社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 3月 2026

2026年3月27日金曜日

小泉八雲と西田千太郎

 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


1890年

・昨夜籠手田知事(※籠手田安定。1885年から島根県知事を務めていた)の使者が、珍しい形の箱に入れて籠手田令嬢(※淑子。1872年生まれ。節子の4歳年下にあたる)からの贈り物(ウグイス)を拙宅に持参しました。

小泉八雲はウグイスについて「「法華経」と唄う功徳により…(さまざまな)善い性質を与えられているはずで」ある、その中でも言語についての善い性質が与えられていると信じたい、その声が「絶美」だから、と言っています。

・1月21日…貴君の訪問、多謝々々。たとい短い訪問でも、私にとってはいつも良薬です。

八雲はこの頃体調を崩していました。

・1月23日…私の親愛なる西田様ーー貴君の親切は実に至れり尽くせりです!

早くも八雲の信頼を勝ち得ている西田千太郎。

・御子供様のために少しばかり餅を差し上げます。

・今日三年級へ始めて書取の課業をやってみました。私はただ詩を書き取らせるのです。ロングフェロー訳の『母の幽霊』と題するノルウェーの美しい小さな物語の詩をやり出したのです。生徒はこれを好いたように見受けられました。…生徒はいつも極めて善良ですーー尤も下級で書取の際、生徒悉くに書かせるという点に、幾分困難を感ずるのですが、しかし私共は日を追って親密になって行きます。もし私が現在、授業をすることが出来なかったら、私は非常に悲観することでしょう。授業は私に取って、ますます愉快と慰藉(※なぐさめ)になりつつあるのです。

その後、八雲は八橋(やばせ。鳥取県琴浦町)に旅に出ます。この旅には結婚したばかりの妻のセツも同行していました。新婚旅行的な旅であったようです😄八橋について、八雲は「水泳には最上の場所です」と西田への手紙に書いています。「鳥取中部癒しの旅紀行」のサイトには、八橋海岸について、「小泉八雲も感嘆した白い砂浜、エメラルドグリーンの海は絶景。以前は海水浴シーズンには大勢の家族連れや若者で賑わっていましたが、現在は海水浴場は開設されていません。冬には、上空に数百羽のウミネコが優雅に飛んでいる姿を見ることができます。小泉八雲が海水浴をした場所であることは有名ですが、当時(明治24年)日本人は海水浴をする習慣がなかったため、見物客がたくさんいたといわれています」とあります。

・1891年8月 八橋にて 私は諸所の眠そうな小さい海村で、楽しい時日を過ごしています――寝て、食べて、酒を飲んで、遊泳をして。ここで逗留した場所のうちでは、八橋は殆ど一番愉快な所です。…盆踊りを見るため、徒歩で行った大塚(逢束[おおつか]。八橋駅から約3㎞離れていて、徒歩で40分ほど)では、特殊な冒険に出逢いました。大塚は乱暴な土地らしいのです。人民は退しく騒々しい田合漢で、酒に酔うと、悪戯を演じ勝ちです。彼等は外国人を見るために踊りを中止し、外国人は群集の圧迫を脱して、或る家に避難しました。そこで床に座って喫煙していると、群集は家の内外へやってきて、珍らしい文句を言って、外国人に砂を投げ、水をかけたのです。そこで、外国人と伴われ立って来た八橋の人達は、蹶然猛烈に反抗しました。して、私共は一同八橋へ引上げました。八橋では、巡査と数名の有力者達は、大塚の人民の無礼な振舞いに対して、私に大いに詫びを入れました。実際私はかくまで世話を続いてもらって、恥じ入るばかりでした。して私は大いに歓待を受け、巡査は私に何でも相談或は助力を要することがあれば、唯だ言ってよこせばよいと告げました(大塚の人民の乱暴は、実際極めて子供らしいことで、騒ぎ立てるほどでもなかったのです――西洋の群集ならば、石や腐れ卵を投じたのでしょう。私は群集が果たして実際些少なりとも敵意を含んでいたか、どうか、判然知りません。彼等は外国人の動くのを見たかったのだと、私は寧ろ考えます。――檻中の獣のように――だから、彼等は彼を起ち上がらせやうと試みたのです)。明日私は美保の関を経て松江へ帰ります――実際八橋を去るのは惜しい心持ちがします。村民は何とも云えないほど親切で、正直で、率直です。また私は数名の知人を得ました。――ここの日蓮宗の寺院では、美しい御符を手に入れました。

・私は鶯を貴君に贈呈しようと思います。この鶯は毛替わりをしたので、その新しい着物は綺麗です。彼はまだ病気に罹ったこともなく、あまり御面倒をかけることはありますまい。もしお困りの場合は、彼を愛し、彼をよく世話してくれる人にお遣わし下さい。もう暫くすると、また唄いだすでしょう。杵築に関する私の最初の論文は、大部分数箇月の中に印刷されるでしょう。貴君の名も、…その中に現われているから、貴君は御覧になることを愉快に感じなさるでしょう。必らず一冊をお送り致します。私の小さな洋燈(ランプ)をも差し上げます。それは大した価値のものではありませんが、燈光がよく輝らします。また、記念にもなるでしょう。…私は鶯が貴君のお気に入ることと信ぜざるを得ません。その恵与者なる彼女は、貴君も私も共に尊敬し、愛好していた人です――それは知事の親切な家族の楽しき記念となるでしょう。

籠手田知事の娘からもらったウグイスを「ばけばけ」では籠から外に逃がしていましたが、実際は西田に贈っていたことがわかります。

1891年11月、八雲は熊本の第五高等中学校に転任し、西田と離れることになりますが、かなりの量の手紙をやりとりすることになります。

・今日芳書を欣然拝見しました。丁度昨日ここへ到着した私の料理人が、松江は頗る寒かったと申したので、私は心配し始めていました。烈しい気候が貴君に寒冒を惹き起こしはしないかと、恐れたのです。貴君が御用心なされているのを私は大いに欣びます…。今では稍や熊本にも馴れた気分になりましたが、日本で私が行ったことのある中では、最も殺風景な都市です。郊外の飽田郡にある加藤清正の有名な神社と佛閣(加藤社と本妙寺)は、訪ねる価値があります。市には兵士が一杯います。品物は高価且つ拙悪。よいのは絹布だけ。全くここは綺麗な絹の場所で、値段も松江よりは安いのです。しかし漆器、陶器、或は青銅器の方面には、立派なものはなく、掛物も、骨董店もないのです。ここの天候は奇異で――桑港(サンフランシスコ)の北数百里に当たる太平洋斜地の天候に似た感があります。夜間と朝は寒冷で、満地暁霜(地面いっぱいに、霜が降りている)に白く、山々に靄(もや)がかかっていますが、真昼頃になると、暖かくなって、午後には暑い位。それから、日没後また寒くなります。(校長の)嘉納(治五郎。柔道の父、日本の体育の父。)氏は、譲遜にも、(嘉納)氏よりも外に、もっと英語を話すことのうまい数員が居ると私に云いましたが、実際は居ないのです(※治五郎は12歳の時から英語を学び始め、14歳の時には官立外国語学校[後の東京外国語大学]に入学している)。私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です。しかし、京都から来た佐久間(信恭)氏というのは、文学的英語について稀に見る知識を有し、博識で、蔵書家で、古代英語と中世英語の専攻者で、英文学及び文典などを教えています。大澤氏[と私は思う]が第二席の英語教師です。私一個人としては、(大澤)氏が最も好きです。氏は貴君と同じく、他人に対する行届いた思いやりの念を有っています。それは何処でも、なかなか容易に得難い性質です。氏は佛語を話します。若くて、沈黙の教頭櫻井氏も佛語を話します。丁度すべての教師が、英語を話します――巨髯を蓄え、ソクラティースの如き頭を有する、愉快な漢学の老教師(秋月胤永)の外は。丁度片山(尚綗)氏を一見して好きになったように、私はすぐにこの漢学者が好きになったのです。漢学には人を温雅ならしめる力が存するのか知らんと思う。多分斯学講究に際して、始終必要な忍耐と、これに伴なえる美的情操が、かように人品を変えるのでしょう。しかし私は教員達について、多くのことは知りませぬ。私はお早うとか、今晩はとかいって、私の席隅に坐って、煙草を吸っているのです。今日までの所、彼等は皆温和で、丁寧に見受けられます。私は彼等と楽しく暮らして行けると思うのです。しかしその中の誰れに対しても、私が貴君と親しくなったようになることはあるまいと思います。実際ここには貴君のような人は一人もなくーー十分間の休憩に雑談もなくーー珍聞の報告もなくーー計画や発見事件もないのです。私は貴君の恵賜品なる、蟬と蜻蜒(やんま)の書かれた、美しい小さな茶盆を眺めーーして、玄関に貴君の声が聞こえたらばと、願うことが毎度あります⋯。

