上洛の軍を起こした織田信長は、六角氏の本拠・観音寺城に迫ります。
戦いの火ぶたは、今まさに切られようとしていました…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇愛知川の戦い~坂井政尚・久蔵父子の活躍
『足利季世記』には、次のような記述があります。
…11日には愛知川の近くの村々を焼き払い、12日には…六角の足軽衆が攻撃を仕掛けてきたが、尾張の逸り雄(はやりお。血気にはやる者)たち500人ほどが一斉に反撃し、敵の足軽大将7人を討ち取った。坂井右近父子(政尚・久蔵)は手柄を立て、後に公方(足利義昭)から感状を賜った。
11日に愛知川近辺を放火した信長は、12日に六角方の足軽衆と小競り合いをし、坂井政尚父子が手柄を挙げた、というのですが、この前哨戦について、諸書は次のように記しています。
『信長記』…11日、愛知川の辺りに放火し、その夜は野営した。12日、六角承禎の居城、観音寺城と箕作山の城に押し寄せるにあたり、軍勢の配置を決めるために、その朝、信長は森三左衛門尉・坂井右近将監・その他小姓・馬廻500騎に箕作山周辺の偵察を命じた。敵も足軽を少しばかり出してきたが、森・坂井はこれを東西南北に駆け破り、追い散らして、80余を討ち取った。…(その後再び)敵が足軽を出してきたが、反撃してこれを城の堀際まで追い詰めた際に、坂井右近の嫡男・坂井久蔵(13歳[数え年])が首をとり、信長にこれを見せたところ、信長は大いに感じ入った様子であった。この戦いの様子を義昭公に報告すると、義昭公も久蔵の活躍を比べるものがないものだとお思いになり、感状をお与えになった。(13歳で)馬に乗るのも危ういほどの身体でありながら、将軍から感状をいただくなど、古い記録を見ても、めったにないことだ、と久蔵をほめない者はいなかった。信長は「首途(門出)は良し、森・坂井は愛知川面に戻り、観音寺に向けて鶴翼の陣を取れ」と柴田勝家に命じた。
『総見記』…11日には愛知川近辺を放火した。…信長は11日夜、愛知川に野営し、翌12日、和田山城には美濃西方三人衆の稲葉伊予守・安藤伊賀守・氏家常陸入道を押さえとして置いて後回しにして、その他の小城には目もくれず、箕作・観音寺城を攻めた。12日未明、信長は自ら、小姓・馬廻・森可成・坂井政尚を連れて、城の周辺の様子を見るために出発した。そこに箕作城から足軽が出てきて、小競り合いとなった。森・坂井は手勢を率いて馬を駆け入れ、7・8人をなぎ倒し、城の側まで追い込んだ。この時、政尚の子の久蔵、13歳(数え年)で、いまだ馬も乗りこなせないほどの若武者が、敵を堀際まで追いかけ、槍で突き伏せ、首を取って帰り、信長にこれを見せた。信長は大いに感じ入り、その日の活躍について記したものを新公方(義昭)のもとに送った結果、新公方から感状が久蔵に与えられることになった。若くして武功を挙げたのを、珍しいことだと人々は話し合った。この小競り合いで、7・80を討ち取ったが、信長は「物のはじめ良し」と喜んだ。
違いを確認すると、
①戦いのタイミングについて、『信長記』は朝、『総見記』は「未明」と記す。
②偵察に出向いたのは、『信長記』では森・坂井たちだが、『総見記』はそれに加えて信長本人も出ている。
③討ち取った数について、『足利季世記』は「足軽大将7人」と名のある者だけを記し、『信長記』は80余、『総見記』は7・80余とする。
④坂井久蔵の活躍について、『信長記』は2度目の小競り合いの時とする。
⑤『足利季世記』では坂井父子に感状が与えられているが、『信長記』『総見記』は子の坂井久蔵のみ。
…となります。基本、『総見記』は『信長記』の記述を踏襲していますね(゜-゜)
一方で、『信長公記』はこの前哨戦について、
「信長駆け回し御覧じ」(信長は馬に乗って走り回り、御覧になられた)と記すのみです(;^_^A
でも、ここからは、信長自身が戦場の偵察に赴いた、ということがわかりますね。
また、『言継卿記』は9月11日条で、
