社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 5月 2026

2026年5月21日木曜日

「名物狩り」、第二弾!~名物召置かるるの事

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

信長は永禄12年(1569年)4月ごろに名物狩りを実施しましたが、永禄13年(1570年)の上洛中にその第二弾を行ないました。

『信長公記』には次のように書かれています。

名物 召し置かるるの事

去る程に天下に隠れ無き名物、堺にこれある道具の事

  天王寺屋宗及 (津田宗及)  一、菓子の絵

  薬師院          一、小松島

  油屋常祐         一、柑子口

  松永弾正(久秀)       一、鐘の絵

何れも覚えの一種共に候。 召し置かれたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて仰せ出ださる。違背申すべきに非ず侯の間、違議なく進上。則ち、代物金銀をもって仰せ付けられ候キ。

(堺衆の持っていた名物四点について信長がそばに置きたいと思っているということを、松井友閑・丹羽長秀が堺に赴いて伝えたところ、「ご命令に背くなど滅相もないことでございます」ということで、異議なく進上した。そこで、金銀をもってこれを買い上げた)

今回の名物狩りがいつ行われたか、ということについて『信長公記』には書かれていないのですが、今井宗久の書き残した茶会記(『今井宗久茶湯書抜』)には「四月朔日」とあります。日にちについては『甫庵信長記』にも「四月朔日」とあります。どこからこの情報を仕入れたんでしょうか。『甫庵信長記』は信憑性が低いと言われていますが、こういうのを見ると、正確な部分も多いのではないか?と考えさせられます。

名物狩りについて、その『甫庵信長記』は次のように記します。

「同四月朔日、和泉国堺浦にて富める者共が求蓄たる名物の道具共御覧有べしとて、友閑法印、丹羽五郎左衛門尉長秀に被仰付けり、両人承て、堺の南北触しかば、所持の者共、此度奉らではとて持参る程に、いくらともなく集けり、信長卿一々御覧有て、勝れたるを留置れしは、先天王寺屋の宗及が菓子の絵、薬師院の小松島、油屋の常祐が柑子ロなり、則応じたる貨(あたい)より遥に過分に玉わりしかば、三人の者共は、頓に徳付たるようにぞ見えたりける、松永弾正少弼も鐘の絵を進上申しけり」

『甫庵信長記』は、『信長公記』と異なり、松井友閑・丹羽長秀は名物狩りを触れ回っただけで、集まった名物は信長が直接一つ一つ確認し、特に優れた物を選びとったことになっています。

※この後の部分は公開いたしません<(_ _)>

2026年5月14日木曜日

信長宿所の門前市を成す!贈答品は山の如し⁉

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●信長の宿所

参内を終えた信長は『言継卿記』によれば「半井驢庵」の屋敷に赴いてここに泊まっていますが、半井驢庵とは誰なのでしょうか?

『甫庵信長記』を見ると「医師半井驢庵所」、『織田軍記(総見記)』には「典薬頭半井驢庵」とあり、半井驢庵とは医者、それも典薬頭…朝廷の医師の最高職に就いていた者であったことがわかります。

半井氏は石野瑛氏「大医和気・半井家系の研究」によれば、もともと和気清麻呂で有名な和気氏の家系で、和気清麻呂の五男・真綱(参議)の孫、時雨(ときふる。899~965年)の時にはじめて典薬頭となります。『日本人名大辞典』によれば、母が当時の典薬頭の娘で、その縁で医学を学び、それが認められて侍医・鍼博士・医博士となり、ついには最高職の典薬頭までのぼりつめたのだといいます。その後和気氏は代々典薬頭を務めるようになりましたが、その後、戦国時代に至り、「半井」に姓を改めることになります。

ナカライテスク株式会社(試薬メーカー)のサイト内の「半井のいわれ」によれば、「和気家は京都御所施薬院の故地(京都御所内の烏丸通りに面した正親町、現在の中立売)に住み、そこで典薬頭として仕えていましたが、その邸内に大井戸があり、その水が極めて清らかで美味であったので、その井戸水の半側で主上の御薬を製し、残りの半側を自家の日常用水に充てていました。そのことが後柏原天皇[在位:1500~1526年]の叡聞に入り、天皇から「半井」という姓を贈られ、以来「和気」を「半井」と改めました」といいます。

「大医和気・半井家系の研究」には、初めて半井姓を名乗ったのは明親(?~1547年)の代とありますが、石原力氏「三位法眼と半井明重」によれば、「一四五一年和気明茂が従三位に叙せられたとき半井姓が既に記されている」そうなので、実際は「半井」と名乗ったのはもっと早かったのでしょう。

さて、この半井明親は永正(1504~1521年)の頃、明に渡り、『半井先祖書』によればなんと中国の当時の皇帝の武宗(正徳帝。1491~1521年)の病を治すことに成功したので、銅硯と驢馬2頭を与えられ、帰国した後、朝廷にそのうち驢馬1頭を献上したので、「驢庵」の号を贈られたのだといいます。どこまで本当なんでしょうか…😅

その後、半井家の当主は代々「驢庵」を名乗ることになるのですが、信長が泊まった時の「半井驢庵」はその2代目で、正親町天皇から「通仙院」の号を与えられた光成(瑞策。1522~1596年)になります。

さて、半井驢庵がどういう人物かはわかったのですが、ではどうして信長は半井驢庵の屋敷に泊まったのでしょうか?