・私は余程丈夫になって、昨夏に比すれば、約二十斤(12㎏)も体重が殖えたのです。どういう理由によるか、はっきり分からないが、多分一日二食でなく、十分な三食を摂っているからでしょう。私の宅は松江で借りてるたものほど、大きくはありませぬ。私共は私と妻、料理人、車屋及びおよね(※松江時代から八雲の下女として働く。「ばけばけ」では熊本生まれになっているが、実際は松江生まれだったのである)の五人家内です。およねが始めて来た時には余程可笑かったのです。[彼女は今市生れです]彼女の出雲訛りは誰れにもわからなかったが、今では彼女と車屋、両人共に言葉が通じます。ここの宿屋は非常に高いのです――少くとも或る宿屋は。私は四楽園を安いといって、賞賛する訳には行きませぬ。茶代を合わせて、六日半の宿料に二十四円を支払いました。もう懲り懲りです。…日本人の敏腕な教師は、非常に働きます。目下私の受持の或る一二の級には、英語課業の準備を与えてくれる教師がないのです。私はその訳を知っています。外人教師の主要な役目は、アクセントと会話の習慣を数えることです。しかし次の時代になるまでに、英語のために外人教師を雇うことは、殆んど無くなるだろうと、私は想像します――高等な諸学校と特殊の目的以外には。完全にうまく英語を話す日本人教師が、幾千人もいるやうになるでしょう。私は貴君が新校長たらんことを希望します。追伸。節子が是非貴君に告げるようにと申します。それは当市の車屋は鬼だから、雇うときに注意せねばならぬということ、だから、貴君が気候がよくなってから当地へ御来遊の節、東京に於けると同様御注意なさらねばならぬこと、また家賃も高いということです。私の家賃は十一円です。

11月30日
貴君からかかる天晴れのお便りに接したのは、愉絶快絶!私はいつもになく御心配申し上げて、貴君が数箇月間も御病気ではなかったかと思いました。貴君が再び御外出なされたと承って、私共まことに嬉しく存じます。

12月
私はまだ教師的に親友を得ません。一昨晚、初めて、諸氏と日本食の宴会に列しましたが、貴君がいなかったため、料理について、箸を使うべき場合など、奇妙な失策を演じたことと思います。
私は気候のことを貴君に書くのに、頗る慎重を加えています。もし貴君が当地へお出で下さるならば、是非最も御都合のよいようありたいからです。今日までの所では、気候はこうです。即ち朝と夜は寒くて、霜が白く、午後は暖かくて、外套なしても外出ができるほどです。雨は極めて少く、まだ雪を見ませんが、やがて降るだろうとのことです。私については、数年来初めてこんなに丈夫になりました。すべて私の衣類は、日本服さえも、小さ過ぎるようになったのです!しかし、気候のお蔭か、食物のためか、何だかわかりません。節子は私が良い妻を持っているからだと申しています―しかし彼女の説は我田引水でしょうよ!私の肺は鐘の如く強健です。毫も咳?を催しません。現在申し上げ得るのは、これだけです。否、お米は私共に隨いて参ったのです。お芳が母親の方へ帰った時、お米が代りにきました。気の毒ながら車屋は追い還さねばなりませんでした。彼は妻を松江に置き去りにしたので、妻は稲垣家へ泣き附いて、哀れな話しを訴えたのです。私はそれを聞いて、彼は帰国せねばいけないと告げました。しかしその同日、後になってから、私は彼が非常に悪事を行っていたことを発見したのです――他の召使の者どもの間に紛紜(もめごと、ごたごた)を起こそうとしたり、私共を欺いて商人輩と密約を結んでいました。私は彼に着物を買ってやり、食事と室の外に、総計十四円五十銭――五円の帰国費を含めて――を与えたのです。しかし彼はその金を浪費してしまって、それから後、どんな工面をしてやっていたのか、わかりません。もはや彼に対しては我慢ができませんでした。その狡猾と愚かさとで、一日も家に置くことは出来なくなりました。…車屋の地位は、善良な男なら、その人に取って好い地位であったでしょう。私は今後、月極めで車夫を雇い入れる場合、大いに注意を払いましょう。…さて、私は貴君が御身を御大切にされ、貴君の克己的な武士精神のため、寒威凛烈の日に無理に御出勤ないよう希望します。貴君並びに御家族に、幾多幸福なる新年のめぐり来たらんことを。

『ばけばけ』では車屋さんは不器用で良い方でしたが、実際はよろしくない人物であったようです(-_-;)

1892年4月12日
私の親しき西田――(最早私共の同柄では『様』という敬称をやめねばならないと思う)…幾多の死亡や不幸のことを承って、非常に気の毒に感じます。当地に於ても必らずしも一切無事とは行きません。熱病が行われ、流行感冒が多いのです。私の妻は二週間ほど余程の病気に罹りましたが、私は約四日間の発熱で免れました。最も悪るい季節は三月で、一昼夜に寒暖計が四十度の変化を示すこともあります。私共は博多へ行ってきましたーー日本で、これ位の大さの都会中では、極めて立派な都会です。私は博多帯の製造場を見物して、天晴れ驚嘆すべき絹物が織られるのを見ました。それから、太宰府へ行って、松江を出てから始めて、最も興味多き神社を見ました。博多の土地に住みたいものですが、冬季は屹度寒い所でしょう。