「近江で合戦があったという。双方に死者が出たという。上総介が国に帰ったというが、どうだろうか。申の刻(午後4時頃)に石成主税助(友通)が帰ってきた」
…と(伝聞ですが)記しているのですが、ここからは、11日になかなかに激しい戦闘があった事がわかります。
『足利季世記』『信長記』『総見記』はどれも、11日は放火しただけで、12日に小競り合いがあった、としていますが、『言継卿記』の記述を見ると、小競り合いが起きたのは、11日のことなのかもしれませんね(;^_^A
ちなみにこの戦いで活躍した坂井政尚について、『武家事紀』は「本濃州斎藤家の士也。後信長につかえて軍功を働く」と記しており、もとは美濃の斎藤氏の家来であったことがわかります。外様だったわけですね(◎_◎;)
しかしこの戦いで森可成と同等に扱われていること、また、後で述べますが、近江平定後に森などと共に奉行に任じられていることから、早い段階で斎藤氏を離れ、信長の家来となっていたのだと考えられます(『総見記』では1560年の美濃攻めの際に、すでに織田方で戦っています)。斎藤道三派であったのかもしれません(゜-゜)
この偵察で敵情を把握した信長は、続いて軍議を開きます。
『信長公記』には次のようにあります。
「わきわき数ヶ所の御敵城へは御手遣いもなく、佐々木父子3人楯籠もられ侯観音寺並箕作山へ、同12日に駆け上させられ、佐久間右衛門・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門・浅井新八仰せ付けられ、箕作山の城攻めさせられ、」(そばにある数城には構うことなく、六角父子3人[六角義賢・義治・義定]が立て籠もる観音寺山・箕作山に12日に駆け上り、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井政澄に命じて、箕作山城を攻撃させた)
偵察で和田山城を攻撃すると時間がかかると考えたのでしょうね(゜-゜)
『日本外史』には、六角氏は「我が軍のこれを攻むるを待って、首尾相い救わんと欲す」(信長が和田山に攻撃を仕掛けたら、観音寺・箕作から兵を送って、攻囲中の織田軍を破る計略であった)と書かれていますが、どうでしょうか(;^_^A
そこで信長は、和田山は放置して、その奥にある箕作山城に照準を合わせ、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井政澄の四将に攻撃を担当させることにしたのです。
ここでついに!…木下秀吉(豊臣秀吉)が『信長公記』に登場致します!(◎_◎;)
文書の上では、永禄8年(1565年)11月2日付の、坪内利定に対して土地を与えている書状に「木下藤吉郎秀吉」と書かれているのが初出となります。
それ以外のことについては、よくわからないというのが実情なのですが、
『太閤素生記』には、織田信秀の足軽の子であった、ということや、
信長の雑用を使える小者頭にガンマク(おそらく顔幕)・一若という者がいて、一若は同郷の中々村の出身であったので、これを頼って信長の草履取になり、短い期間で小物頭となった、という話が載っています。
その後について、信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には美濃攻めで活躍した、と書かれています。
まぁ美濃攻めで功績を挙げていなければ出世はできないでしょうから、『武功夜話』の話を全て信じることはできないにしても、美濃攻めで優れた活躍を示していたのでしょうね。
そして箕作攻めでは佐久間信盛や丹羽長秀と並んで一方の大将を任されるまでになったわけですが、秀吉と共にもう1人大将となっているのが、「浅井新八」という人物です。
この浅井新八(政澄・信広とも)は、浅井長政の父・久政の弟の子であった、とする史料もありますが、尾張に住む浅井氏の出身で、浅井久政・長政と直接な血のつながりはなかったようです(;^_^A
この4人が軍議で箕作攻めを任せられたわけですが、軍議について、他の諸書は次のように書いています。
