以前のマンガで、清須織田家からの攻撃を見事跳ね返した織田信長。
しかし、戦いの後は清須城の近くの田んぼの稲を刈り取ることぐらいしかできませんでした。
尾張の守護、斯波義統がいることもあり、厳しく攻撃を仕掛けることがはばかられたのでしょう💦
そんな時に、ある「面白き巧み」(面白い策略)を使った男がいました😄
※マンガの後に解説を載せました。
〇梁田弥次右衛門の策略
『信長公記』によれば、梁田弥次右衛門は尾張の守護、斯波義統の身分の低い家来であったといいます。
しかし、弥次右衛門は「面白き巧にて知行過分に取り、大名になられ候」…面白い策略を使って分不相応に領地を得て大名になる事に成功します。
どのような策略を使ったのでしょうか(゜-゜)
弥次右衛門はまず、16・7歳の若年ながら300人の兵を預かっていた那古野弥五郎(小豆坂の戦いで戦死した那古野弥五郎と同じ名前の子ども?)という人物に接近し、
巧みに男色関係になります(当時はありふれた関係で、逆に男らしいと言われました)。
そして「清州を引きわり、上総介殿の御身方候て御知行御取候へ」(清須織田家を分裂させ、織田信長殿の味方を増やすことで、信長殿から恩賞として土地を得ましょう)と繰り返しささやいて、
那古野弥五郎を織田信長方に寝返らせることに成功します。
(※この那古野弥五郎は後にもう一度だけ登場します)
その後、二人は共謀して清須城の家老たちも味方に引き込むことに成功します。
そして弥次右衛門は信長のところに向かい、
状況を報告するとともに、忠誠を誓うことを宣言します。
それを聞いた織田信長は「御満足斜めならず」…大変満足して、清須城を攻撃します。
(『清須合戦記』には、簗田と那古野が先頭に立って、信長の兵700余りと共に清須城を攻めた、と書かれている)
内通者がいるにもかかわらず、清須城はなおも「城中堅固」であり、清須城を攻め落とすことはできなかったものの(守護の斯波義統がいるため激しい攻撃ははばかられた)、
清須城の周囲を焼き払ってはだか城にすることに成功します。
前回は田畑を刈り取られただけでしたが、今回は周囲に火をつけられた清須城。
もう落城寸前です💦
さらにその後、清須城内では「武衛様も城中に御座候間、透を御覧じ、乗取らるべき御巧みの由」(守護殿がスキを見て清須城を乗っ取られるおつもりらしいぞ)といううわさが流れて、
清須織田家の坂井大膳たちは、「清州の城外輪より城中を大事と用心」(外のことより城の中のことが大事だ)と言って、
互いに疑心暗鬼になっていきます。
さて、清須城を落とすことはできなかったものの、
城攻めを一歩前進させた梁田弥次右衛門は身分不相応の領地を得て大名になることができました。
その後、『信長公記』では、永禄12年(1569年)の伊勢攻略戦に参加していることが確認できます。
同じ名字の梁田政綱(桶狭間の戦いで活躍したとされる)も『信長公記』には出てきますが、
おそらく同じ一族だったと考えられています。
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