『ばけばけ』でも途中で「西田さん」「ヘブンさん」呼びに変わっていましたよね。実際は呼び方が変わったのは熊本時代の事だったようです。

7月27日
稲荷社に関するお手紙は甚だ面白うございました。それで私は大事にとって置くことにしました。もう一度松江にいたいような気持ちにさえなったのです。出雲に確実なことがあったら、愉快に永住ができるでしょう。しかし日本では、外人に取って、一つも確実なことはありません。外人として唯一の道は、解雇されるまでに、十分金を貯えることです。して、小さな都会では、なかなかそれが出来かねます。熊本は私が初め思った通りですーー日本で最も醜く、最も不快な都会です。冬季寒くはなく、また降雨がひどいこともありませんが、天気が怖ろしく変化し易く、また堪まらないほど黴くさく、熱病の多い土地です。私はまだ教師の多数を知りませんが、私の知っている少数に関する最初の印象は、結局、変ってはいないのです。私共は学校以外では、殆ど面会しません――皆学校から余程の距離に住んでいますーー教頭を除いてーー教頭は頗る立派な紳士です。仏語を話します。授業は松江に於けるほど容易ではありません。今学期私は二十七時間受持っていました。しかも全部教科書なしです。そのため一層困難です――それだけ白墨を使用せねばなりません。新教科書はまだ到着しないのですが、到着の上でも使用されないでしょう。生徒は書物によらないで教えられる方を好むようですから(下級は会話と作文、上級は会話と講義)しかし生徒は極めて善くて――理想的に善良てす。私は何れの生徒に対しても、少しも面倒の起こったことはありません。が、万事松江とは異っています。何となくこの大きな学校は一種の工場のようです。お互に対し、また生徒に対し親密な感じを持たないで、ただ規則的に一定の時刻に仕事に出かけ、一定の時刻に帰るという風です。余裕の時間はなく、一切隔絶していて、兵営のようで、実務的です⋯⋯⋯しかし私は今一つ東京へ行く機会があったのを、断わりました。熊本では文筆に務める時間を沢山得られるのですが、東京ではむつかしいでしょう。貴君から承った太宰府の神社は、実際壮麗です――殊にその立派な境内のために。お話しの通り、建築は両部神道のやうです。私共は此の頃あまり健康がよくはなかったのですが、今では快方に向っています。

熊本ディスりが始まりましたね(;^_^A

7月28日
お手紙をいただいて、愉快に存じました。節子は非常によくなりましたから、天気さえよければ、私共は屹度松江附近まで行けるでしょう。私は隠岐、境、美保関への旅行免状を受けました――隠岐は『旅行案内』に関し、チェンバレン教授を喜ばせるためと、また私の愉快のために。私が貴君の前回のお手紙を受けた際、医師の警告についてのお話しがあったので、貴君が九州へ御来遊の出来ることとは、夢にも思わなかったのですーーそれで、私は美保関でお目にかかろうと計画していました。しかし此際九州へ御旅行なさるならば、目下在熊の嘉納氏にお手紙を封入しておきます。私は現在では、いつ帰熊するか、確に申し上げかねますーー沢山文学的仕事を企てていまして、しかもそれを成す機会は、兎角定まりなき気候如何によるのですから。ただ確実なのは、九月十日までに、長崎を経て熊本へ帰らねばならぬということです。次便を美保関から差上げます。貴君が京都についてのお言葉は、全く真実です。この市(熊本)は私を絶望させます。私は仏教の研究に、ここ(京都)で五年間を費やしたいのです。熊本が醜く、不凡であるように、ここは美しく、驚くべき所です。…私は神戸へ立つ前、都合次第で明日又は明後日、奈良へ行く積りです。しかし一両日滞留が長くなるかも知れません。貴君の健康と幸福を願いつつ。

ディスりが止まりません💦

8月4日
貴君の第二回のお手紙を受取りましたが、鉄道の破壊のため、私の計画を幾分変更せざるを得なくなったので、今まで御返事を差上げられなかったのです。私は宮島をやめて、今日ここから境に向けて出帆し、それから隠岐へ行かねばなりません。帰途にお勧めの通り浜田へ寄り、または境或は美保関に留まることができます。帰りには、境で香川旅館へ泊まりますから、そこへ宛てて御発信下されば落手するでしょう。時に、嘉納氏から今月は二週間ほど、鹿児島へ行く積りだといってきました。だから、貴君が今月熊本へお出になっても、同氏は不在だろうと思われます。しかし貴君は鹿児島を見るのはお好きでしょう。熊本よりは必らず一層の興味があるだろうと私は考えます。その上に、そこは海浜です。帰路には出来うるならば一両日を博多で過ごしなさるようお勧め致します。そこは美しい所で、また良い浜辺があります。石田屋は悪くはありませんが、私が日本で見た最上の宿屋は、京都の日光屋です。小さいけれども、綺麗で、高価ではあるが、行届いています。給仕振りは、天使に待遇されるようです。私は奈良に遊んで、大仏を見、鹿に餌をやり、巫子の舞いを見ました。杵築の舞いとは異っていましたが、綺麗でした。また少女達は蕾の如く婉艶でした。しかし出雲の海岸の方が、京都や奈良よりも私には一層面白いから、そこへ行こうと熱望しています。節子は強健に回復中でありますが、以前に比すれば途程瘠せています。彼女は帰途貴君にお目にかかることを大いに期待しています。その都合はつくことと私は考えます。今月の末頃やっとお逢いすることが出来ても、まだ熊本へ帰るのに、十日間も残っているでしょうから。節子は最も懇切なる思い出を、私は最上の厚意を差上げます。

8月
貴君が(熊本の)私共の小さな宅へお泊まり下されたことを承って、私共両人とも非常に愉快に思いました。若い、小さな家ながら、出雲の女中共がいたので、熊本の大きな淋しい旅館よりも一層心安くお感じのことと思います。今度は暫く美保関で、私共と一緒に御滞在を望みます。私は隠岐が非常に好きですーー熊本よりは余程好きです。田舎の人達、漁師、水夫、原始的の風采、質素な習慣ーーすべてこれ等のものは私を娯しめます。して、これ等のものが隠肢に存しているのです。時間さえあれば、かかる人々の生活や習慣を注視することは、文学上私の利益になるでしょう。隠岐は私に取って六箇月間の文学的研究の価値があります。もう一度見たいと思います。唯だ不快なことは、烏賊のひどい臭気です。しかしお目にかかってから、一切私の印象をお話し申し上げましょう⋯⋯私と節子とから最も懇篤なる尊敬を以て――やがて拝眉(※「会う」を意味する謙譲語)の楽しみを期待しつつ。

全集には収録されていませんが、島根大学附属図書館によれば、8月25日に「節(セツ)は今朝、手紙を書くつもりでおりましたが、あいにく頭痛がして少し気分が優れないようです。間もなくあなたにお会いできることと思いますので、本日は筆を執りませんこと、なにとぞご容赦ください。さて、こちらへお越しになる途中で、少々頼まれていただけないでしょうか。もし大した手間でなければ、天神町(太田煙草店)で葉巻をいくらか買ってきてほしいのです。この辺りでは手に入りませんし、帰路も馬関(下関)に着くまでは手に入れることができません。品質については、あまりお手間は取らせませんが、一番高い小ぶりの葉巻を選んでください。もし箱が開いていれば、外側の葉が「テカテカ」していないこと(油を塗ったような見た目でないこと)を確認していただければ幸いです。もし在庫が少なければ、50本程度で構いません。ただ、もし面倒なようであれば、決して無理はしないでください」という手紙を送った、とあります。西田に煙草を買ってきて!とお願いしてるんですね(;^_^A しかもけっこう注文も細かい…💦

その後、西田は八雲に会うために美保関を訪れます。これも全集にありませんが、8月26日には美保関で次の手紙を西田に送っています。「わたしはあなたをわれわれのお客としてお誘いしました―だからあなたが、別の旅館へ行かれたことを残念に思っています。たぶんその別の旅館がこちらより涼しいでしょうが、こちらも悪くはありません。それに他の客がいないし、素晴らしい泳ぎができます。だからみんながあなたをお待ちしています。そこで、あなたをお招きするようにと、船頭を差し向けさせました。こちらに来られるよう願っています」

