低3列はないとぎゅうぎゅうでしんどそうです…(;^_^A

ちなみに、『浅井三代記』には「8日に岐阜城を出発、先陣は近江醒ヶ井柏原についたものの、後陣はまだ美濃を出ていなかった」という異説が載っています。出発日が8日というのも他と違いますね(『越州軍記』『信長記』も8日出陣とする)。醒井・柏原は近江・美濃の国境付近で、松尾山にほど近い場所にあるので、こちらが正しい可能性も無くはありません(゜-゜)

また、信長の上洛に加わった国々についても、諸書によって違いが見られます。

『信長公記』…尾張・美濃・伊勢・三河

『足利季世記』…美濃・尾張

『越州軍記』…三河・尾張・美濃

『伊勢軍記』『勢州軍記』…美濃・尾張・伊勢(滝川勢・関一党)

『浅井三代記』…美濃・尾張・三河

『氏郷記』…美濃・尾張・伊勢・三河・遠江

『武徳編年集成』…美濃・尾張と伊勢の数郡+徳川勢

ここは『信長公記』の記述がやはり信頼できると思います。『氏郷記』は「美濃・尾張・伊勢・三河・遠江」、『総見記』も(おそらく遠江を加えて)「5か国」と記しており、『信長公記』の4カ国に遠江を加えていますが、当時、徳川家康はまだ遠江に進出していませんでした(遠江進攻は12月に入ってから)。

また、信長上洛直後に筆写された『足利義昭入洛記』は、非情に信ぴょう性が高い史料なのですが、これには「伊勢・尾張・参川(三河)・美濃四ヶ国」と書かれており、『信長公記』の正確性を裏付けています。

徳川から駆けつけた援軍については、

『松平記』…諸家中から10人優れたものを選び、松平勘四郎(信一)を大将として派遣

『浅井三代記』…小笠原与八郎(信興)の2000

『総見記』…三河勢の侍大将の松平信一、遠江の小笠原

『武徳編年集成』…松平信一を大将、三宅康貞を監軍として、2000の兵

『徳川実紀』…松平信一

…と、諸書で違いがいられますが、遠江高天神城主・小笠原信興が徳川の味方についたのは12月なので、『浅井三代記』『総見記』の記述は誤りです(;^_^A

参戦したのは松平信一、というのはだいたい正しいと思われます。

松平信一(1539~1624年)は藤井松平家の出身で、徳川家康の祖父、清康の従兄弟にあたる人物です。

さて、平尾村に到着した織田信長のその後の足取りを、『信長公記』で見てみましょう。

「同8日に、江州高宮御着陣。両日御逗留なされ、人馬の息を休め、11日、愛智川近辺に野陣をかけさせられ、」(9月8日に近江の高宮に着き、ここで2日滞在し、人馬を休め、11日、愛知川付近で野営した)

信長はついに近江に入ったわけですが、高宮というのは、現在の彦根市高宮町、場所は佐和山城を通り過ぎ、多賀大社にほど近い所です。

ちなみに信長は上洛に先立って、8月に多賀大社に対して、織田軍の乱妨・狼藉・陣取・放火などを禁止する、という内容の禁制を出しています。

多賀大社は信長の上洛が近いのを感じ取って、信長に禁制を要請していたのでしょう(゜-゜)

『足利義昭入洛記』には、「8日に近江高宮に陣をすえ、先陣は愛知川を境、後陣は摺針峠小野の宿に控えたり」とあります。2日目にして、先陣は最前線の愛知川まで至っていたようです(◎_◎;)

『浅井三代記』には次の異説が載っています。

…浅井長政は信長から上洛の日時を伝えられていたので。9月6日に軍勢を率いて佐和山城に入り、信長の到着を待った。その間、江南の六角方の城主で、長政を通して信長の味方につく、と申し出たものが数多くいた。その頃江南の諸将は、承禎の子、義弼が後藤父子を討った事件の事で、六角氏を嫌うようになっていたので、このように味方につく者が数え切れないほど多く現れたのである。しかし家老たちは義を守るためか、三好に通じていたためか、降参する様子がなかった。信長は8日に岐阜城を出発、…急いで進んだため、その夜には浅井領常菩提院に到着、翌日、佐和山城に入った。

常菩提院というのは成菩提院(円乗寺)のことで、美濃との国境にほど近い柏原にあります。『浅井三代記』は出発した日は平尾に泊まったのではなく、成菩提院に泊まったというのですね(゜-゜)

そして、浅井長政の軍勢と佐和山城にて合流しています。浅井氏と合流した場所・日にちについて述べているのは、確認できる限り、『浅井三代記』だけですね(;'∀')

ちなみに徳勝寺碑銘・過去帳には、浅井長政はこの時、祖母の忌中であったが参陣した、と書かれているようです。

信長は『信長公記』によれば高宮に2日間滞在しているのですが(『信長記』は8日出発のため1日間)、

2日間もとどまった理由について、『足利義昭入洛記』は、「佐々木四郎道をふせぎ、逆木を山にゆい、人馬のかよいたやすからぬによって、2・3日をおくり了」と記すのですが、高宮から観音寺山まで平地が続いているんですけどね…(;^_^A

それよりも川を渡りにくくしていた、と考える方が適当のような気もします(;'∀')

この頃の状況を知ることができる一次史料に『言継卿記』がありますが、9月10日条には、「尾張より織田上総介が近江中部に進んだという。そのため今朝、石成主税助が坂本に下っていった」と記されています。

この信長の動きに対し、六角氏はどうしていたのでしょうか。

『足利季世記』…六角承禎・義弼父子は和田山城が最初に攻められる城だと考えて、田中治部大夫をはじめとして屈強の兵を置いていた。

『信長記』…承禎父子は家老を集め、信長が近江の国に攻め寄せてくれば、街道沿いの城を攻撃してくるだろう、そのため和田山に城を築いておいた、この城には南都(奈良)でも戦った経験のある選りすぐりの者を配置してある、と話をしていた。

『総見記』…六角承禎は軍議を開き、「信長が上洛してくるのを防ぎ、三好三人衆の援軍を待つ」と言って、和田山に城を築き、一族の山中山城守・田中治部太夫を大将とし、選りすぐりの兵を入れ、自身は観音寺城に籠もり、その他、箕作・日野をはじめとする18の城で、やってくる織田軍を待ち構えることにした。

『氏郷記』…義賢(承禎)は最初に和田山城が攻められるだろうと考えて、和田山城に屈強な兵を置き、次に箕作城にも大勢の兵を入れておいた。

こうしてみると、最初に攻められるであろう和田山城の防衛体制を強化し、時間を稼ぐ中で三好三人衆の援軍を待つ、という作戦を立てていたことがわかります。

…ということは、逆に考えると、信長は六角攻めで時間をかけるわけにはいかないわけです。

信長はどういう作戦を取ることにしたのでしょうか!

次回に続きますm(__)m

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