社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 4月 2026

2026年4月21日火曜日

大相撲のルーツ!?~常楽寺にて相撲の事

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第13回「疑惑の花嫁」にて、常楽寺での相撲の場面が出てきましたね!

ドラマでは信長と浅井長政が相撲を取って信長の連戦連勝というものでしたが、実際はどのようなものだったのか、『信長公記』などから常楽寺での相撲の様子について見てみようと思います! 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

信長は1月23日に出した触状で「来月中旬」には上洛すると伝えていました。

奈良興福寺の坊官が書いた『二条宴乗記』2月6日条には、「信長、来廿日比上洛可有間、来六日比まで薪能延引。大坂ニても延引由、承也」とあり、奈良にも20日頃に上洛するらしいと伝わっていたようです。

しかし、信長は『信長公記』によれば2月25日と、遅れ気味に岐阜を出発しました。

ただし、この際の『信長公記』の日付はけっこう間違っていると考えられるので、信用できません。

なぜなら、『信長公記』より信頼できる史料である『御湯殿上日記』『言継卿記』『晴右公記』『多聞院日記』がすべて、2月30日に信長が京都に着いた、と記しているのに対し、『信長公記』は3月6日に京都に着いた、と記しているからです😓

6日ずれているので、出発の日にちも6日ずらして考えてみると良いのかもしれません。そうなると岐阜出発の日にちは2月19日となり、「中旬」に出発はできていることになりますね。

この日に信長は赤坂(岐阜県大垣市)まで進み、翌日(20日?)、近江国の常楽寺まで進むと、なぜかここにしばらく留まることになります。

谷口克広氏は『信長と将軍義昭』で、「信長の呼びかけに応じて、畿内・近国の大名たちがぽつぽつと上洛しているから、その様子を見ながら上洛の道を歩んだものと思われる」と述べていますが、各大名・国人衆の出方をうかがっていたのでしょうね。また、信長としては、京都に入るのは一番最後になるようにしたい、という思惑もあったのかもしれません。

信長が近江にとどまっている間に、信長のもとを訪ねてくる者も多くいたようで、『言継卿記』には「公家奉公衆、…江州…へ迎に被行」とあります。

また、『二条宴乗記』20日条には「金吾(松永久通)、信長迎に江州へ被参付、多門山へ、井戸表より、今夕被打入由」とあり、大和国の大名である松永久秀の息子、久通が信長を出迎えるために近江へ向かった、とあります。しかし大和国では松永久秀と筒井順慶の争いが続いており、近江に出かけた今がチャンスとばかりに筒井派が井戸城から打って出て多聞山城を攻撃した、とあります😓

この行動に対し、松永久秀は非常に厳しい対応を取ったようで、『二条宴乗記』には、「廿二日クモリ。…井戸人質ムスメ八ツニ成を犬ククリにて(犬を始末するように?)シメコロシ、井戸ノ城ノキハニ串ニサシテ置被申候。夜、城へ取入申由。同松蔵権介人質ナンジノ十一ニ成をシメコロシ被申候。奈良口ニ串ニサシテ置被申由」、『多聞院日記』には「今日井戸ノムスメ松藏権介息久クロウニ入、アエナク指縄(『日葡辞書』に「麻縄」とある)ニテシメコロシ城ノ近邊ニ串二指了、幷ツゝヰ八条庄屋カ子、菩薩山ニアリシ十七才若衆生害了、其外囚人四人キル、童女童男ニ罪ハナシ、只親ノ?(殺?)ル也、人質ニ出テ篇ヲ替レハ子ニトカナシ、害者モトカハウスキ事歟、アサマシ(嘆かわしい)アサマシ、自他ニヘテ恨敷時節見聞覺知付更不驚、一念菩薩心モ不発、サテモサテモ迷膠深重、サソ大聖キタナクキタナク思召覽」とあり、井戸良弘の8歳になる娘と筒井派の国人の松蔵権介の11歳になる息子が松永方の人質となったいたが、絞め殺されたうえ、娘は井戸城のそばに、松蔵の息子は奈良の町の入り口に串刺しにされ見せしめとされた、とあります。著者の多聞院英俊は、残念な世の中で、このような残酷なことを見聞きしても、驚くことなく、かわいそうと思う心も湧いてこない、なんと罪深い事だろうか、さぞお釈迦様も見苦しくお思いになられていることであろう、と述べており、当時の殺伐とした様子がありありと伝わってきます。