西田はなぜか別の旅館に泊まってしまったのですね💦なんででしょうか。そんなトラブルもありつつ、ついに二人は再会する事になります。

8月 美保関
私共は貴君がお帰りになった後、全く淋しく感じました。夕食の節は殊にそうです――…波が荒く、音が高いので、私は申しました。『これは西田さんが鶏卵を贈って下さったからだ』しかし午後、湾はまた鏡のようになりました。…夕方遅くなってから、小さな境丸が入港し、立派な卵箱とお手紙と一葉の『日本』新聞を齎しました。貴君の御親切誠に此の上なく存じます。かくまで御親切を蒙って嬉しく思うと共に、御面倒をかけたことをお気の毒に感じます。しかし卵については、大欣びをいたしました。宿の主人が小さな長方形の卵焼き鍋で料理してくれました。して、一個一個中央に紅い太陽を帯びた日本の国旗のように見えました。貴君並びに御尊母様へ多謝々々。それから、御家内様一同へ最も温かき敬意を表します。

ついに八雲と西田が再会しました!!かなりうれしかったでしょうね。波が荒くなったのを「西田さんが卵を贈ってくれたからだ」というのはよく意味が解りません(;^_^A

9月18日
貴君は今学期容易な時間割だと承って、欣然に存じます。して、気候もこれからまだ三箇月間は温和でしょう。熊本では甚だ暖かです。節子は帰ってから、すっかり変わりました。今ではいつも笑って、愉快でいます。して、来夏の旅行のことさえ語っています。全く貴説の通り。

全集に収録されていませんが、9月25日に八雲は西田に次の手紙を送っています。

セツがもう一度あなたに手紙を差し上げて、あなたがお帰りになって初めて、われわれ皆が、蚊帳に穴があいていたことがわかったことに、どんなに申し訳なく思っているかお伝えするようにと申しております―したがって、あなたは蚊にたいそう悩まされたに違いありません。しかし、もしもう一度こちらにお出でになって、わたしたちに楽しい思いをさせてくださるならば、われわれは皆が蚊帳に穴がないことを約束いたします。…今年度の終わりには、どこかよそで職を得るよう努力するつもりです。どうやらここで長く居過ぎると危険なように思えます…先日わたしはここで「かたい」(Katai)(この言葉で合っていますか?)と思ったことを見ました。[嘉納]校長が、小屋のようなところで、生徒たちに訓話をしていました。すると、日が差し込んで、最後列の生徒たちの頭に当たりました。やがて三人の生徒がよろめいて倒れて、運び去られました―暑さに負けたのでした。一言指示があれば、他の全員も救われたことでしょうに。ところが校長は、10分間も話し続けてやっと生徒たちの苦痛に気づいたように見えました。それから命令が出されました―10歩前へ、陰の中へ、と。遊び時間には、嘉納氏は生徒たちに大変やさしく、彼らと一緒に遊んだりします。ところが、修身の時間になると、別人になります。これがその一例です」

熊本を訪れた際に八雲の家に泊まった西田でしたが、どうやらその際に使用した蚊帳に穴が開いたようです(;^_^A

10月23日
御全快の御報を得て、非常に欣びました。その前夜、節子は貴君のことを夢みたので、申しました「西田さんからお便りが来そうです。余程お宜しいか、左もなくば余程おわるいかです』して、吉報が参ったのです(※全集の註には、「夢は精神現象として、人生の事実として、先生に取って、また先生夫婦間に取って、大意義を有(も)っていた」とある)私共は皆病気でした。私は幾分脂肪が滅じました。家内の者が同時に風邪にかかったのです―児童の正(熊谷正義。隠岐の島の士族の子で、八雲が養育していたが、1893年、ラシャメンの唄を歌ってセツを侮辱したので、送還された。1893年8月に八雲が西田宛に書いた手紙には、「私は熊谷正義については、不運でした。彼は私の一家のものを悩ました挙句、隠岐へ送り返さねばなりませんでした。彼は学校に於ても、また何事をしても、非常に怜悧な少年でしたが、少しも愛情を有たないし、且つ残酷で狡猾でした」とある)を除いて。正は他の人々が病気中、自分独り丈夫なことを悲しんで、着物を少し脱いて風邪に罹ろうとしたのを、私共は叱ったのです。それでも彼は元気でした。…時がたつにつれて、私はますます教師及び生徒の両者と交際が薄らいできました。私は最早宴会へも出席しません。結局私は孤立を欣んでいます。それは私の文筆の仕事に好都合です。しかし貴君のような人がいたならばと思うことが毎度あります。…私のため何か仕事をして下さる件については、来月になってから、大黒舞いの文句全部を求めていただくことを御相談申し上げたいのです。翻訳は東京でやって貰ってもよいのです。四つの歌(寧ろ俗謠)とその繰返しの文句を手に入れることと、またそれを筆写するために、いくらでも費用を払いたく思います。しかし貴君は余暇と体力が必要ですから、誰でも十分真面目にそれをやってくれる人を御存じならば、それでよろしいのです。しかしその件は後日に致しましょう。

『思い出の記』には、「(八雲は)この世より夢の世が好きであったろうと思います。休むときには必ず「プレザント、ドリーム」とお互いに申します。私の夢の話が大層面白いと言うので喜ばれました」とあり、夫婦間でよく夢の話をし合っていたようです。

11月24日
再び貴君の御筆蹟を封筒の上に見ることを得て愉快でした。私はかような好音信に接して、言ひ難き喜びを感じました。御地に山崎医学士が居られることは、貴君のために祝します。この冬は厳しい寒さだろうとは思われません。この徴候では、もし強い寒気が起こるとすれば、後になってくるらしく思われます。私は貴君が一季節の間、琉球へお出になったならばと、余程考えているのです。困難な点もあるでしょうが、出来る限りの御注意を申し上げるのが、友人としての任務なのです。熱帯の風土は、多年そこに滞在すると、体力に障わっても、六箇月間は有力な強壮剤となります。本校教師中川氏(嘗て大名であった人)は、今夏琉球へ蝶の探集に行ったのですが、蒸暑堪え難いということはなかったと、私に申します。氏はその土地を賞めています。土人は臆病で、日本人を恐れているそうです。日本の宿屋があります。主要食料は若い豚で、新鮮な豚肉は二十六種の料理法があります。米はその土地の食物ではないが、そこに住居せる日本人が買っています。土語はわかり離くて、中川氏は通訳者を要したのですが、無論、学校は日本語を教えます。もし貴君が来年そこで一冬を過ごすことが出来れば、よいだろうと思われます。それは私よりも山崎医学士の方が、一層よく判断を下しうるでしょう。…大黒舞いについて、誠に御親切を謝します。少しも急ぐことはありません。今年中、いつでもよいのです。それが手に入れば、新しい著述の材料に使います。新著作には、二年間位かかることでしょう。…この頃日中は温かで、湿気を含んでいます。して、軽い熱病が流行しています。しかし節子は驚くほど丈夫になりました。彼女は立派な体格を有っているから、もはや病気に罹ることはありそうもないと、医者は申します、彼女は貴君が再び御出勤のことを承って、
非常に嬉しいと申し出でました。