『足利季世記』…12日には観音寺城・箕作城を攻めるための軍議を開いた。浅井長政は近江の地理に通じたものであったので、観音寺城と箕作城の間に置き、箕作城を攻めた際、承禎が観音寺城から加勢に来た時の押さえにしようとしたが、浅井衆はその通りにしたくないと言ったので、その方法を取ることはできなかった。
『信長記』…信長は軍議を開き、箕作城を攻めようと思っているのだが、策がある者は申し出よ、と伝えた。すると坂井右近将監が進み出て言った、「箕作と観音寺の間の距離は少ししかありません。六角父子は、眼前で箕作城が攻められているのを見捨てることはしないでしょう。観音寺城に対し押さえを置くことが必要です」。信長は、浅井長政は近江の者で地理にも明るいだろうと、観音寺と箕作の間に割って入り、観音寺の押さえとなるように使者を派遣して伝えさせた。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が浅井の陣に向かい、信長の話したことを伝えたところ、浅井は家老たちが集まって軍議をしたが、返事をするのに悩んでいる様子であったので、佐々・福富は織田の陣に戻り、浅井の様子を伝えた。信長も不快に思ったことだろうけれども、浅井と初めて対面し、仲もまだ慣れていないところであったので、口を開けて笑い、「それならば我が軍が両城の間に入り、承禎父子の押さえとなろう。備前守は箕作攻めに加われば良い。どちらがよいか選ばせよ」と再び佐々・福富を浅井の陣に派遣したが、その際に、「彼は『大ぬる者』(ぐずぐずしていて、判断が遅い)だから、どちらを選べばいいか迷う事だろう。どちらを選ぶか急ぎ決断するように、と督促せよ」と言った。浅井は後者を選んだが、今度は昼に攻めるか、夜に攻めるかで議論しあい、とうとう夜に攻めることに決めた。佐々・福富は陣に戻ると、浅井の決めたことを信長に報告することなく、「美濃・尾張の者の他に勇猛な者はおりません」と怒るだけであった。信長は、「そうなると思ってこちらでは軍の出発の準備をもう整えておいた。安心せよ」と答えた。…信長は、和田山には浅井長政を押さえとして置き、和田山の奥にある箕作城を攻めさせたので、六角は予想外の事に動揺しているように見えた。佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門尉・浅井新八が箕作城に攻め寄せた。
『総見記』…信長は柴田勝家に命じて箕作攻めの準備を行わせた。そこに坂井政尚が次のように進言した。「箕作城を攻められるには、観音寺城に押さえを置いておく必要があります。六角承禎ほどの者、目の前で箕作城が攻められて助けに行かないわけがありません」。信長はこの進言をもっともだとして、「幸いに備州(浅井長政)は近江の地理に明るい。備州に頼むこととしよう」と言って、浅井方に使者を派遣して、次のように伝えさせた。「今日箕作城を攻めようと思っているのですが、あなたの軍勢は、箕作・観音寺の間に割って入り、観音寺に対する押さえを務めてほしい」。浅井長政は何を思ったのか、この提案を承知しなかった。そこで使者の福富平左衛門・佐々内蔵助は戻ってこのことを信長に伝えた。信長は機嫌を悪くしたと考えられるが、顔色には出さず、「それならば、わが軍勢でもって両城の間に入ろう。浅井勢は箕作城を攻めればよろしい」と言ったが、諸将が「備前守殿はそれも承知しないでしょう」というので、信長は「それならば、我が軍だけで箕作城を攻める、早く準備せよ」と命令し、12日の申の刻(午後4時頃)に箕作城に攻めかかった。…箕作攻めの先陣を務めたのは佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉・浅井新八郎などであった。
『氏郷記』…信長はこれを知って、まず箕作城を攻めるべしと、和田山城に対しては西美濃三人衆の氏家卜全・安藤伊賀守・稲葉一轍を置き、観音寺城に対しては柴田勝家・池田信輝・森三左衛門尉・坂井右近将監等を置いてそれぞれ押さえとし、箕作城攻めは佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井新八等が担当して、城を激しく攻め立てた。
