あまりにも有名な「楽市・楽座(楽市令)」。
ずっと疑問だったのは、「税を免除して支配者側には何のメリットがあるのだろう?」ということでした(゜-゜)
調べると、たくさん面白いことが分かったので紹介したいと思います😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇加納楽市令
永禄10年(1567年)10月、美濃(岐阜県南部)の加納に、ある制札が掲げられました。
「制札」とは、禁止する事や、新しく作られたきまりについて箇条書きで示した、小型の木の板のことです。
今回紹介するこの制札は現在に残っているためその大きさがわかっています。
タテ37.5㎝、ヨコ32.7㎝、厚さ0.7~1.0㎝(両端が薄い)です。
たしかに小型…(;^_^A イメージよりちっちゃい…。
内容については後で触れますが、
この制札は加納の「楽市場」に向けて出されたものでした。
翌年の永禄11年(1568年)9月、信長は再び制札を出していますが、
その中には、
「一、楽市楽座之上、諸商売すべき事」
という文言があります。
以上の2つは、信長の経済政策として、非常に有名な「楽市・楽座」に関する重要な制札になります(◎_◎;)
有名な「楽市・楽座」ですが、いったいどんな政策だったのでしょうか?
現代でも各地で「楽市・楽座」とつくイベントが行われているのですが、
・北海道の知床では「楽市・楽座」というイベントが開催されていますが、これはグルメ屋台の『楽市』と、音楽&パフォーマンスステージ『楽座』からなるイベントで、「楽しい」という意味で使われているみたいですね。
・埼玉県の狭山では「狭山楽市楽座」が奇数月の第4土曜日に定期的に開催されていて、 実行委員会のサイトには「ものづくりを通して誰もが自由に参加できる市場として、さまざまな楽しい空間を作る」とあり、「自由」「楽しい」という意味で使われているようです。
当時の「楽市・楽座」はどのような政策だったのか、山川出版社の「詳説 日本史B」を見ると、
「…楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、新しい都市政策を打ち出していった」
とあり、楽市令についての史料も紹介されていて、
これは天正5年(1577年)に安土に出されたものなのですが、
「一、当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく免許の事」
という文章の説明書きに、
「この城下町を楽市とすることにしたので、城下町は楽座(無座)で、住民の一切の税は免除となる」
と書かれています。
つまり「楽市・楽座」というのは、①特定の商品の売買を独占する団体である座を認めない=自由な営業活動を認める、②一切の税を免除する、という政策である、ということになりますね(゜-゜)
これまでの研究者たちは、「楽市・楽座」をどのように定義してきたのかについても見てみましょう。
最初に「楽市・楽座」について定義したのは、平泉澄(1895~1984年)で、戦前の1926年に、次のように説明しました。
…楽市は「①課税免除、②自由商売…の2つの性質を有する市」で、楽座は楽市において特権を認めない、ということを意味する。
この時点で山川出版社の説明とまったく一緒ですね(;^_^A
以下、他の研究者の定義を見てみましょう。
・小野晃嗣(1928年)…楽市は「完全なる課税免除の市場」
・奥野高広(1969年)…楽市は「市場税・商業税の免除と旧来の座商人の特権の廃止された市場」。
これらを見ると、平泉澄の意見と大差はないように思えます。
…ということは、平泉澄から100年たって、全く研究は進展していない、ということになるのでしょうか?
いやいやそんなことはなく、紹介していなかっただけで、様々な驚きの新説が出てきているのです(◎_◎;)
<1>「楽市」は一切の税を免除する政策か?