結核菌は温暖な気候では活動が抑制されるそうであるので、当時どこまでこのことがわかっていたかはわかりませんが、琉球療養は適切なアドバイスであったと言えるのでしょう。

12月13日
またいやな議会が開かれました――三個の高等中学廃止案――五高をも加えて!どうなろう共、夏休み以後ここに留まっていようとは欲しません。あまりにも不安です。政府に仕えて働くのは、流沙の上へ建築したり、灰を綯って縄を作らうとしたり、篩(ふるい)で水を運ぼうとするようなものです。政府は皆気が狂っています。家康のような人が出てて喧々囂々たる連中を破砕し、上品な専制政治を行うことを私は希望します。昨夜は堅い黒い霜(※水分が非常に少ない状態で凍りつくと、植物が壊死してしまい、黒く変色してしまうので、これを「黒霜」というそうである)がふりました。御身体を大切になさい。して、新年に対する私共の厚意を受けて下さい。

家康の事もきちんと把握しているんですね(;^_^A

12月27日
お手紙は珍らしく面白いことに満ちて、最も愉快に存じました。貴君が浜田の地位をお断りになろうとするのを欣びます。危険が大きいだろうし(過度の働きなどを指すのです)風土の変化もあまり有益ではなく、俸給は増加しても、松江に於ける幾多の親友から隔絶する償いにはなるまいと思われます。貴君がお尋ねの、熊本で引越しの場合の規則について、調べてみました。一般人民の間では『向三軒両隣』という習慣が守られてあるようですが、別に変ったことはありませんーー少量の酒を贈り物とするのです。しかし上流社会は全然西洋化してきて、隨ってますます慇懃な態度を減じ、段々殺風景になって行って、ただ両隣へ一種の形式的な挨拶をする外に、何もしません。…私の宅のことを、もっと詳しく申し上げます。硝子戸と暖炉と大工の手間代が、合計二十五円ほどかかりましたが、結果は頗る満足でした。最も寒い日にも、室内は夏の温度です。して、夜間空気が暖かい内は、私は決して咳嗽をしません。少しでも咳嗽をするのは、夜明けに火が消えた頃だけです。しかもその際にも、極僅少です。しっかり閉まった硝子戸のため、室は決してひどく冷えないからです。私は疾くの以前に、かような設備をすべきであったのですが、暖炉を持ち込むのに適当していて、また現在私の室のような孤立せる室の附いた日本式の家を求めることはむつかしかったのです。勿論、学校には各室に暖炉があるから快適です。…大黒舞いについて、何卒あまり御面倒をかけないように致したいものです。別段急ぎはしません。今この手紙を認(したた)める時には、まだその文句を写した物は参っていません。しかし学校へ到着しているかも知れません(学校は今月二十四日から冬休暇になったのです)どうかお送り致すべき金額を知らせて下さい。それから、この件のためお手許へ幾らかの供託金を差上げて置く方が、よくはないでしょうか。貴君が仰せられた古本を発見する誘因として、役に立つこともあるでしょう。もし部落の人が舞謠の文句を写す場合、文学的性質でないため、珍らしい繰返しの句を省略して、自作の文句を挿入することがあってはと、私はそればかり懸念しています。

1893年1月
学校が廃止にならなかったので、校内は大欣びです。貴君の予言が当たりました。

1月
多分私は夏休み中に新潟へ行くかも知れません。節子はいつも東京の事を語っています。私は彼女を東京へつれて行かねばなるまいと思います。それから、私は金比羅と善光寺を訪ねたいのです。すべてそれらの場所へ行った上に、猶おまた新潟へ行くこともできるでしょう。私はあの懐かしい、親切な知事(※島根県知事であった籠手田安定のこと。『ばけばけ』ではずっと島根県知事であったような感じだが、実際は1891年に新潟県知事に、その後1896年には滋賀県知事にと転勤を繰り返している)と令嬢に再び逢いたく熱望します。かような種類の知事は稀です。して、やがて日本には無くなるでしょう。いつも私には昔の面白い型ーー絵本の大名の如く思われました。現代化した知事は、殆ど種が異っているようです。次の時代の日本人は、親切で、率直で、また無私ではないだろうと懸念されます。西洋人の如く冷酷な性格となり、智力は進歩して、徳性は減じてくるでしょう。旧日本は利己的でなかった点に於ては、物質的に後れていたと同じほどに、西洋よりも進んでいたのです。私は迅速記憶法によって節子に英語を教えています。果たして成功するか否か知りません。その勉強が彼女にあまり苦しいなら、止めねばなりません。ーーこの方法は人を疲れさせるのです。教えて行くうちに、貴君から承った出雲発音の点が、稍や気につきます。それで猶お更困難が加わってきます。

八雲は籠手田知事と娘の淑子のことを気に入っていたようです。

2月8日

私は京都の何処かへ口を求めようかと思っています。熊本に留まることに比すれば、今の俸給の半分でも結構です。これまで私が住んだうちで、ここが一番不愉快な場所です。ただ私の小さな家は綺麗です。お目にかけたいものです。(西田は一度来たがその後12月に改装したからか?)…万歳!議会は解散されました!私は軍閥派が権力を握るのを見たく思いますーー家康(Iyeyasu)や家光(Iyemitsu)のような将軍が出て、この地震の国、変動の国に一種の秩序を樹立するのを望みます。即ち憲法の一時停止です。今日までの所では、憲政はただ金銭の浪費でした。自治の経験なき人民に取って、議会は何の功用がありますか。その結果は、壮士と混沌と一次的精神錯乱です

2月19日
『金比羅、ふね、ふね』の歌、有難う御座いました。それは歌の控え帳へ書きこんで置きました。…貴君の二つの質問について。拉甸語の句は、前後の本文がなくては、甚だお答え申し上げにくいのですーーこの句には、動詞もなく、主格もないからです⋯貴君は何故私が熊本を嫌うかと、不思議にお考えのようですが、先ず第一には、近代化しているからです。それから、あまり大き過ぎて、且つ寺院も、僧侶も、珍らしい習慣もないから嫌いです。第三には、醜いからです。第四には、私は依然として知り合いのない、外客に止まっているからですーーまた、恐らくは文学的材料を得られないからでしょう。しかし節子は、私に勧めて机の抽斗(引き出し)にあった私の頭願書を郵送して、待つことにさせました。もう一二年ここに居る方が得策だと、彼女は申しますーー他所では、もっと悪いかも知れませんからと申します。多分彼女の考えが正しいのでしょう。彼女も貴君と同様に、私が当地の人達を理解し得ないのが、一番困ったものだと思っています。

2月21日

このつぎに上手紙を下さる折、御教示を願いたいのですが、仏陀の指のように見えるのは、仏手柑(ブッシュカン)の果実ですか、または花ですかーーそれとも、果実の葉状の外殻ですか。チェンバレン氏は果実だと考えています。して私は花だと書きました。私共両方ともに間違っているような気がします。

3月3日
節子は英語に立派な進歩を示して行っています。この夏は貴君に少々英語を話すようになれるだろうと、彼女は思っています。私はただ二十八回教授を施しただけです。まだ彼女は英語の女字をよく知りません。しかし言葉を学ぶ自然の順序は、先ず第一に話すこと、それから書くこと、して、最後が文典です。これはスペンサーの説です。この実験は頗る興味があります。もし成功すれば、私は大いに愉快を感ずるでしょう。