『佐久間軍記』…信長は、六角の居城である観音寺城に対しては柴田勝家を押さえとし、和田山城には美濃三人衆を押さえとした上で、箕作城を攻撃した。佐久間信盛が先陣であった。
以上の諸書を見ると、『信長公記』に書かれていないことの1つは、浅井長政との交渉のことです。
そもそも『信長公記』は長政が後に裏切った人物だからか、裏切る場面まで長政を一切登場させていません(;'∀')
諸書に一致するところは、長政が近江の地理に明るいので、観音寺城に対する押さえにしようとしたが、長政はこれを断った、というものです。
『信長記』『総見記』は、さらに一歩進んで、決断が遅い優柔不断な人物のように書かれていますが、『東浅井郡志』は、「果して拠る所あるや否やを知らず」と手厳しいです(;^_^A
『浅井三代記』には、
…9日、佐和山城に入った。信長は長政と兵の配置について話し合ったが、長政は自国の事なので、委細洩らさず、大切なことや注意点について話をした。信長は「長政には観音寺城の押さえを任せたい」と言い、長政は「現地の事情はよく知っているので、攻め手の1つを任せていただきたい」と答えたが、信長は、「観音寺の押さえは大事なので任せようと思ったのだが、そのように言うのなら、箕作攻めを任せよう」と言った。長政が箕作攻めを任せられようとした理由は、1つには、信長の縁者であるために危険な役目を避けられた、と思われるが嫌だったということで、もう1つには、戦いが終わった後、和睦を取り計らおうとしたからであって、何度も承禎とは戦ってきたけれども、同じ国の者であるので、哀れむ気持ちがあったからである。
…と書かれていて、箕作攻めを希望した理由まで書かれていますが、実際は、自分の国の事であり、相手も何度も戦ってきた六角氏なので、箕作攻めから外されるのが嫌だった、というところだったのではないでしょうか(;^_^A
長政が断った観音寺城への押さえの役は、『氏郷記』によれば、柴田勝家・池田恒興・森可成・坂井政尚が務め(『佐久間軍記』では柴田勝家のみ)、和田山砦の押さえは、『信長記』では浅井長政が、『佐久間軍記』『氏郷記』『総見記』では美濃三人衆が、それぞれ務めることになったようですね。
とにかく、六角氏との戦いにおける浅井長政の動きは不明瞭です…(-_-;)
〇箕作城の戦い
いよいよ信長は箕作城を攻撃することになるのですが、
『信長公記』には、この戦いについて、
「箕作山の城攻めさせられ、申剋より夜に入り、攻め落し訖」(箕作山の城を申の刻[午後4時頃]から夜にかけて攻撃し、攻め落とした)
…と非常に簡潔にしか書かれていません(;^_^A
他の史料によってその内容を補うことが必要になるわけですが、諸書には戦いの模様について、次のように書かれています。
『足利義昭入洛記』…箕作山の城は高さが麓から20町(約2200m…というが実際は2町の誤りか。高さは325m、麓は115mなので、その差は約200m)ほどあり、並ぶように神明ヶ嶽という険しい山があるが、この山に対し、12日午の刻(12時頃)にまず1万の兵が駆け上り、敵の反撃もものともせず攻め落とし、4・50を討ち取った。その日の申の刻(午後4時頃)に信長は神明ヶ嶽に移り、続いて箕作山の攻撃を命じた。時刻は酉の刻(午後6時頃)になろうとしていたが、信長は新たに1万の兵を四方から鬨の声を挙げさせてながら、入れ替え入れ替え攻撃させた。しかし、高山に作られた城であったので、負傷する者は数が知れず、時間ばかりが過ぎていった。信長は怒って、また兵を入れ替えて攻めさせたところ、城の兵は耐えることができず、翌日の丑の刻(午前2時頃)に城から落ち延びていった。
『足利季世記』…信長は和田山城には押さえの兵を置き、和田山城の奥にある箕作城を攻めた。箕作城には吉田出雲守・同新助・建部源八・同采女正・柏修理亮が籠もっていたが、さんざんに攻められて城兵200余人が討ち死に、寄せ手も100人ばかりが討ち死にした。