河内将芳氏は『織田信長と京都』で、「驢庵の屋敷が、『言継卿記』永禄十年(一五六七)四月二十二日条にみえるように、「山里」や「花園林」、あるいは「二階の亭茶湯座敷」をそなえた風雅なところであった点は理由のひとつとして考えられよう」と推測されていますが、先に述べたように半井驢庵の屋敷は「烏丸通りに面した正親町」(江戸時代前期に作られた『京雀』には「烏丸通」と「中だちうり(中立売。正親町小路とも)」が交わるその南側にあった「廬菴町」の中の「ひがし側」に「典薬頭廬菴法印」の家があった、とある。烏丸小路と正親町小路の交わる南側というと、南東部と南西部のどちらかということになるが、『中昔京師地図』を見ると、南西部には「親長卿」[甘露寺親長邸]と「浄花院」[清浄華院]が描かれており、「廬菴町」が南東部にあったことがわかる。つまり、半井驢庵の屋敷は南東部の東側、内裏に最も近接した場所にあったことがわかる。天皇の一大事にすぐに駆けつけられるようにするためであろう)にあり、この場所は内裏に非常に近く、二条城にも比較的近い場所にあります。

そのため、河内氏は、

・この場所であれば、義昭御所から北へ三〇〇メートルも離れていない。おそらく、そのような立地も、信長が「半井驢庵所」に入った理由のひとつと考えられよう。

・あらためて故地に立ってみると、この地が内裏にも近いことが実感できる。信長が「半井驢庵所」に入ったのは、義昭御所との距離もさることながら、内裏に近かったことも理由のひとつであったのかもしれない。

…と述べています。

※残りの部分は公開いたしません<(_ _)>

2026年5月8日金曜日

大歓迎を受ける信長~御上洛の事

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

常楽寺で相撲大会を開いた 信長は、いよいよ上洛する事になりますが、常楽寺から京都に向かったルートについて『信長公記』は記していません。

手がかりとなるのは『言継卿記』の「公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、坂本、山中等へ迎に被行」という記述で、公家・奉公衆が信長の出迎えに行った場所というのが、おそらく信長の通ったルートであったと考えられます。

おそらく信長は常楽寺あたりから船に乗り、堅田に上陸、南下して坂本に至った後、山中越えで京都に入ったのでしょう。

京都に入った日について、『信長公記』は3月5日としますが、先に述べたようにこれは誤りで、

・『御湯殿上日記』2月30日条…「のふなか(信長)のほり(上り)たるとて…」

・『言継卿記』2月30日条…「織田弾正忠信長申刻(午後4時頃)上洛」

・『晴右公記』2月30日条…「信長上洛」

・『多聞院日記』3月2日条…「信長去晦日(30日)に在京了

以上の日記に書かれてあるように、2月30日が上洛の正しい日にちになります。

『多聞院日記』に「無人数也」とあるように、信長は少人数で京都に入ったようで、これは、2月2日に参内のため3千人を引き連れて内裏を訪れた足利義昭と対照的です(『言継卿記』)。

●大歓迎を受ける信長

先に公家・奉公衆が信長の出迎えのためにわざわざ近江国まで赴いた、ということを記しましたが、他にも『言継卿記』にはなんと、京都の町人たちが「一町」(京の町は碁盤の目状にできていたが、その正方形の一辺と向かい合う一辺とで一つの町=両側町を形成していた。河内将芳氏『信長が見た戦国京都』によれば、一辺につき15~30軒の町屋が並んでいた)につき5人ずつの割合で、山中越えを終え京都に入る荒神口[白川口]に向かう途中にある吉田まで出迎えに行った(「上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向」)、という記述があります。

元亀3年(1572年)に書かれた『上下京御膳方御月賄米寄帳』には、上・下京にあった町の名前が記録されているのですが、それによれば上京には80町、下京には53町、合計133町があったので、1町につき5人、ということになると、665人ほどが信長の出迎えに集まった、ということになります。