確認されている楽市令は、長澤伸樹氏によれば、28通確認されているそうですが、いくつかの楽市令の内容を抜粋して見てみることにします。
・富士大宮の楽市令(永禄9年[1566年]・今川氏真)
→富士大宮で月6回開かれる市では、一切の諸役徴収を停止し、楽市とする
・小山新市の楽市令(永禄13年[1570年]・徳川家康)
→楽市であるので、一切諸役は徴収しない
・金森の楽市令(元亀3年[1572年]・佐久間信盛)
→楽市楽座とすること、とあるが、諸役免除には触れていない。
しかし、2か月後、織田信長から再度出された物には、
楽市楽座である以上、諸役は免除する、とある
・安土の楽市令(天正5年[1577年]・織田信長)
→楽市である以上、諸座・諸役・諸公事等を一切免除する。普請役・伝馬役・臨時課役・家並役も免除する。
・世田谷新宿の楽市令(天正6年[1578年]・北条氏政)
→諸役は一切徴収しない
・淡河の楽市令(天正7年[1579年]・羽柴秀吉)
→楽市である以上、商売座役を徴収してはならない
・北野の楽市令(天正13年[1585年]・前田利長)
→楽市楽座とすること、と書かれているが、諸役免除には触れていない
・荻野の楽市令(天正13年[1585年]・北条氏直)
→楽市とする、とあるが、諸役免除には触れていない
・白子の楽市令(天正15年[1587年]・北条氏規)
→楽市とする、とあるが、諸役免除には触れていない
・黒野の楽市令(慶長15年[1610年]・加藤貞泰)
→楽市とする、地子と諸役については5年間免除とする
ポイントは何度も出てきている「諸役」とは何か?ということですね(゜-゜)
佐藤和彦・編『租税』によれば、税は年貢とそれ以外の諸役(雑税)に大別できると。
つまり諸役というのは年貢以外の税の総称ということになりますね。
『日葡辞書』では「すべての役目、または、任務」とありますが…(;^_^A
有光友学は、『今川氏不入権と「諸役免許」』などによれば、諸役には、
・棟別銭(持っている建物の数に応じてかけられる税。『日葡辞書』には「ムネベッ。一軒一軒の家に対してかけられる租税」とある)
・段銭(田畑の広さに応じてかけられる税。『日葡辞書』には「田圃について支払われていた一定の金」とある)
・伝馬役(荷物を運ぶ手伝い。『日葡辞書』には「主君などの命令によって、所から所へと無賃で提供する馬」とある)
・普請役(土木作業の手伝い)
・軍役(戦争に兵士として参加する)
・座役(特権を認められる代わりに、特産物や銭を納める税)
・市庭銭(市にかけられた税金)
・商売役(営業税)
・職人役(負担を免除される代わりに、職業に応じて奉仕をする。例えば後北条氏では、棟別銭と諸役を免除される代わりに、毎年槍2丁を納入するように命じた例がある)
・関役(席を通過する際にかけられる税)
・船役(津料。港に出入りする船にかけた税)
…などがあったようです。
つまり諸役免除、というのは、年貢以外の税を免除する、ということなわけですね。
しかしそう単純ではないようで(;^_^A アセアセ・・・
安土の楽市令では、諸役を免除すると言っておきながら、その後に普請役・伝馬役などを免除する、と言っていますよね。
ここから考えるに、普請役や伝馬役は、諸役に含まれていなかったのではないでしょうか??