『越州軍記』…9月8日、まず箕作山の采女城を攻撃した。攻め寄せる軍勢は合計8万、3日3晩にわたって、入れ替え入れ替え攻撃した。城兵が鉄砲をしきりに撃って来たため、攻撃する兵の使者は数え切れないほどであった。命を塵芥のように軽んじ、忠義を金石のように堅く守って攻める者たちは、塀に取り付いて乗り越えようとしたが、腕を打ち落とされた。負傷した者は200余りいたと後に報告があった。このように厳しく戦う中で、翌日早朝に、「将軍様は、降参すれば、望み通りに恩賞をやろう、と仰られている」と呼び掛けたところ、城内の者は降参した。箕作城が陥落した結果、日野城の蒲生掃部・後藤などが織田方に心変わりした、という噂が流れたので、六角承禎は大勢に囲まれては勝ち目がない、と考えて、9月12日の夜に伊賀・甲賀へと落ち延びていった。信長は「短い期間に大きな利益を得たのは、これはひとえに仏神の加護によるものである」と言って喜び、降参した者たちに恩賞の土地を与えた。古語に言うところの「重賞の下には勇夫あり」(手厚い褒美のもとでは、勇士が集まってくる。『三略』にある言葉)とはこのことである。
『信長記』…佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門尉・浅井新八が箕作城に攻め寄せた。城内の吉田某・建部源八などは、山下に軍勢を出して防ごうとしたものの、息も継がせぬ攻撃を受けて城内に退いた。この際に織田軍は200ばかりを討ち取った。4人の大将は、「この勢いをぬかすな。懸かれや者ども」と命令し、織田軍の兵士は少しも気を緩めず、堀際にたどり着き、旗指物などを投げ入れ、城内に突入しようとしたところ、敵はこらえきれないと思ったのか、笠を出して、攻めてきたのは誰か、と尋ねて来たので、「佐久間勢は佐久間久六・原田与助、木下勢は竹中半兵衛尉・蜂須賀彦右衛門尉・木村隼人正、丹羽勢は林志島などである」と答えた。すると城内の者は、「これまで持ちこたえてきたが、命を助けてくれるならば、降参しよう」と言ってきた。これに対し、佐久間信盛は進み出て、「城内の者の命を助け、城を受け取るべきだと思いますが、いかがでしょうか」と信長に伝えたところ、信長は「その通りにせよ」と答えた。こうして箕作城は落ち、織田軍は勝鬨をどっと挙げた。
『佐久間軍記』…箕作城を攻撃した。佐久間信盛が先陣であった。城主の建部・吉田は防戦したが、蜂須賀彦右衛門長政・佐久間盛次などが先頭に立ってこれを攻め落とした。この時、佐久間盛政が初陣し、父の盛次は武功を挙げた。
『松平記』…佐久間信盛から松平勘四郎(信一)に先陣を任せたい、と告げられ、「かしこまりました」と答えた。三河衆が先陣となって、建部源八が籠もる箕作城を攻めた。しかし城はなかなか落ちず、小城に時間をかけても無益だと思い、信長は勘四郎を箕作城の押さえに置き、京都に向かって進軍した。三河勢だけで急いで城を攻めたところ、建部はかなわないと見て城から落ち延びていった。この勢いを見て、六角承禎もかなわないと思い、観音寺城から落ち延びていったので、8月11日に近江は平定された。
『総見記』…12日の申の刻(午後4時頃)に箕作城に攻めかかった。箕作城には吉田出雲守・同新助・建部源八郎をはじめとする精鋭の兵が多く置かれており、城も堅固に作られていたので、織田軍の猛勢に対しても命を惜しまずに防戦した。箕作攻めの先陣を務めたのは佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉・浅井新八郎などであった。南側の尾崎(小脇か?)からは三河勢が攻め上り、早くも門の側まで迫っていたが、そこに城兵が門を開き、建部源八郎がまっしぐらに攻めかかってきたので、三河勢は山下に追い崩された。三河勢の侍大将、松平勘四郎は大剛の者で、槍を取ってただ一騎で引き返し、「者共、引き返して討ち死にせよ」と言って敵中に突撃した。