また、『多聞院日記』24日条には「金吾并竹下(竹内秀勝)江州へ信長の在京に付迎に越了」とあり、松永家老の竹内秀勝も近江に向かっていたことがわかります。

さて、信長は近江にしばらく滞在していたわけですが、その間何をしていたのでしょうか?

『信長公記』には、なんと相撲大会を開いた(!)、とあります😅

「三月三日に江州国中の相撲取を召寄せられ、常楽寺にて相撲をとらせ御覧候」

3月3日というのは誤りで、前述のように6日ずれているとするならば、2月27日に相撲大会を実施した、ということになります。

相撲大会の開催について、『甫庵信長記』はイベントを催して楽しむため(「御遊の興を催れんとて」)と記し、『織田軍記(総見記)』は共に上洛していた徳川家康をもてなすため(「是もひとへに徳川殿へ御馳走のためとぞ見えける」)としています。

『信長公記』には、この相撲大会について結構詳しく記してあります。

「人数の事

百済(ひゃくさい)寺ノ鹿・百済寺の小鹿・たいとう・正権・長光・宮居眼左衛門・河原寺ノ大進・はし小僧・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地(あおじ)与右衛門、

此外随分の手取の相撲取共、我も我もと員(かず)を知らず馳集る。其時の行事は木瀬蔵春庵。

鯰江又一郎・青地与右衛門取勝(すぐ)り、これに依って青地・鯰江召出され、両人の者に熨斗付の大刀・脇指下され、今日より御家人に召加へられ、相撲の奉行を仰付けらる。両人面目の至りなり。

爰に深尾又次郎、能き相撲面白く仕候て、御感なされ、御腹(服)下さる。

忝き次第なり」

「百済寺の鹿」など変わった名前はあだ名みたいなもんでしょう。四股名の走りとも言えなくありません。「たいとう」は『織田軍記(総見記)』には「大唐」と書かれています。

特に優れていたのが鯰江又一郎と青地与右衛門で、太刀・脇差を与えられただけでなく織田家臣に取り立てられた、とありますが、『織田信長家臣人名辞典』によれば、鯰江又一郎(秀国)・青地与右衛門は共に元六角家臣であったようです。

このことについて、『戦国日本の津々浦々』さんのサイトでは「優勝した六角氏旧臣の一族を「御家人」に取り立てている。これには政治的儀式の意味合いもあったとみられ、その場所に選ばれた常楽寺の六角旧領における重要性がうかがえる」とあり、六角旧臣との融和も兼ねたイベントだったのかもしれませんね。

また、『今古実録相撲大全』(1884年)には、「元亀元年二月廿五日織田信長公江州常楽寺に於て国中の相撲取共を召集め給ひ勝負を御覧有けるに宮居眼左衛門と云(いへ)る者につづく相手なかりければ御褒美に御秘藏の重藤弓を賜はりける。此御弓は山城国伏見住島田喜内と云古今無双の上手と賞せられし名人の製作なり」とあり、どこから得た情報かわかりませんが、宮居眼左衛門にも弓を与えたとあります。

その後、宮居眼左衛門は相撲を取ることをやめたので、信長が不思議に思ってその理由を尋ねると、眼左衛門は相撲は離れ者にて強き者が勝(かつ)に有ず弱き者が負るに定りたる事成ねば御持弓を取損じ若(もし)敵(あいて)に御大将の弓を渡しては高名空しく成べし」(相撲は組み合ってから始めるものでもないので、力の強いものが必ず勝つと決まっているわけではありません。もし相撲を取って不覚を取った場合には、信長様からいただいた弓を相手に渡すことになり、名声を失ってしまうことになります)と答えたので、それからは別の物を褒美として与えることにしたそうです(「其以後限左衛門相撲取事を辞したりける時に信長公不審し給ひ如何成故にやと御尋問(たずね)有しにと答ければ信長公彼が志ざしを感じ給ひ相撲取節御褒美に御持弓を遣さるる事を止り給ひ其以来御褒美には余の物を下し置給ふとなん」)。