普請役については、楽市令に、但し書きがついており、信長様が出陣していたり、京におられるなどして安土を留守にされているときは免除しない、とありますから、諸役免除に含まれていないのは確実です。
先述の『租税』によれば、後北条氏では、商売役は免除されることはあっても、町人に伝馬役は負担させていたようです(後北条氏で諸役免除に触れていない楽市令が多いのはこのためか??)から、伝馬役は重要視されていたことがわかります。そのため、諸役とは切り離されていたのではないでしょうか?(゜-゜)
池上裕子『戦国時代社会構造の研究』でも、「陣夫(※軍需品の輸送・道や橋の修理のために徴発された人夫)・大普請を不入や免除の対象からはずすのが北条氏の基本的な政策で、この2つの夫役の確保がきわめて重要な課題であったことを示している」…と書かれています。
つまり、「諸役免除」とはいっても、一切の税の免除を意味するのではなく、普請役・伝馬役の税負担は存在していたことになります。
また、先述した後北条氏の例からもわかるように、諸役は免除しても職人役は免除の対象になっていませんでした。
普請役・伝馬役・職人役などは、戦争に影響を与えるものであるので、諸役免除の対象とされていなかったのではないでしょうか…?(゜-゜)
また、商人に対する課税についても、いくつかの意見があります。
川戸貴史は『戦国大名の経済学』で、
織田信秀は熱田の加藤延隆(信秀の御用商人だったとも言われる)に対して、諸役免除などの商売上の特権を認めたが、「信秀は、このような特権付与に対する礼銭はもちろん、待権を与えた商人の商業活動にともなう種々の上納(賄賂)がその後ももたらされることを期待したのだろう。つまり、流通拠点や門前町などの都市を支配することによって、そこで活動する商人に特権を付与する権限を独占することとなり、特権付与の対価として得られる上納を重要な財源としていたのだ。」
…と記し、諸役は免除してもその後、上納(賄賂)が期待できた、としています。
また、天正2年(1574年)に信長は、越前(福井県北部)の唐人座・軽物座に対し、諸役免除されているとはいっても、役銭として、上品の絹を一疋(約12m)を納めること、違反するなら座から追放する、と言い渡していますが、このことについて、長澤伸樹は、『楽市楽座例の研究』で、「他の座にも同様の規定が設けられた可能性は否定できない」と述べています。
信長は他にも、永禄12年(1569年)に、美濃国の鉄座に対して、「鉄・鍬商売をする者は、諸役は免除するが、役銭はこれまで通り納めること」と通達しています。
諸役を免除されていても、商人に対して役銭が課されていたことがわかりますね(◎_◎;)
以上のように、諸役免除、といっても、決して全ての税が免除されたわけではない、ということがわかります。
また、諸役免除とはいえ、先に税は年貢と諸役に分かれる、と述べたように、年貢は免除されたわけではありませんでした(◎_◎;)
町人たちは田畑を持たないので、米などを納めるわけではありません。
町人たちが収める年貢は地子銭でした。
地子銭は家の間口(正面の幅)に応じてかけられる税でした(『日葡辞書』では「住んでいる屋敷とか或る田畑とかの借地料」とあります)。棟別銭と似ていますが、あっちは建物を持っている数でしたので、富裕者に対する税金だったと言えるでしょう。こっちは言うなら住民税のようなものですね。
安野眞幸は『楽市論』で、「諸役」とは住民税にあたり、「諸役免許」とは<住民税の免除>という意味で、通説の<「営業税」を免除されたのが楽市場>とは異なる、としていますが、これは誤りでしょう(;^_^A 住民税は別に免除されていません。
…ということで、まとめると、「諸役免除」は「一切の税を免除する」ことを意味するのではなく、地子(住民税)は支払い、普請役・伝馬役も負担し、職人は職人役の負担があり、商人にも役銭の負担が求められていましたから、「税の一部免除」というのが正しいでしょう。
さて、「楽市」は一切の税を免除する政策か?…に対する回答ですが、
そうではなくて、一部の免除を意味する…ということになる…のですが、
実はそれも正しくはなくて(;^_^A