これを見て、遠江の小笠原は、「討たしてはならない」と言って引き返し、これを見て他の者たちも我も我もと引き返し、討つ、討たれるの激しい戦いを繰り広げた末に、遂に門際まで押し戻した。建部源八郎は防戦をあきらめて城の中に入った。これを見た他の攻め手は勇み立ち、大声をあげて叫び、負けていられないと攻めたので、箕作城は200余人が討ち死にした。佐久間など織田方の4将は、勢いを抜かす(弱める)な、と言って息も継がせず、揉みに揉んで攻め立てたので、軍勢はみな堀際まで到達し、塀の中に旗指物を投げ入れてまさに城内に突入しようとした。城内の兵は笠を出して、攻め寄せる者たちは誰かと尋ねて来たので、「佐久間勢は佐久間源六・原田与助、木下勢は竹中半兵衛・蜂須賀彦右衛門・木村隼人、丹羽勢は林志島などである」と答えた。すると城内の者は、「ずいぶん持ちこたえてきたが、命を助けてくれるならば、降参しよう」と言ってきた。信長は佐久間の陣にいたが、佐久間がこのことを伝えると、信長はそのようにせよと許可を与えたので、箕作城から城兵を追い払い、勝鬨を挙げた。
『氏郷記』…箕作城攻めは佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井新八等が担当して、城を激しく攻め立てた。この箕作城は観音寺城にほど近いところにある城で、蒲生賢秀は当時観音寺城にいたが、賢秀は進み出て義賢に言った、「このままだと箕作城は落ちるでしょう、私に兵を与えてくだされれば、観音寺城の押さえを切り崩して、箕作城に援軍として入ってみせます」。これに対し、義賢は「私に任せておけ。和田山・箕作の両城には屈強の兵が大勢いる。簡単には落ちない」と言ってこの意見に従わなかった。賢秀は六角には先が無いと感じ、こうなったら自分の城に立てこもり、信長と最後の合戦をし、腹を切るまでだと考えて、手勢を連れて日野城に入った。
『武徳編年集成』…12日、六角方の和田山城に押さえを置き、吉田重高・新助・建部秀明が籠もる箕作城を包囲した。六角氏は精鋭の兵を選んで箕作城に置いていたので、信長の先鋒である佐久間・丹羽・木下等は攻め入ることが難しかった。その時、南の尾崎から三河勢が攻め登り、門の近くまで迫ったが、相手の斉射を受けて多くが死傷した。そこを建部秀明が攻撃して寄せ手を山下まで追い崩したが、松平信一が大きな声を挙げて崩れかかっている見方を鼓舞し、先頭に立って登り始めたので、三河の兵は信一を討たせてはならないと競って登った。たちまち城兵の矢・鉄砲を受けて20余人が討ち死にしたが、兵士たちはまったくひるまずに槍先をそろえて突撃し、敵兵17・8人を討ち取り、門の側まで迫り、ついに旗を塀の中に投げ入れた。「箕作の一番乗り松平勘四郎」という声は雷霆(激しい雷)のごとく響き渡った。信長の四将はこの声に励まされ、負けてはならんと城内に攻めこもうとしたところ、城内の兵が先頭の姓名を尋ねてきたので、「徳川隊は松平勘四郎、佐久間隊は佐久間安次・原田与助、丹羽隊は林・志島、木下隊は竹中重治・木村重茲」と答えると、城兵は「これまでよく防いだが、寄せ手が勇敢で抵抗する術を失った。城から出るので命は助けてほしい」と頼んできた。信長は佐久間の陣にて戦いの様子を見ていたが、城兵の言うことを聞き入れ、城を受け取り、城兵をすべて外に出させてから勝鬨を挙げさせた。…13日、信長は松平信一を招き、その戦功の抜群であることを褒め称え、「汝が肝に毛生たりと謂うべし」と言って、着ていた桐の紋付の皮の胴服(陣羽織)を授けると共に、三宅康貞など首級を挙げた者たちの功を賞した。信一は代々、家紋に葵を用いてきたが、徳川家康と同じであることをはばかって、これ以降は桐を家紋とした。
『徳川実紀』…松平信一は近江の箕作の城攻めに抜群の働きをして、敵味方の耳目を驚かせたので、信長も、「信一は小男ながら肝に毛の生えたる男かな」と賞賛し、着ていた道服(陣羽織)を脱いで、これを褒美として与えた。
箕作山は5つのピーク(峰)がある山で箕作山城はその中でも2番目に低い清水山(325m)にある城です(そのため別名清水山城という)。また、残りの4つのピークとはほぼ独立している場所にあります。