そしてこれが「勝相撲に弓を渡す起り」であり、「勧進相撲の十日目の結びに勝たる関に弓を渡す事此余風なりとぞ」といいます。

現在弓を渡されることは無く、弓取式を行う力士が結びの一番に勝った力士の代わりに弓を受け取っているようです。

相撲を見ていると千秋楽の結びの三番(「これより三役」)において勝った力士に懸賞金の入った袋とは別に物が与えられています(最初の一番は矢[1952年までは扇]、次の取り組みの勝者には弦)が、これは「別の物を与えるようになった」というのと関係しているのでしょうか。『今古実録相撲大全』には、「役相撲三番なるに関ばかりに褒美を渡し其以下本意なしとて近来は関に弓、関脇に弦、小結に扇子(おうぎ)を渡す」とあり、当初は大関にだけ賞品を与えていたのを、他の者が不満に思うようになったので、他の2番にも賞品を与えることになったようです

『甫庵信長記』には大会の様子が少し詳しく記されており(実際に小瀬甫庵が見たかどうかはわからないが)、「皆勝れたる上手にては有、今日を晴と取程に、鴨の入頸、水車、反、捻(ひねり)、投(なげ)なんど云手を、我劣らじと取しかば、何の道にても勝れぬれば奇異にこそ覚ゆれ(どんな物であれ、極めれば珍しいことだと驚かされる)とて、甚だ興ぜさせ給ふ、見物の老若も目をすましけり(見入っていた)」とあります。

鴨の入頸…以下は相撲の決まり手であり、「鴨の入頸」は『日本国語大辞典』に「双方が首を相手のわきの下にさしいれ、そりかえって倒す手。ただし、多くは同体に落ちる。今ではほとんど用いられない」とあります。「水車」は『今古実録相撲大全』(1884年)に「鴨の入頸」と共に四十八手に含まれない「十二の紛(まがい)」として載せられている決まり手です。他には向附(むかうづき)・逆附(さかづき)・鴫羽返(しぎのはがえし。『日本国語大辞典』には「両手を差し、相手の首を自分の胸につけ、その差した手でしめつけるもの」とある)・絹[くさかんむりに関](きぬかずき)・悔(とんぼうがえし)・[常の右に鳥]大意(つみのおおごころ)・繋前後(かけのまえうしろ)・磯并枕(いそのなみまくら)・立眼(たちがん)・居眼(いがん)・猿の一飛(ひととび)・夢枕(ゆめのまくら)があります。これらのほとんどは残念ながらどんな技かわかっていません😓

●常楽寺

さて、この相撲大会の行われた「常楽寺」についてですが、残念ながら現存しておらず、「滋賀県近江八幡市安土町常楽寺」として地名に残るのみです。

『近江蒲生郡史』(1922年)には、常楽寺について次のように記述があります。

「常楽寺は安土村大字(おおあざ)常楽寺にして寺名の村名となりしものなり。常楽寺は沙々貴神社の神宮寺たり。戦国時代に回禄(※火災に遭う事)して其寺名を存するに過ぎず。小字大堂と称する地は古趾なり。其趾より嘗て仏像を発掘せり。今善德寺に保存す。又礎石は法福寺にあり。又百間堀と称する地よりも巨大の毘沙門天像を発掘す。今西性寺に保存す。大正四年耕地整理を行ふに当り地中より花瓶を発掘する等大寺が不慮の災に遇ひ滅亡せし狀を推想せしむ」