諸役免除に触れていない「楽市」も存在するため、そもそも「楽市」=「諸役免除」というわけでもないのですね💦
淡河の楽市では「諸役免除」ではなくて「商売座役免除」ですし。
他にも、羽柴秀吉は三木町を「諸役免除」としたが、「楽市」には指定していない、という例も存在します。
ですから、「楽市」は一切の税を免除する政策か?…と問われれば、
「楽市である場合、一部の税が免除されることが多いが、楽市であっても税を免除しない場合もある」
…つまり、
「楽市だからといって必ずしも税が免除されるわけではない」
「税の免除は、楽市であるための必要条件ではない」
と答えるのが正解となるでしょう(゜-゜)
では「楽市」とはどんな場なのか?というと、
近江(滋賀県)の石寺新市の事例からそれを理解することができます。
<2>「楽市」とはどのような場所か?~六角氏・石寺新市の楽市
岐阜県にある円徳寺は、永禄10年(1567年)、その寺内町で織田信長が楽市場を開いたとして、「楽市場発祥の地」と書かれた看板がありますが(近くの御園町、という説もあるのでこちらにも同様の看板が出ている)、
その約20年前には楽市が別の場所に存在していたことが明らかになっています(;^_^A
それはどこかというと、滋賀県近江八幡市の安土町石寺というところです。
なぜそれがわかるのかというと、次の文書が残っているからです。
「紙商売のこと。石寺新市の儀は、楽市たる条、是非に及ぶべからず。濃州・当所中の儀、座人の外商売せしむるにおいては、見相に荷物を押さえ置き、注進いたすべし。天文18年12月11日 枝村惣中」
この意味は、次のようになります。
…美濃紙商売のこと。石寺に新しく作られた市は、楽市なのでどうしようもないが、それ以外の場所で、美濃・近江において、紙座(枝村商人)以外の者が美濃紙の売買をしていたら、その荷物を差し押さえ、報告するようにしなさい。
近江(滋賀県)の枝村(現在の滋賀県豊郷町下枝)には、近江・美濃において美濃紙の専売を認められた座がありました(代わりに座役として、本所の宝慈院に毎月美濃紙を納める)。『世界大百科事典』には、枝村商人は「美濃大矢田の市場と京都の間の紙荷運搬を独占していた。諸国から京都へ搬入される紙荷には入公事が課せられたが,枝村商人はこの免除権を所持していた」とあります。
しかし得珍保(とくちんのほ。比叡山延暦寺の僧、得珍が開発したとされる)の保内商人が比叡山延暦寺や六角氏の保護のもとに急速に台頭、美濃紙も扱うようになったので、怒った枝村商人はこれを六角氏に訴えたのですね。
これに対して六角氏は、枝村商人に対し、「楽市」である石寺以外での美濃紙の専売を認めたのですが、
ここからは、「楽市」がどんな場所であったかがわかります。
「楽市」では座の特権である専売が認められない…つまりだれでも自由に商売ができる場所、ということですね。
石寺の楽市は「新市」と書かれているように、新しく作られた楽市でした。
おそらく六角氏によって設けられた楽市だと考えられるのですが、これは、保護している保内商人が美濃紙を売買できる場所を作り、その代わりに保内商人から献金を受け取れるようにしたものではないでしょうか(゜-゜)
つまり「楽市」は御用商人の保護政策でもあったわけです。
しかし、ここで1つ疑問が浮かびます。
「楽市」が「座の特権を認めない自由な市場」という意味であるとしたら、
じゃあ「楽座」って何なんだいと。
「楽座」が「座を廃止する」という意味なら、「楽市」と「楽座」は意味が被るんじゃあないかいと(◎_◎;)
でもこういう意見もあるでしょう。
「楽市」は特定の地域で座の特権を認めないことで、「楽座」はそこから一歩進んで座自体を無くそうとする政策だ、かぶってなんかいない、と。
この説を唱えたのが豊田武(1910~1980年)で、戦国大名による一時的な商業特権の打破・否定策が「楽市」であり、楽市がより広く恒常的に特権商業・商人座を完全撤廃・解体するのが「楽座」…と述べ、「楽座」は「楽市」の進んだもの、としています。
しかしどうやらこの説は正しくないようなのですね(◎_◎;)
どういうことなのか。見ていきましょう。
<3>「楽座」は座を廃止することなのか?