信ぴょう性の高い『足利入洛記』によれば、申の刻(午後4時頃)以前に、箕作山と並んでいる山である神明ヶ嶽(おそらく岩戸神明と呼ばれている岩戸山[290m]?)を昼の12時に攻撃して占領しているのですね。岩戸山の近くには箕作山[372m]・小脇山[373m]と、箕作山よりも高い山があるので、これを攻略すると、箕作城の内部の様子も見えたのではないでしょうか(゜-゜)
そして、申の刻(午後4時頃)に、いよいよ本題の箕作城攻撃に移ることになるのですが、
箕作城は堅固に作られているうえに精鋭の兵が籠もっていたため、織田軍はかなりの苦戦を強いられたようです(◎_◎;)
『総見記』によると申の刻(午後4時頃)から戌の刻(午後8時)まで4時間、『足利義昭入洛記』によると申の刻(午後4時頃)から丑の刻(午前2時頃)まで10時間かかっていますからね💦
『足利義昭入洛記』には「信長いかりをなして」とあるので、信長は相当いらだっていたようです(;^_^A
その中で活躍したのが、『総見記』『武徳編年集成』『徳川実紀』によれば、徳川家康からの援軍を率いていた松平信一であったといいます。
三河勢は一度、城将の建部源八に追い崩されたものの、松平信一は一人取って返して敵中に突撃、配下の者たちは信一を死なせてはならないと慌てて信一を追って敵に攻撃を仕掛けた結果、建部源八を再び城中に押し込めることに成功しました。
『武徳編年集成』には箕作城へ一番乗りを果たしたのは松平信一であった、と書かれていますが、『武徳編年集成』は徳川方の史書であり、また、徳川氏の公式の歴史書である『徳川実紀』にはその事実は採録されていないため、おそらく事実を盛ったものなのでしょう(;^_^A
しかし苦戦していた箕作攻めの流れを変える活躍だったのはおそらく間違いないようです。信ぴょう性のある『松平記』にも、戦後に信長が身につけていた脇差・陣羽織を与えたことが記されています(信ぴょう性はある書物ではあるが、今回の箕作城攻めの話は、日にちが明らかに間違っていたり、単独で箕作城を落とした、としていたり、なんだかハチャメチャである)。
松平信一に奮戦に負けじと織田軍の兵士が奮闘した結果、箕作城はようやく落城しますが、『越州軍記』には「将軍様が降参したら恩賞を与えると言っている」と伝えたところ、城兵は降参した、という他と違う記述が載せられています(◎_◎;)
こうして信長は苦戦しながらも箕作城を攻略することに成功したのですが、『信長公記』は、その頃のエピソードを次のように載せています。
「去る程に、去年、美濃国大国をめしおかれ侯間、定めて今度は美濃衆を手先へ夫兵に差し遣わさるべしと、みの衆存知の処に、一円御構いなく、御馬廻にて箕作攻めさせられ、美濃三人衆稲葉伊予・氏家卜全・安藤伊賀、案の外なる御行(てだて)哉と、奇特の思いをなす由なり」(去年、美濃を平定したので、今度の戦いでは美濃衆が先鋒に使われるだろう、と美濃衆が覚悟していたところ、信長はまったく気にすることなく、直轄軍の者たちだけで箕作城を攻撃したので、美濃三人衆の稲葉良通・氏家卜全・伊賀道足[安藤守就。永禄12年(1569年)に信長が書いた書状には、「伊賀」とある]は、意外なやり方をなされるものだと不思議に思ったという)
また、『信長記』には次のように書かれています。
…氏家卜全・稲葉伊予守・伊賀伊賀守の3人は、以前斎藤龍興の家臣で、最近信長に従ったので、城攻めの際は先陣を命じられるだろう、と思っていたのに、信長は直轄軍に攻めさせたので意外に思い、今度は先陣を申し出て、他より目立った活躍をしなければならない、と励むようになった。大将たるものは、親しいかどうか、出身の国が違うかどうかに関係なく、平等に情け深くすることが重要である。このような君主であれば、家臣たちは自分の命を顧みずに忠功を働くものである。近江国中の城が将棋倒しするようにはらはらと(次々と)落城することになったのは、信長の智謀によるもので、和田山城から攻めかかっていれば、多くの兵を失うことになり、このようになってはいなかっただろうが、信長は敵のはかりごとを事前に把握していたため、このようになったのである。謀略のなんと重要な事よ。