常楽寺は戦国時代に火災に遭ったために現存していないようですね😰

文章中の「小字大堂と称する地は古趾なり」というのは場所を知る手がかりとなります。

信長ゆかりの和菓子の老舗、「万吾楼」のサイトには、「梅の川の由来…音堂(おとんど)川ともいう。常楽寺の大堂に所在する湧水をさす。織田信長の臣・武井夕庵が、難波から求めてきた珍茶を、ここの水でいれたところ織田信長が非常に喜び、その後の茶の湯には常に使用したと伝える。また、そう見寺の茶会にも必ずこの水を使用したという」とあり、大堂という場所が「梅の川」近辺であったことがわかります。

梅の川は安土駅(近くに万吾楼がある)から西に徒歩6分の距離(400m)にあり、近くには『蒲生郡史』の記述にもあった善徳寺があります。

また、梅の川から北に徒歩4分(250m)の場所には「常浜」があり、案内看板には「常浜は、かつて琵琶湖に面しており、室町時代は六角氏の観音寺城外港として栄えていました。戦国時代に織田信長の上洛戦で支配下に入り、安土城の港として機能し、信長がこの地を物資輸送・交易・軍事拠点の中心として捉えていたことが伺われ、長浜港や坂本港、湖西高島にある勝野港と琵琶湖の航路を通じて繋がっていました。昭和初期までは実際に船の往来があり、琵琶湖を周航する蒸気船の寄港地として賑わっていました。現在は常浜水辺公園が整備されて人々の憩いの場となっています」と書かれていますが、この「常浜」の港というのは、「滋賀ガイド」のサイトによれば「室町時代から賑わっていた常楽寺港跡を整備して生まれた」とあり、常楽寺港のことであったことがわかります。

滋賀県教育委員会が作成した『近江戦国探訪ガイドブック2 信長の城と戦国近江』には、「常楽寺港…中世からの荘園年貢の積出港として知られています。長命寺文書の中には、赤野井(滋賀県守山市)の年貢を長命寺まで運んできた「常楽寺船人」に対し、食事と宿を提供したことが記されており、中世の常楽寺に水運を生業とする人々がいたことが確認できます。織田信長も、安土築城前から常楽寺を頻繁に利用しており、その港湾機能に注目していた様子がうかがえます。現在は、常浜公園として整備された中に、船入の痕跡が残ります」とあって、常楽寺が港の近くにあった大寺であったことがわかります。

「常楽寺港舟入跡」が常浜の近くに存在していますが、場所を地図で確認すると北川(梅の川・音堂川湧水・北川湧水などから湧き出た水が流れこむ)の上流地点で、北川はまもなく盆川に合流した後さらに山本川に合流、最後に琵琶湖の内湖の一つである「西の湖」につながっており(約1㎞)、直接琵琶湖に面しているわけではありません。

●相撲モニュメント

安土駅南側にはなんと相撲モニュメント(力士の像)があります😦これは2019年に設置されたもので、滋賀報知新聞の記事には、「織田信長が催した常楽寺相撲を伝える JR安土駅の南口広場にこのほど、織田信長が相撲を愛した地であることを伝える相撲モニュメントが設置され、(2月)10日、除幕と入魂式が行われた。…旧安土町時代には1988(昭和63)年、同駅南広場に土俵や相撲やぐらが設置され、大相撲の巡業も行われるなど相撲がまちのシンボルとして親しまれていた。老朽化のため同駅整備事業の着手とともに2014(平成26)年に撤去されたが、地元有志がモニュメントの設置を企画。市民の寄付を募り、同駅南北広場の整備完了に合わせて完成を迎えた。モニュメントは地元の石材店が力士2人の力強く取り組みあう姿を白色の御影石で2か月かけて彫り上げた。高さ1・6メートル、縦横1・8メートルで、製作費は350万円。高さ1・3メートルの台座に鎮座している」とあります。相撲やぐらなどが撤去されていたのはもったいないですね…😓