先に述べたように織田信長は加納に「楽市楽座」と記した制札を出しています。
「楽座」が「楽市」の進んだものだとしたならば、「楽座」とだけ言えば良いわけです。
さらに言うと、脇田修(歴史学者。1931~2018年)が「信長の楽市楽座令は不徹底なもので、座を温存させるものであった」と言っているように、織田信長は「楽座」と言いながら、座を温存する立場を取っているのですね(◎_◎;)
例を挙げてみましょう。
・永禄7年(1564年)…美濃の合物・鳥座などから、10貫文(現在の80万円ほど)ずつ座役銭を徴収
・永禄12年(1569年)…山城(京都府南部)の薪座を安堵・美濃の鉄座の諸役を免除、役銭は今まで通り納入させる
・元亀2年(1571年)…近江の炭座を安堵
・天正元年(1573年)…越前の軽物座を安堵・近江朽木での材木の購入を朽木の材木座だけに認める
・天正3年(1575年)…越前において、鍛冶座の許可がない道具の販売を禁止
・天正4年(1576年)…近江において、建部油座の専売権を認める・山城において、三条釜座を安堵
・天正7年(1579年)…和泉(大阪府南部)において、堺南北馬座を安堵
・天正9年(1581年)…美濃の鉄座を安堵
座を積極的に廃止する方針は見られず、逆に、座を残し、座の特権を認めている(安堵)ことがわかりますね(◎_◎;)
一方、豊臣秀吉の場合は、天正13年(1585年)途中までは信長と同じように座の特権を安堵する文書を出しているのですが、天正13年(1585年)途中からは安堵の文書が見られなくなり、代わりに、
・天正13年(1585年)…山城の洛中洛外において、「座を破らる」
・天正15年(1587年)…大和(奈良県)の郡山において「座破れ」と通達
・天正16年(1588年)…山城の嵯峨清凉寺内・浄福寺内の諸座を「御棄破」
…というように、座を廃止する政策を進めていくことになります。
このような政策について、『角川新版日本史辞典』は、「近年はこれを破座と表現し、楽市令の楽座と区別している」と述べています。
以上から、「楽座」は座を廃止する政策ではない、という事がわかります。
では、「楽座」とはどのような政策であったのか?
『楽市楽座令の研究』『楽市楽座はあったのか』を著した長澤伸樹は、「楽市」は記さず、「楽座」のことだけを述べている文書が1つだけあり、そこから、「楽座」の内容がわかる、と述べています。
その文書とは、
「諸商売楽座に申し出るといえども、軽物座唐人座においては、御朱印ならびに去年勝家一行の旨に任せ進退すべし…」
という内容の、天正4年(1576年)9月11日に、柴田勝家が越前の橘屋三郎左衛門尉に対して出した物です。
その意味は、…諸商売を「楽座」にする、と知らせたが、軽物座・唐人座は、御朱印(信長)と、去年に柴田勝家が通達した通りに行動しなさい…というものですが、これだけ見るとなんのこっちゃ、になります(;^_^A
わからないのは織田信長と柴田勝家の通達がどのようなものであったのか、ということですね。
織田信長の通達というのは、先に述べましたが、
越前の唐人座・軽物座に対し、諸役免除されているとはいっても、役銭として、上品の絹を1疋(約12m)を納めること、違反するなら座から追放する。越前の外から軽物座・唐人座の商品を買いに来た者は、10疋を納めること。
…という内容の物で、
柴田勝家の通達というのは、天正3年に、唐人座・軽物座に対して出されたもので、
…役銭徴収に抵抗する者がいるが、これは処罰する。先に出された御朱印の内容通りに行動するようにしなさい。
…という内容の物です。
つまり、先ほどの「楽座」の文書は、
…諸商売を「楽座」にする、と知らせたが、軽物座・唐人座は、御朱印(信長)と、去年に柴田勝家が通達した通りに、役銭を納めるようにしなさい。
…という意味だと分かりますが、こうすると、「楽座」の意味を2通りに理解することができます。
①諸商売において座を廃止すると言ったが、軽物座・唐人座は存続を認めてやるのだから、きちんと役銭を納めるように。
②諸商売の座は役銭は納めなくてもよい、と言ったが、軽物座・唐人座はその対象外で、役銭を納めるように。