1町につき5人、と書かれてあるのを見ると、自発的に信長の歓迎に赴いたのではなく、割り当てられて駆り出されたもの、と見るべきでしょう。それを指示したのは町の自治組織であったのか、それとも幕府がやらせたのかはわかりませんが、信長にだいぶ気を遣っていたことが伝わってきます。

山科言継もまた信長の出迎えのために「一条京橋」まで赴いた、と国書刊行会が大正4年(1915年)に出版した『言継卿記 巻四』にあるのですが、「一条京橋」という場所は存在しません。一条戻橋ならあるのですが…。原本を調べてみると、「一条京橋」の「橋」は次のように書かれていました。

なんと、これは「極」です😨
「橋」は、
これであって全然違います。これは翻刻のミスでしょう😓
つまり、正しくは一条京「極」まで出向いた、ということになります(『大日本史料』では「一条京極」となっている…必死に一条京橋を探していたのが悲しい😭)。

では、「一条京極」とはどこなのでしょうか?

京都では交差する道と道の名前を組み合わせてある地点を言い表す文化があります。

つまり、この場合も「一条通」と「京極通」が交わる地点、ということになるのですが、難しいのは「京極通」が二つある、ということです。

「京極」とはその名の通り京都の一番端、という意味なのですが、京都の端というのはもちろん東西二つ存在し、それぞれ「東京極大路」「西京極大路」と呼ばれていたそうです。

では言継は「一条(東)京極」、「一条(西)京極」、どちらの方に出向いたのでしょうか??

それを知る手がかりとなるのは、言継の邸宅の場所です。

『言継卿記』天文3 年(1534年)4月29日条の記述から、言継の屋敷が「六町」にあったことがわかります。

「六町」について、『惟房公記』には「一条二町・正親町二町・烏丸・橘厨子」の合わせて6町のことだ、とあります。

高橋康夫氏は「戦国期京都の町組「六町」の構成と沿革」で、『言継卿記』の記述から、言継の住んでいた町について、「烏丸通の一条と正親町の間」にあったこと、「言継邸がこの「町」の東頬に位置していたこと」を読み解き、その上で、「言継の住む町の固有名称を「烏丸」と推定しても大過ないであろう」としています。

この「六町」にある「烏丸」というのは今の烏丸町の事を指すわけではなく、京都府立府民ホール アルティなどがある龍前町北部周辺にあたり、言継邸は現在の京都御苑の内部、中立売休憩所の辺りにありました。

さて、言継の邸宅の位置がわかったわけですが、この位置は上京でも東の端の方になります。…となると、わざわざ西の端にある「一条(西)京極」に出向くのは不自然であるので、言継は「一条(東)京極」に出向いた、ということになります。

この「一条(東)京極」は、現在の本禅寺・京極小学校周辺になります。

中立売休憩所の辺りからは500mほど離れた場所にあるのですが、『言継卿記』によれば言継はそこまで歩いて行き、信長を出迎えたところ、なんと信長は「下馬」し、「一町」(約109m)ほど一緒に歩いた、といいます。言継に敬意を示したものでしょうか😕

そしてその後信長は再び馬に乗り、「明智十兵衛尉」の屋敷に赴いていますが、言継もここまでついて行ってから帰宅しています。

信長が上洛してまず訪ねたのが明智光秀、ということからその厚遇ぶりが伝わってきますが、この光秀の屋敷というのはいったいどこにあったんでしょうか。ちょっと考えてみようと思います。

ななふるさんのサイトでは、明智光秀の屋敷の場所について、硯屋町か大猪熊町だと推測しています。そう考える理由について、ななふるさんは『言継卿記』の「予、五辻步行之間、一條京極迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乗馬、則明智十兵衛尉所へ被付了」という記述を、「(言継)は五辻の間、馬を下り一町(約110m)ほど信長の行列に同行してまた馬に乗り、一行は明智十兵衛の家に到着した」と解釈し、五辻町を進む際に下馬して歩いて進んだ、五辻町は南北100mほどしかないので、光秀の屋敷は五辻町を通り過ぎてすぐ北にある硯屋町か大猪熊町にあったのではないか…と考えます。

しかしこれは明らかな誤りと言えるでしょう。下馬したのは「一条京極」であって、そこから100mほど進んだのですし、「五辻」というのは五辻町のことではなく、言継に同行した五辻為仲のことです。

それでは光秀の屋敷はどこにあったのか。

※この後の文章は公開しません<(_ _)>

新着記事

「名物狩り」、第二弾!~名物召置かるるの事

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● 信長は永禄12年(1569年)4月ごろに名物狩りを実施しましたが、永禄13年(1570年)の上洛中にその第二弾を行ないました。 『信長公記』には次のように書かれています。 名物 召し置かるるの事 去る程に天下に隠れ無き名物、堺にこ...

人気の記事