相撲モニュメント近くの石碑には、次の文章が刻まれています。

「安土と相撲 元亀元年(一五七〇)三月三日、織田信長は近江国中から相撲取りを集め、常楽寺で相撲を取らせました。多くの相撲取りが集まり、成績のよかった鯰江又一郎 青地与右衛門に太刀・脇指を与え、家臣として取り立てました。安土築城後は安土山を会場として、天正六年(一五七八)に二月・八月・九月の三回、天正七年(一五七九)に七月・八月の二回、天正八年(一五八〇)に五月二回と六月三回、天正九年(一五八一)四月に一回と毎年のように相撲を行っています。いずれも大勢の相撲取りを集め、成績の優秀なものに褒美を与えるとともに、相撲を大勢の家臣たちに見物させるなど、こんにちの大相撲のような興業として実施しています。相撲は元来、神事でしたが、奈良時代以降「相模節会(すまいのせちえ)」として宮中の年中行事となりました。また、鎌倉時代以降、武芸の鍛錬として武士の間にも広く定着していきました。そうした相撲のあり方を、相撲興業のような形に変化させたのが織田信長なのです。ここ常楽寺で織田信長により行われた相撲は、大相撲のルーツといえるでしょう」

意外ですけど信長は事あるごとに人々を楽しませるようなイベントを実施、その見物を民衆に開放しているんですよね(例えば二条城の建設の様子も自由に見ることを許し、大石を運ぶ様子もエンターテインメント化した)。

宮中で行われていた三毬打(さぎちょう)も民衆に公開されていましたし、当時はいろいろとオープンで、為政者と民衆の心理的な距離は実はそれほど遠くなかったのかもしれません。




2026年4月8日水曜日

上洛要請の触状~呼ばれなかった男

 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


『二条宴乗記』2月15日条には、信長が諸国の大名に上洛を求めた書状の内容が載せられています(奥野高広氏の『織田信長文書の研究』と天理図書館報『ビブリア』にその全文が収められているが、『ビブリア』の翻刻のほうが正確だと思われるのでこちらを採用する)。

一、就信長上洛、可有在京衆中事

[信長上洛に就きて在京あるべき衆中の事]

北畠大納言[具教](同北伊勢諸侍中)

德川三河守殿 [家康](同三河遠江諸侍衆)

姉小路中納言殿[嗣頼](同飛騨国衆)

山名殿父子[韶凞(祐豊)・棟豊](同分国衆)

畠山殿[秋高](同奉公衆)

遊佐河内守[信教]

三好左京太夫殿[義継]

松永山城守[久秀](同和州[大和]諸侍衆)・同右衛門佐[久通]

松浦孫五郎[和泉国岸和田城主。義継の弟。和泉国守護代家松浦氏の養子となる](同和泉国衆)

別所□(小?)三郎[長治](同播磨国衆)・同孫左衛門[孫「右」衛門の誤りか。重宗。長治の叔父](同国名衆)

丹波国悉(「衆」の誤りか)

一色左京大夫殿[義員](同丹後国衆)

武田孫犬丸[元明。永禄11年(1568年)に朝倉氏の信仰を受け越前国に拉致され、以後、天正元年(1573年)に朝倉氏が滅亡するまで越前国にあったので、この時も越前国にいた](同若狭国衆)

京極殿[高吉。妻は浅井長政の姉であるが、台頭する家来筋の浅井氏に抵抗して浅井氏と争い、敗北して北近江の支配権を失う。当時は浅井氏の庇護を受けて上平寺城(米原市)に隠居していた](同浅井備前[長政])

同尼子[尼子氏は京極の一族。1566年に戦国大名としての出雲尼子氏は滅亡しているので、近江尼子氏の事だと思われる]

同七佐々木[近江国高島郡にあった佐々木一族の高島七頭のことか。高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の七家があった]

 同木林源五父子[木「村」の誤り。近江の国人。高重・高次のこと。高重は『織田信長家臣人名辞典』によれば元六角家臣で、その後信長の奉行衆として活躍している]

