※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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常楽寺で相撲大会を開いた 信長は、いよいよ上洛する事になりますが、常楽寺から京都に向かったルートについて『信長公記』は記していません。
手がかりとなるのは『言継卿記』の「公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、坂本、山中等へ迎に被行」という記述で、公家・奉公衆が信長の出迎えに行った場所というのが、おそらく信長の通ったルートであったと考えられます。
おそらく信長は常楽寺あたりから船に乗り、堅田に上陸、南下して坂本に至った後、山中越えで京都に入ったのでしょう。
京都に入った日について、『信長公記』は3月5日としますが、先に述べたようにこれは誤りで、
・『御湯殿上日記』2月30日条…「のふなか(信長)のほり(上り)たるとて…」
・『言継卿記』2月30日条…「織田弾正忠信長申刻(午後4時頃)上洛」
・『晴右公記』2月30日条…「信長上洛」
・『多聞院日記』3月2日条…「信長去晦日(30日)に在京了」
以上の日記に書かれてあるように、2月30日が上洛の正しい日にちになります。
『多聞院日記』に「無人数也」とあるように、信長は少人数で京都に入ったようで、これは、2月2日に参内のため3千人を引き連れて内裏を訪れた足利義昭と対照的です(『言継卿記』)。
●大歓迎を受ける信長
先に公家・奉公衆が信長の出迎えのためにわざわざ近江国まで赴いた、ということを記しましたが、他にも『言継卿記』にはなんと、京都の町人たちが「一町」(京の町は碁盤の目状にできていたが、その正方形の一辺と向かい合う一辺とで一つの町=両側町を形成していた。河内将芳氏『信長が見た戦国京都』によれば、一辺につき15~30軒の町屋が並んでいた)につき5人ずつの割合で、山中越えを終え京都に入る荒神口[白川口]に向かう途中にある吉田まで出迎えに行った(「上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向」)、という記述があります。
元亀3年(1572年)に書かれた『上下京御膳方御月賄米寄帳』には、上・下京にあった町の名前が記録されているのですが、それによれば上京には80町、下京には53町、合計133町があったので、1町につき5人、ということになると、665人ほどが信長の出迎えに集まった、ということになります。
1町につき5人、と書かれてあるのを見ると、自発的に信長の歓迎に赴いたのではなく、割り当てられて駆り出されたもの、と見るべきでしょう。それを指示したのは町の自治組織であったのか、それとも幕府がやらせたのかはわかりませんが、信長にだいぶ気を遣っていたことが伝わってきます。
山科言継もまた信長の出迎えのために「一条京橋」まで赴いた、と国書刊行会が大正4年(1915年)に出版した『言継卿記 巻四』にあるのですが、「一条京橋」という場所は存在しません。一条戻橋ならあるのですが…。原本を調べてみると、「一条京橋」の「橋」は次のように書かれていました。
では、「一条京極」とはどこなのでしょうか?
京都では交差する道と道の名前を組み合わせてある地点を言い表す文化があります。
つまり、この場合も「一条通」と「京極通」が交わる地点、ということになるのですが、難しいのは「京極通」が二つある、ということです。
「京極」とはその名の通り京都の一番端、という意味なのですが、京都の端というのはもちろん東西二つ存在し、それぞれ「東京極大路」「西京極大路」と呼ばれていたそうです。
では言継は「一条(東)京極」、「一条(西)京極」、どちらの方に出向いたのでしょうか??
それを知る手がかりとなるのは、言継の邸宅の場所です。
『言継卿記』天文3 年(1534年)4月29日条の記述から、言継の屋敷が「六町」にあったことがわかります。
「六町」について、『惟房公記』には「一条二町・正親町二町・烏丸・橘厨子」の合わせて6町のことだ、とあります。
高橋康夫氏は「戦国期京都の町組「六町」の構成と沿革」で、『言継卿記』の記述から、言継の住んでいた町について、「烏丸通の一条と正親町の間」にあったこと、「言継邸がこの「町」の東頬に位置していたこと」を読み解き、その上で、「言継の住む町の固有名称を「烏丸」と推定しても大過ないであろう」としています。
この「六町」にある「烏丸」というのは今の烏丸町の事を指すわけではなく、京都府立府民ホール アルティなどがある龍前町北部周辺にあたり、言継邸は現在の京都御苑の内部、中立売休憩所の辺りにありました。
さて、言継の邸宅の位置がわかったわけですが、この位置は上京でも東の端の方になります。…となると、わざわざ西の端にある「一条(西)京極」に出向くのは不自然であるので、言継は「一条(東)京極」に出向いた、ということになります。
この「一条(東)京極」は、現在の本禅寺・京極小学校周辺になります。
中立売休憩所の辺りからは500mほど離れた場所にあるのですが、『言継卿記』によれば言継はそこまで歩いて行き、信長を出迎えたところ、なんと信長は「下馬」し、「一町」(約109m)ほど一緒に歩いた、といいます。言継に敬意を示したものでしょうか😕
そしてその後信長は再び馬に乗り、「明智十兵衛尉」の屋敷に赴いていますが、言継もここまでついて行ってから帰宅しています。
信長が上洛してまず訪ねたのが明智光秀、ということからその厚遇ぶりが伝わってきますが、この光秀の屋敷というのはいったいどこにあったんでしょうか。ちょっと考えてみようと思います。
ななふるさんのサイトでは、明智光秀の屋敷の場所について、硯屋町か大猪熊町だと推測しています。そう考える理由について、ななふるさんは『言継卿記』の「予、五辻步行之間、一條京極迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乗馬、則明智十兵衛尉所へ被付了」という記述を、「(言継)は五辻の間、馬を下り一町(約110m)ほど信長の行列に同行してまた馬に乗り、一行は明智十兵衛の家に到着した」と解釈し、五辻町を進む際に下馬して歩いて進んだ、五辻町は南北100mほどしかないので、光秀の屋敷は五辻町を通り過ぎてすぐ北にある硯屋町か大猪熊町にあったのではないか…と考えます。
しかしこれは明らかな誤りと言えるでしょう。下馬したのは「一条京極」であって、そこから100mほど進んだのですし、「五辻」というのは五辻町のことではなく、言継に同行した五辻為仲のことです。
それでは光秀の屋敷はどこにあったのか。
※この後の文章は公開しません<(_ _)>

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