節子への英語教育が順調に言っていると報告していますが、実際はこの後行き詰ってしまったようです。

3月7日

大黒舞いの原文封入のお手紙が、無事に到着しました。私は原文を翻訳して貰い、またローマ字で現わして貰って――それから、始めての試みをやって見ようと思います――即ち、日本の歌詞を、これと対応する英語の音律に訳してみようというのです。が、どうするのか未だわかりません。多分余程奇異な小冊を作るようになるでしょう。或はまた別の方法にその材料を使うかも知れません。しかし一切これは大急きで書いているのです――数分の後には、登校せねばなりませんから。深く御礼申し上げます。仏手柑のことについても、有難う御座いました。私はその花に關して、ひどい間違いをしました(※八雲は仏陀の指のように見えるのを花だと書いたが、実際は果実であったため)。しかしまだ訂正する機会があります。

去年の10月からお願いしていた大黒舞いの件が、ようやく完了したようです。この大黒舞いの件について、後に八雲はチェンバレンへの手紙の中で、「私がこれまで従事したうちで一番退屈な仕事はあの三つの大黒舞バラッドを我慢が出来る英語散文にする仕事でありました。大抵出来上がりましたが、非常に厭になりました。尤も私はーーより好い仕事の代りにそれへ私の心を専らならしめて置くという手段としてで無ければーー全くそれをやることは出来なかったでしょう」(94年7月2日)と書いています。相当大変な作業であったようです(;^_^A

4月
節子は今年旅行が出来ないと思います。私は九月頃、或はもっと早く、父になる筈です。だから、私共は結局今年は東京を見ないでしょう。また私はあまり遠い旅行ができなくなります。

6月7日
節子は貴君のお手紙に対して返事を差上げなかったので、恐縮に存じています。それで、彼女に代ってお詫びを述べ、よろしく申し上げるよう私に頼みました。実はお手紙を戴いた当時、彼女は気分が勝れなかったのですーーしかしかような苦痛も、今では全く了わりました。子供は十月頃か、遅くとも十一月早々生まれるだろうと思われます。稲垣老夫婦は私共の宅へやって来て、同居する筈です。兎に角、皆一緒になつた方がよいのです。

8月16日
暑さは今はたまらないことはありませんが、昆虫が非常な厄介です。二種の甲虫がいて、脅かすと、ひどい臭気を放つので、夜間困るのです。蝉やその他の鳴き虫は、出雲のものと同種ではありません。して、余程珍らしい騒音を発します。…節子は熊本について、よい点を発見しました。百姓、小さな商店の人々、行商人、及び商人は、非常に実直だと、彼女は申します。これは九州人が自分で、粗暴だが正直であるといっている意見を、確めることになります。貴君が九州のことを非常に尊重なさるから、私は出来るだけ、あらゆる美点を発見するよう努めています。…私は日本に関して、もう一冊、変わった種類のものを書いている所です。その一部分は、九三年から九四年に亙って、雑誌に載るでしょう。私は封建時代でなく、今日の日本人の美しい方面を示す小話を書こうとしています。私は子供の思想や、百姓、僕婢、労働者など普通人民の行動について、観念を得ようと試みています。何故となれば、民衆は樹木――根、幹及び枝―であって、教養ある階級は花に過ぎないからです。もし貴君が今後二箇年の間に、民衆生活に於て、何か高尚なこと、美わしいこと、感動すべきこと、勇ましいことをお聞き及びになったら、して、それを私に御報知下さる時間があったら、私は非常にお蔭を蒙ることでしょう。

『思い出の記』には、小泉八雲が西田について語った言葉として、「私の悪い事、皆言うてくれます」というのがありますが、熊本について不平ばかり言う八雲を、この時も西田はたしなめたのでしょう。

8月
津田三蔵の狂行(大津事件。1891年5月、来日したロシア皇太子ニコライが、沿道警備の警察官津田三蔵に襲われ右側頭部を切りつけられた事件)の後、陛下が宸襟を悩まし給うたため、京都で自殺した哀れな女子(畠山勇子)について、事実を獲ようとしています。しかしまだ成功しません(1895年に刊行される『東の国から』に「勇子」が収録されることになる)。序に、津田三蔵は後世からは、もっと親切に判断されるだろうと私は考えます。彼の罪はただ忠君のため狂激に陥っただけです。彼は瞬間発狂したので、その狂気は善い主義と好機会に於てならば、最高の価値が有ったでしょう。彼は英国をも戦慄させる、恐ろしい強国―西欧列国が千五百万以上の軍隊を備えて、対峙している強国の生ける代表者を、眼前に見たのです。彼は日本の敵を見たのです、或は見たと思ったのです(多分彼は実際に見たのです。それは後世になって始めてわかるでしょう)そこで彼は熱情に駆られて、頭脳に謀ることなくして、一撃を加えたのです。彼は甚だ悪いことをしました――悲むべき失行を演じました。しかし一切彼の愚かさにも拘らず、彼の心は高尚で且つ誠実であったことと、私は考えます。彼はもっと良い境遇の下には、一個の傑士であったのでしょう⋯私は熊本の恐ろしい甲虫の一種は、ガネブンブン(カナブンブン。カナブン)という名であることを、只今聞きました。して 百姓はガネブと呼びます。『一昨日お出なさい』といつて、その虫を窓から投(ほう)り出すのです。すると、決して帰ってきません。…私は間違っていました。ガネブンブンが、私の一番不平をこぼす厄介物ではなくて、フウムシ(※九州ではカメムシをフウムシといった)というのでした。まだもう一つ小さな虫があるのですが、その名を知りません。彼等は室中を臭気紛々たらしめます。大きなフウムシと小さな虫を、単に緑と黒に区別するだけで、同名で呼ぶ人々もいます。序に、私はこの手紙ヘフウムシを一匹封入してお送り申し上げます。始終私の机上へ襲来しますから、出雲へそれを一匹送ったなら、移住するよう同類を誘うだらうと思ったのです。

西田がどんな反応をしたのか気になります(;^_^A

10月23日
松江に於ける怖ろしい天気と、ひどい災害(大雨のために、宍道湖が増水して、松江市内はほとんど浸水した)のため、この手紙御落手の頃、貴君の御健康が如何だろうかと、心配申し上げます。だから貴君のお手数を煩わしたくありませんが、しかしまた、些少ながら私の与え得るだけの救助を送って、松江に対する私の悲みと愛情を表したいのです。貴君の労をはぶくため、私は山陰新聞社へ救済寄附金五十円を送りました――貴君以外に、それを発送すべき宛て名を知りませんが、貴君にはまた御面倒な用事があるだろうと思ったのです。もし目下他の費用で逼迫していなかったら、もっと送りましょうが、これが現在都合のつく全部ですーー私の金は殆どすべて公債になっているから。貴君が間もなく御恢復なされて、御消息を承るようになることと私は信じます。私が松江の出来事を知ったのは、小豆澤によってであります。彼は立派な手紙をくれました。それには、貴君は御無事であったが、御健康はよくないと書いてありました。一同から心配し乍ら、好意を表わします。

11月
私は小都会が好きです。多度津(香川県)、隠岐の菱浦、石見の温泉津、中海の大根島(島根県)のような所に住んだなら、私の心は欣びに満たされるでしょう。私は新日本を好むことができません。官史、外国風の模倣、気取った風、自惚れ、天保時代に対する侮蔑などが嫌いです。愚考によれば、あらゆる善いもの、高尚なもの、真実なものは旧日本でした。私は永久に明治から飛び去り、『時』の流れを溯って、天保時代へ、または千四百年前の雄略帝の時代へ行きたいものです。昔の扇子、昔の屏風、小さな村の生活――それが私の愛する真正の日本なのです。兎に角、熊本は毫も日本の如く私には思われません。