同江州[近江国]南諸侍衆

紀伊国衆

越中神保名代

能州[能登畠山氏]名代

甲州[甲斐武田氏]名代

淡州[淡路安宅氏]名代

因州[因幡]武田[高信]名代

備前衆名代[宇喜多氏か]

池田[勝正]・伊丹[忠親]・塩河[長満。『織田信長家臣人名辞典』には「摂津多田の人。塩河党を率いて摂津国内に勢力を張る。…摂津の三守護と同じ幕臣の身分であろう」とある]・有右馬[有馬の誤りか。則頼]

此外其寄々之衆として可申触事[この内容を以上の者たちの近辺の者たちにも伝達する事]

同触状案文[下書きの文書]

禁中御修理武家御用、其外為天下弥静謐[その外天下いよいよ静謐のため]、来中旬可参洛之条[来たる中旬参洛すべく候条]、各御上洛、御礼被申上[御礼を申し上げられ]、馳走肝要候。不可有御延引候[御延引あるべからず候]。恐々謹言 

正月廿三日 信長 

依仁躰、文体可有上下[受け手の立場に応じて文体を変えるべき事]


各地の大名や国人衆に宛てて、「来月中旬に私は上洛するつもりです、貴方たちも上洛して天皇や幕府に挨拶に赴き、内裏の修理や将軍への奉仕など、天下が治まるようにするために、働くべきです、このことを先延ばしなさらないようにしてください」…という内容の書状です。

気になるのは、興福寺の坊官である二条宴乗がなぜこの触状の下書を入手できているのか、ということですが、このことについては、橋本政宣氏が「織田信長と朝廷」(『戦国大名論集』所収)で次のように詳細な検討を加えています。

…これを筆録した興福寺一乗院門跡の坊官二条宴乗は、京都より北小路俊直の許に到来したのを写したと記している。宛名の交名・注記を伴う点からして、これが作成者ないし関係者側から流れた写しであることは誰しも異論はなかろう。俊直は、近衛家の諸大夫で、この頃には、近衛前久の息尊勢が一乗院に入室していた関係からか、同院に寄寓しており、大坂浪居中の前久の許にもしばしば赴いていたことが『宴乗記』によって知られる。また信長の意をうけ義昭への条書承認の交渉に当った日乗は、近衛家とは密接な関係にあり、京都の日乗よりの来信記事は『宴乗記』にも散見する。これらのことを勘案すると、宴乗が筆録した触状案は、日乗から伝えられたものと推定して大過ないように思われる。…

近衛家と関係の深かった日乗が、近衛家に仕え、当時は興福寺に身を寄せていた北小路俊直に渡したのではないか、というのですね。

また、この触状は1月23日に出されていることがわかるのですが、これは「五ヶ条の条書」と同日であり、ここから、橋本氏は「触状は諸大名等に対するものではあるが、その内容は義昭も承知しておくべきものであったであろうし、条書は義昭によって承認されるべきものであったから、触状は条書と共に日乗・光秀を通して義昭に呈示され、『宴乗記』所引の触状案こそ呈示されたときの形式を伝えるものものと考えられるのである」とし、触状と条書との関係性を指摘しています

他にも池上裕子氏は『織田信長』で、信長は条書により、「みずからの名において、天下静謐のためという大義名分を掲げて、一定の範囲の大名を動員する権限を獲得」していたが、これを触状を出すことで「行使」した、とし、

桐野作人氏は『織田信長』で、「諸国の大名や国衆に対する軍事動員権は本来、室町殿たる義昭が有している。ここで想起されるのが先の条書の第四条である。信長は「天下の儀」を義昭から委任されているのだから、義昭の上意を得ずとも、自分の裁量で処置できるという趣旨だった。信長はこの触状を独自に出すために、条書が必要だったという見方も可能である」と述べています。

諸国の大名へ上洛を求めるというのは、本来は将軍権力に属する事です。それを信長は実行するために、信長は「五ヶ条の条書」で、「天下静謐に関する問題に対する権利」の委任を義昭に認めさせ、「天下静謐のため」という名目で諸国の大名や国人衆に上洛の号令をかけた、というのですね。

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