戦国時代は、新たに配下になった者たちは、次の戦いで忠誠心を試すために、先鋒で使われるという風習がありました。しかし、信長はその方法を取らなかったのですね(◎_◎;)
この理由について、『日本外史』は次のように説明しています。
「美濃の三将をして、和田山に備えしめ、而して観音寺に向かうと宣言して、因って兵を引いて箕作を襲う」
まず和田山を攻略し、それから観音寺城攻略に向かうと言い広めてから、箕作城を急襲した…というのですね。
つまり、美濃三人衆は六角氏の意識を箕作からそらさせるために使われたのですね💦六角氏も、美濃三人衆が和田山にいるとなると、そちらから攻めるのかと考えるでしょうしね(゜-゜)
この策略が当たり、信長は上手く箕作と観音寺を分断することに成功したのでしょう。
さて、箕作城を攻略した後の信長の動きを見てみましょう。
『信長公記』は、次のように記します。
「其の夜は、信長、みつくり山に御陣を居えさせられ、翌日、佐々木承禎が館(たち)観音寺山へ攻め上らるべき御存分の処に」
戦いが終わった時はすでに夜であったので、信長は箕作山に陣を構えて夜を過ごし、夜が明けてから六角氏の本拠である観音寺山を攻撃しようと考えていたのですね。
一方、六角氏の様子はどのようであったのでしょうか。
『足利季世記』には、箕作城が陥落した後、「観音寺に籠る勢も是を聞大半落ければ」と、観音寺城兵が勝ち目がないと見て大半が逃げ去ってしまった、と書かれており、観音寺場内が騒動になっていたことがうかがえます(◎_◎;)
この中で、六角承禎は『足利季世記』に「佐々木父子も打死すべしと有りける」とあるように、城を枕に討ち死にすることを考えますが、三雲成持・三郎左衛門兄弟の進言(『信長記』には、「観音寺城では防ぐのは難しい。ここは城を出て命を保ち、後に会稽の恥をすすぐのがよろしいでしょう。私の居城にお退きになってください」とあり、『総見記』には、「明日の合戦は多勢に無勢でとても戦うことができません。ここは城を出て、三好三人衆と示し合わせて城を取り戻すようにされるべきです」、とある)を受け入れて、夜が明けないうちに城から落ち延びることに決めます。
この時の様子について、『信長記』『総見記』には、
『信長記』…六角の者たちは慌てて城を出て、女子供は悲しみのあまり声を挙げて泣いた。昔、平家が都落ちした時もこのようであったのだろう、哀れである。
『総見記』…四方に分かれて、男女・僧俗関係なく城を出たが、年寄りと幼い者は泣きわめいて、向かう方向を見失い、取り乱して、逃げさまよう様は、目も当てられなかった
…と書かれています。
六角父子が落ち延びた先について、『足利季世記』『越州軍記』は伊賀(甲賀)、『佐久間軍記』は鯰江城、『信長記』『氏郷記』は三雲城、『総見記』『武徳編年集成』は石部城としています。
これについては、9月17日付の六角義治の書状が残っており、そこには、「織田のより郡内が物騒になったので、伊賀に移っている」と書かれているので、伊賀・甲賀方面に逃げ去ったのが正しいと考えられます。
まぁ、鯰江城・三雲城・石部城はいずれも、信長に味方せず六角氏に残った城であるので、これらの城を渡りながら伊賀・甲賀方面に移動したのかもしれませんね(;^_^A
こうして、六角氏は、佐々木源氏の六角氏頼(1326~1370年)が1354年に近江守護となって以来、1370~1377年に京極氏が近江守護を務めた一時期を除いて、長く近江守護を務めて、南近江を中心に威を振るってきたものの、今回の織田信長の攻撃により、約200年にわたった近江支配は終焉を迎えることとなったのです。
(※今回の話の解説の残り部分は都合により公開致しません<(_ _)>)
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