熊本をディスることは忘れません。

11月
夜間子供が生生まれました。余程丈夫な男の子です――黒い目と髪で、私の容貌を少し許りと、節子の容貌を少し許り有っています。節子は十分健全て、貴君へ宜しく申し上げました。又私が申し上げようと思っていたこと、即ち、今年は貴君が頗る御健康なのを一同欣んでいます旨を述べるよう申し出でました。もっと書こうと思ったのですが、只今私はあまりに疲れています―一昼夜以上にわたって、まだ寝に就きませんので。だから、ちょっと左様ならを申し上げます。

11月17日に八雲の長男一雄が生まれています。

11月23日
貴君の御親切な祝賀状は、丁度私の手紙を投函後に落手致しました。私は子供をレオポルド・ケー・ヘルン(Leopold K. Hearn)と呼びます。ーーKはKadzuoを表わすのです。少なくとも、これは外人に対する場合の名称です。子供は余程強健になりそうに思われます。

11月
今日まで、誰れも無事でいます。子供は日々美しくなって行って、あまり面倒をかけません。殆ど泣きません。沢山の人が来て見て、非常に日本人らしいのを驚いています。しかし大きくなったら、屹度私のような鼻を持ちそうです。節子は一つ別の事件について、貴君に手紙を書くよう私に勧めました。私は節子を私の正式に結婚した妻として、戸籍に録したいので、熊本へ参ってから数回試みましたが、いつも役所の返答は同じことでした――むつかしい事件だから、試みるなら、東京で手続きをする方がよかろうということ。一昨日子供の出産届をする場合に、又試みました。戸籍吏共は、当事者両人が出雲松江から来た以上、ただ結婚届を松江の当局へ出せばよいのだから、松江へ書面を送った方がよいと云いました。しかし同時に、彼等はこんなことを申しました。『規則はむつかしい。もし子供が日本市民でもであるようにとならば、ただ母の名で戸籍を附けて置かねばなりません。もし父の名で登籍すれば、外国人になるのです』無論私共はこの子供が日本市民たることを望みます。私の没後、彼は一家の後継者、且つ支持者となるのですから――たとえ数年間勉強のため、海外へ行くことがあろうと、あるまいと。慎重な考えから申せば、後者が得策のように思われます。しかしこれは全く難問題です。私自身が日本市民となれば、一切解決されるでしょう。が、それさえ予想外に困難なのです。また、私が直接に政府へ請願して日本市民となりうる事と信じますが、目下の場合、その結果は好都合でもないようです。横浜に居る英人で、日本市民になったのが、『日本市民となった以上は、日本市民のような生活で満足せねばならぬ』と、俸給を滅ぜられました。私には減俸の趣旨がわかりません。何故なら、勤労は少くとも市価に随って払わるべきであるから。しかし屹度減俸をされるにきまっています。米国の友人と英国の親戚へ対しては、私は結婚したのだと、正式に発表しているのです。多分私は数年を待ってから、市民となった方がよいのでしょう。無論、日本市民となることは、海外文明国に対する私の関係上、何等の差異を生じないでしょう。ただ革命叛乱の多い南米の如く、文化が低くて、英仏米などの保護を有利とする感に於てのみ幾らか差異があるでしょう。しかし畢竟するに、私の唯一の憂慮は、節子と子供の利害如何ということです。私一個の利害は、私の不利が節子に取って損害となる場合だけ、問題に関係を有つのです。私は運命と神々とに委せねばならないだろうと、想像しますが、もし何か御教示下さるなら、有難い次第に存じます。どんなに僅かしか日本人のことを知り得そうにもないということを、私は毎日ますます感じてきます。私は拮据勉勵、新著述に従事して、今や半分出来上がりました。それは主もに哲学的小品で、『知られぬ日本の面影』とは、非常に異っているでしょう。して、どんなに日本の天地が、私に取って変化したかを貴君に示すでしょう。外人は同情と友誼を得ることは、殆ど不可能だと、私は想像します―――民族の心理に驚くべき相違があるからです。私共は理解しないで、お互にただだ臆測し合っているのです。して、実際広い経験を有する極めて鋭い臆測家にして、始めて正確に臆測し得るのです。私は貴君のような人を他に見たことはありません。普通東京の現代化した階級の人々と一緒に坐って、数時間談話するほど、奇異なことはないのです。私共は相手の語ることを一切理解し、相手は私共の語ることを一切理解します――しかし双方とも、言語以上のことを理解しません。言語の裏面に潜める思想が、非常に相違しているから、談話すればする程、お互にわからなくなるばかりです。学生の場合には、私は新しい教授法を発明せざるを得ないようになりました。私は只今上級学生を心理学的に教授します。例えば、前置詞の種々なる難点について、講義したり、書取を授けたりもしますが、劈頭先ず学生に向って、毫も日本語の前置詞のことを心に浮かべてはならぬと告げて置くのです⋯私は冠詞や、英語の成句の価値や、動詞の比較上の強さなどを教える場合、この方法に随って、余程成功を収めています。しかしこれは外人が日本人の心底へ立入ることの、どんなに絶望的なるかを示すものです。

だんだん日本人不信が募っていく八雲。熊本時代後半の八雲は精神的に病んでいたと思われます。

1894年2月13日
お子様達の写真を有難う御座いました。御長男は隨分貴君に似てくるようてすが、御次男は猶お更そうです。どんなに御成長なされたことでしょう!私が松江を去った時、まだ生まれてから六箇月位でした。それから、私にお茶を一杯運んできた少女ーー彼女もまた筍の如く伸びました。御長男は私を見ても、今は最早泣かないでしょう。非常な御成長です。これらの小団体の写真は、愉快なる御進物です。私は大切にしておきましょう。誠に有難う御座いました。私の子供は、言葉を発しようと、ひどく試みています。彼の眼は余程青いのです――それが唯一の困ったことです。何故なら、少くとも少年時代の間、彼は日本で勉強し、日本市民となっていなければならぬため、私は彼が今少しく日本人らしく見えた方を好むからです。

4月
手紙の数の稀少といる事実によって、判断を下すならば、貴君は甚だ冷淡な通信者となりつつあるのですーーだから、何か異常なことが起こらない限りは、貴君からお手紙を受けることはあるまいと思われます。そんな風に、世の中が遠ざかって行きます。が、もう決して私は『最も東の東方』人民を理解することは出来ないでしょう。さて、私は金比羅へ行ってきました――金比羅船々で多度津まで、それからは鉄道で、驚くべき奇異な古い都会へ行ったのです。私共は一雄を伴れました。彼は今泣きません。して、非常に行儀がよかったので、汽車や汽船の道中を通じて、人々が彼を好いて、彼を戯弄して遊びました。彼は沢山の政客、測量師、数名の絹商人、海軍軍医の二名の大佐、幾多の上品な婦人、琴平の巫女、それからーー遺憾乍ら――数名の芸妓などと知り合いになりました。しかしそれは彼が幼くて、訳がわからないからでした。私は彼が大きくなってからは、もっと彼の微笑を控え目にするよう希望します。ただ一つ彼の良趣味を示したことがありました。彼は特に二人の若くて、真に愛らしい、綺麗な巫女に心を惹かれたのですーーして、一人の巫女をして舞踊の間にも微笑を洩らさせました。