前者が通説にあたるのですが、これはいろいろと無理があります(◎_◎;)
・信長は座を温存する方針を取っている。
・他の座は廃止されて、軽物座・唐人座だけが座の存続を認めてもらっているのに、役銭徴収に抵抗するのはつじつまがあわない。
それよりも、②のほうが、他は許されているのになぜウチだけ…!と怒り、抵抗する…という流れがスムーズに理解できます(゜-゜)
「楽座」の「楽」は、1603年に書かれた『日葡辞書』にその意味は「楽しみ。快楽。あるいは、歓楽」だとあり、「楽遊び」の項目には、「自由気ままな遊び」と記されています。
「楽座」の「楽」とは、おそらく「自由」…制約を受けない、という意味でしょう。
「楽市」は「(座による)制約を受けない市」という意味なのですから、
「楽座」は「(役銭などによる)制約を受けない座」という意味でなければならないはずです。
(自由は「フリー」ですが、アルコールフリーのフリーは「アルコールを無くす」という意味ではなく、「アルコールが含まれていない」という意味です)
(フィギュアスケートにはショートとフリーがありますが、ショートはジャンプの種類や回転数にかなり制限が加えられているのですが、フリーはそれに比べて制限がかなりゆるく、だいぶ自由にジャンプをすることができます。フィギュアスケートのフリーも「制約を受けない」という意味になります)
一方、豊臣秀吉の行った「破座」については、『日葡辞書』に、
「棄破」…もはや不要になった紙とか証書とかを破り捨てること。
「破る」…破り裂く。また、打ち滅ぼす。
「破れ」…敗れ裂けること。または、破滅すること。
…とあり、「無くす」「消滅させる」という意味があります。
以上から、「楽座」とは、「座に対し役銭を免除(もしくは減免)する事」になるでしょう。
長澤伸樹は、
「楽市」が含まれる文書は21通あるのに、「楽座」が含まれる文書は8通しかない。「楽座」がより限られた回数・場面しか現れないのは、特権保障の見返りとして要求する役銭の利益が相当な物であり、役銭を減免するのは容易に認め難いものであったためであろう。
…と述べています。
「楽座」というのはかなりのレアケースだったわけですね(;^_^A
ですから、近年では「楽市・楽座」と言わずに、単に「楽市令」と言う場合が多いそうです。
<4>「楽市楽座」のメリットとは?
楽市・楽座のメリットについて、織田信長が永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)に美濃で出した「楽市令」をもとに考えてみましょう。
①永禄10年(1567年)10月 加納楽市令
「定 楽市場
一、当市場に越居(おっきょ)の者、分国の往還に煩い有るべからず。並びに借銭・借米・地子・諸役を免許せしめ訖(おわんぬ)。譜代相伝の者たりといえども、違乱有るべからざるの事。
一、押買・狼藉・喧嘩・口論すべからざるの事。
一、理不尽の使を入るるべからず。宿を取り、非分を申し懸くべからざるの事。
右の条々、違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って下知件の如し。」
(一、加納の楽市場に移り住む者には、関を通る際の通行料をとらない。また、以前住んでいた土地で旧領主から借りていたお金・米は返さなくてよい。住民税やその他の税も免除する。旧領主はこれを妨害してはならない。
一、この楽市では、商品を強引に安く買う事・乱暴・喧嘩・口論を禁止する。
一、不当な要求をする者は楽市に立ち入ってはならない。)
②永禄11年(1568年)9月 加納楽市令
「定め 加納
一、当市場に越居(おっきょ)の輩、分国往還の煩い有るべからず。
並びに借銭・借米・下がり銭・敷地年貢、門なみ諸役免許せしめ訖(おわんぬ)。
譜代相伝の者たりというとも、違乱すべからざる事。
一、楽市・楽座の上、諸商買すべき事。
一、押買・狼藉・喧嘩・口論、使い入るべからず。並びに宿をとり、非分を申しかくべからざる事。
右の条々、違背のやからに於いては、成敗を加うるべきものなり。」
(一、加納の楽市場に移り住む者には、関を通る際の通行料をとらない。また、以前住んでいた土地で旧領主から借りていたお金・米は返さなくてよい。住民税やその他の税も免除する。旧領主はこれを妨害してはならない。
