突然ですが、室町時代の美濃(岐阜県南部)って、カオスすぎると思います😅
斎藤道三がらみで土岐氏を調べてたら強くそれを感じました(;^_^A アセアセ・・・
マジデヤバイマジデヤバイ…😫
では、その始まりをいちおう、土岐康行の乱に設定して、
「カオスすぎる室町時代の美濃」第1回のマンガにいってみようと思います😓
※マンガの後に補足・解説の文章を載せました💦
○土岐氏とは
土岐氏は源頼光の子孫で、源氏の出身という立派すぎる家柄の一族です!
源頼光(948年~1021年)といえば酒呑童子や土蜘蛛退治、
家来の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時[あの金太郎!]・碓井貞光・卜部季武)で
めちゃくちゃ有名ですよね🌟
しかも頼光は源氏の長男で、当時の源氏の本拠地だった摂津(兵庫・大阪)を
父から受け継いでいる、源氏のメイン中のメインなんです!!
しかし、その後活躍したのは、三男の頼信(968~1048年)の家系でした💦
頼信は名前だけで朝廷が手を焼いていた平忠常を降伏させた男、
その子の頼義(988~1075年)は前九年の役を治めた男、
その子の義家(1039~1106年)は説明不要の八幡太郎。
その子(義親)の子(為義)の子(義朝)の子が、あの源頼朝です!
…どうしてこんなに差がついたのか…(;^_^A アセアセ・・・
源頼光の子の頼国(?~1058?)は武士的な活躍はほとんどなく、
戦争で華々しく活躍する頼信の一族に比べ影が薄くなっていきます。
その子の国房は美濃の土地をめぐって源義家と合戦するなど、荒々しさを取り戻します。
その子の源光国(1063~1148年)はかなりのヤンキー(不良)で、
検非違使(京都の警察)となったとき京都で火事が発生し、
そこで家来が強盗を行いました😱
のちに東北の出羽(秋田・山形)を担当する出羽守となり、
出羽に行きますが、藤原氏の荘園に乱暴を働いた上に勝手に美濃に帰るというトンデモ事件を起こしています(◎_◎;)
さらに美濃に帰った後も東大寺の美濃にある荘園を荒らしまくっていました。
なんという不良。なんというヤンキー。なんという暴力団。
…というか武士って、基本不良でヤンキーで暴力団でヤクザなんですよねぇ。。😓
その子の光信(1093?~1145年)もなかなかで源為義と合戦を起こしたり、
死んだはずの源義親を名乗る男が光信の家の前で別の義親を名乗る男と合戦をするというカオスが発生し、
ブチギレた光信は関白の藤原忠実の屋敷に逃げこんだ義親を名乗る男を追って
藤原忠実の屋敷に突入、義親を名乗る男とその家来十数人を殺害します。
やりすぎた光信はあわれ?土佐(高知)へ流罪となりました。
その後京都に戻れたものの、暴れん坊の父より先に亡くなります。
その子の光長(?~1184年)は兄弟の中で美濃の土岐郡(地図中の赤い部分。多治見市の一部・土岐市・瑞浪市の大部分)を受け継ぎ、
光長は以仁王の乱の際は平家に従って以仁王の逮捕に向かいますが、
その後美濃で平家に対する反乱を起こし、敗北して城を失います。
それから木曽義仲がやってくると味方して平家を破り京都に入って伯耆守になりますが、
やがて義仲を裏切り後白河天皇側についたので、
怒った義仲に攻められて殺されてしまいます😰
その後、土岐氏は光衡(1159~1206年)、光行(?~1249年)、光定(?~1281年)、頼貞(1271~1339年)と受け継がれていきます。
頼貞の時、後醍醐天皇が幕府を倒すための動きを見せ、
これに頼貞の十男の頼兼を含む土岐氏が多く加わりますが、
土岐一族の頼員が計画をもらしてしまっため、
六波羅探題の攻撃を受けて頼兼や土岐一族の多治見国長など多くが戦死するということになりました。
「太平記」ではこの時、頼貞も戦死したことになっているのですが、
実際は死んでおらず、その後も足利尊氏に味方して活躍し、
美濃守護に任命されています。
頼貞の後はバサラ大名として有名な土岐頼遠が跡を継ぐのですが、
頼遠はあの有名なDQNな行動をとり、処刑されてしまいます。
その後は頼貞の孫の頼康(1318~1388年)が美濃守護となります。
頼康は対立する土岐氏一族や斎藤氏などの豪族をおさえて美濃を一つにまとめ、
まとまった軍隊で各地で活躍し続け、
1351年に美濃に加えて尾張の守護に任命されます。
1360年にはさらに伊勢守護にも任命され、土岐氏の最盛期を築き上げます。
1379年には対立していた管領の細川頼之を、斯波義将・佐々木高秀たちと協力して追放することにも成功するなど、
土岐氏の力はかなりのものになっていました。
これが足利義満に警戒されることにつながるんですね😓
そして1388年の頼康の死が、土岐康行の乱へとつながり、
土岐氏の弱体化、
そして長く、互いに争いあう美濃のカオス状態を生み出していくことになるのです…😱
0 件のコメント:
コメントを投稿