西田からの手紙の減少に愚痴を言う八雲(;^_^A

6月2日
さて、貴君の御令息は、やがて英語をお始めなさるのでしょう。だから私は日本お伽物語叢書を、御令息のためにお送り申し上げます。私は貴君が万事に御好運ならんことを望み、またその中に拝眉の楽みを得んことを望みます。

7月8日
お手紙に対して、早速御返事を差上げませんでした――どうなるかわからなかったし、また今でも先のことは姿もわからないから。しかし、その問題については、後に申し上げます。先ず東京行の件については、昨日出立の筈でしたが、明八日に立ちます。小豆澤は門司まで私と同行します。門司から私は横浜へ行きます。…私が貴君にお目にかかるまでは、八月一日以後東京か、又は横浜に滞在します。それから、貴君の御帰途、熊本の私の小さな家へ御来遊下さるやう、お誘い申し上げたく思っています。…私は三年間熊本で、神経衰弱になる位、不愉快に暮らしました。私の就任以来絶えず私を学校から退かしめようとする手段が講ぜられていたように思われます。私は不幸にも誰れかの道を塞いで、妨害物となっているものと想像されます。さて、数週前の事、私はこれまでは決してしなかった事をせざるを得ない気分になりましたーー私の立場の困難を校長に訴えたのです。彼は親切に答えて、私の秘密を保って置き、幾分制度に変更を加えると約束してくれました。というものの、どうなることか私に一向わかりません。日本の官吏間に於ける外人は、全く一個の碁石に過ぎません。彼には友人もなく、同情もありません。実際彼の感情の存在は、考慮されないのです。「自分の家庭以外には、同情を求めるな」と、英国人で、日本人の妻を有ち、また、大きくなった立派な男の子供達をもった私の友人が申しました。私はこれが殆ど真実であることを恐れます。私は当地でひどく孤立していて、生活が退屈なほどです。普通の意味で、全然孤立しているのは、家族がある以上、十分愉快なことですが、私を利用すること、或は私を排斥するの外には、私に対して何等の興味をもたぬ人々と始終接触を強いられているのは、退屈なことです。家族の心配もなく、子供が幼少だということさえなければ、私は一日も日本に留まっていないでしょう。さて、随分不平を並べました。私は御健康な貴君にお目にかかり、大いに快談を致したく望みます。節子並びに一同から、宜しく申し出でました。

家族がいなかったり、子どもが幼かったりしなければ、すぐにでも日本を去りたい、と言っています💦セツと一雄の存在によってかろうじて日本につなぎとめられている状態だったのです。

8月5日
しかし兎に角、御都合次第熊本へお出て下さい。ただ一日や二日御滞在の積りでなく、お出でてから、ゆっくり御休養なさい。して、御滞在の出来る限り、拙宅を貴君のものにして下さい。一雄は這い廻わったり、抽斗を開けたり、歌を唄おうとしたりします。して、驚くほど生長して行きます。…当校に於ける私の契約は、来春三月まで期限が延長されそうです。しかし友人をもたないから、どうなるか断言ができません。私共は――すべて外国人はーー来年の議会で追い払われてしまうだろうと期しています。最早日本で英人の英語教師には、前途がなくなりました。もし私が一たび政府の雇から離れたら、私は復帰しようとは思いません。半分の俸給でも、横浜か神戸の会社に、或る地位を得た方がよいのです。…私は拙い手紙を書きましたが、貴君の東京御出立前の間に合うよう、可也急いで投函したいのです。一同がどんなにお待ち申しているか、言葉に述べ難いほどです。私の宅はさほど暑くないでしょう。それから私の小さな室は、どうなりとも隨意に御使用下さい。もし御都合がつきますなら、何卒お出で下さい――御帰国の道中、唯だ八時間でお立寄りができます。

8月
貴君の立派なお写真と最も親切なるお手紙を有難う存じます。お写真は、私のために幾多の事物を見てくれた親切なる眼、幾多の賢い善いことを私に語りきかせ、私に勧告を与え、私を非常に助けた親切なる唇を、再び鮮かに私の前に齎しました――それを眺めて、私は貴君と別かれたことを、今更ながら悲まざるを得ませんでした。…一雄は這い廻わり、抽斗を開きながら厄介をかけています。彼の眼は再び色が変わりました――青から褐色に変わって、私の眼の如くになりました。しかし毛髪は依然鳶色です。上歯は十分に伸び、誰れも彼の丈夫さを驚いています。彼は一つ日本的の美点を有っています。即ち、泣かないことです。怪我をした時さえ、自制心を保っています。私は彼がすべて、これ等の特徴を失わないことを望みます。私の心配は今や一切悉く彼に関しています。私は彼を外国へ送るか、或は出来ることなら、私が彼を外国へ伴れて行かねばなりません。若し彼が立派な頭脳を有っていたなら、科学的教育を受けさせるのです。それは費用のかかることでしょうが、私は実行したいのです。成るべくは、子供を独り外国に置かないで、成年に達するまでは、父が始終側に居るべきものと私は思います。また節子はフランス又はイタリアに於ては、間もなく土地に馴染んでくるでしょうーー少くとも一雄の課程を了えるまで、十分気樂に暮らして行けることと思われます。在留外国人は戦争の起こったのを悲しんでいます――それも当然です。商売が不振に陥ったのです。誰れも日本が個々の戦闘には勝つものと信じています。しかし誰れが全体の戦争に勝利を占めるでしょうか。それは財力の問題となるでしょう。日本は欧州の最富国さえ躊躇していることを敢行しつつあるのですーー何故なら、支那と戦うのは、非常に費用を要するから。出雲の青年も朝鮮の野に渡っていますが、彼等は無事にすべての危難を切りぬけることと私は信じます。何卒彼等に関するお話しの材料がありましたら、お送り下さい。

八雲は一雄がある程度成長したら、外国で教育を受けさせようと考えていました。そしてそれに八雲とセツも帯同する構想を立てており、もしかするとセツが外国で暮らすことになっていた可能性もあったのですね…。

・私は早速熊本から去るように致したいのです。たとし薄給でも、私が親切な待遇を受けるような地位をお聞き及びでしたら、何卒お知らせ下さい。

・これは私が熊本から貴君へ差上げる最後の手紙です――非常に病気だという公務的口実の下に、私は一両日の中に去るのですから。校長は私に対して実に親切でした。彼は善い人だと私は考えます。して、困難から私を救おうとしてくれました。私に訳のわからない色々のことが学校内で行われています―しかし私は思うに、ただそう思うだけですが、熊本と文部省の両方にわたる陰謀があるようです。嘉納氏に関しては、氏からは過般私が送った手紙に対して、返事もきません。それから学校の不思議な状態については、道徳的根拠のありそうな何等明白な理由もないのです。実に奇怪且つ険悪の極です。だから私は去って行くことを欣びます。学生達は善良なのですから、私は彼等に別かれるのを遺憾に思ひます(彼等は事件については少しも知りません)しかし学校の現状では、真面目な授業も困難です。さて、私の幸運を祈って下さい。何故なら、行先きどうなるかわかりませんから。

※続きは後程公開いたしますm(__)m



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※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● 常楽寺で相撲大会を開いた 信長は、いよいよ上洛する事になりますが、常楽寺から京都に向かったルートについて『信長公記』は記していません。 手がかりとなるのは『言継卿記』の「 公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行 、坂本、山中...

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