一、この市場では座による専売を認めない。座は役銭を納めなくてもよい(もしくは減免)。
一、この楽市では、商品を強引に安く買う事・乱暴・喧嘩・口論を禁止する。不当な要求をする者は楽市に立ち入ってはならない。)
この2つの内容はほとんど変わりませんね(;^_^A
「楽座」が加わっていることくらいでしょうか?(゜-゜)
簡単にまとめると、加納の楽市は、
①通行の自由 ②過去の借金の帳消し ③税の免除(不輸の権) ④不法行為の禁止 ⑤不入権(領主の使者の立ち入りを拒否できる権利)
…となり、不輸・不入の権が認められた自由市場、ということになるでしょう。
(勝俣鎮夫[歴史学者。1934年~]は、「楽市場」の機能は、①大名権力の介入を許さない不入権、②暴力行為の禁止、③住人の通行税の免除、④完全な免税、⑤座の存在を認めない楽座、⑥領主の年貢滞納・他人の債務を負う者も、関係が消滅し.追及されない場、⑦奴隷も住人になれば解放される、…の7つがある、と言っている)
しかし、この楽市令を見るとある疑問がわきます(◎_◎;)
…税を免除して、信長には何のうまみ(メリット)があるんだ…!?と(;'∀')
1つ目ならまだ座役銭はとってますからまだわかりますけど、2つ目になると楽座までしてますし、
しかもこの楽市令は他の楽市令と違って地子…住民税も免除してますからね💦
この楽市令の目的は人(主に商人・職人)を集めることでしょう。
小野晃嗣は稲葉山合戦で焼失荒廃した岐阜城下の再興が目的と言っています。
基本、信長は城下町を焼き払って城を裸城にする戦法を取りますからね(;^_^A
税がかからない、借金帳消し、自由に商売ができる!…ということでたくさん人は集まってきたことでしょう。
本当であれば、人口が増えれば住民税収入は増えますし、人が増えれば物もよく売れるので、営業税収入も伸びるはずです。
しかし、この楽市では住民税も営業税も期待できないのです(◎_◎;)
信長はいったい何がしたかったのか!?ということなんですが、
川戸貴史は『戦国大名の経済学』に、「この疑問へのさしあたっての解答は、諸役免除による商業振興によって、結果的に大名領国の全体的な経済発展に寄与するというものである。それが最終的には年貢増収などの形で大名へと還元されるだろうし、また、富裕となった商人たちから各種献金を徴することも期待されていたということになろうか」と記しています。
楽市において商業が盛んになることが、なぜ大名領全体での経済発展につながるのでしょうか??(◎_◎;)
その理由については書いてくださっていないのですが、考えてみるに、
楽市では自由に物が売れるし、課税されない。→近郊の農民が米や特産物を楽市に売りに来たり、座の商人が楽市で売るために遠方の市場で米や特産物を買いつけることが増えたり、国外の商人が売りに来ることが増えたりするようになり、商品の流通がよくなる→座による独占販売が無く、価格が自由競争で決まるため、価格が安くなり、より商品が売れる→物がよく売れるようになれば、農民たちも米や商品作物の栽培に精を出し、生産量が増加する。→生産量が増えるため、年貢の増加が期待できる…ということなんでしょうか💦
また、楽市の商人たちが、楽市から離れた市場で米や特産物を買い付けることが増えれば、その市場は楽市ではなく、税がかかるので、営業税の増収も見込めるでしょう。
それに、楽市外の商人や、国外の商人は自由通行権がないので、関所を通る際に通行料を支払いますが、楽市に向かう商人が増えれば通行料の増収も期待できます。
収入以外の面でもいいことはあります。
物資が各地から集まるので、戦争に必要な物資を効率よく、大量に手に入れることができるようになります。
つまり楽市は物流の拠点…卸売市場を作ろうとした政策だったともいえるでしょう。
信長は加納で楽市を実行することによって、岐阜の城下町を復興させ、上洛戦に必要な物資が集まる拠点にすることを短期間で実現することができたわけですね。
上洛の準備は、着々と進んでいました…!🔥
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