※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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朝倉攻めは非常に大がかりな出陣となったわけですが、この出陣について、諸史料には次のように書かれています。
『二条宴乗記』…「信長は越前入とて悉立被申由也」
『継芥記』…「越州へとも云々」
『多聞院日記』…「越前へ手遣、江州北方及鉾楯云々、如何可成行哉」
『信長公記』…「信長公京都より直に越前へ御進発」
『甫庵信長記』…「越前の国発向せらるべきとて」
『織田軍記(総見記)』…「越前へ御出馬なり」
『佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第』・『粟屋勝久戦功記』…「越前義景を御攻可有之とて」
『国吉篭城記』…「越前の国発向せらるべきとて」
『浅井三代記』…「越前國へ発向有べき」
『武徳編年集成』…「越前太守朝倉左衛門督日下部姓義景を攻撃ん」
『絵本太閤記』…「越前の朝倉義景を誅戮せんとて」
『徳川実紀』…「信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ」
みな朝倉義景を討つために出陣した、と述べているのですが、研究者によってはこれを否定する意見があるのですね😬
朝倉討伐のための出陣、を否定するのは久野雅司氏です。
久野氏は、信長が7月10日に毛利元就に宛てて出した書状に「若狭国の端にいる武藤という者が「悪逆」(『日葡辞書』には「邪悪な行為」、『日本国語大辞典』には「主君や父にあだするような罪悪」とある。将軍に敵対行為をしたことを指すか)を企んだので、これを征伐するようにと、将軍から命令が下ったので、4月20日に出陣しました」(「若狭之国端に武藤与申者、企悪逆之間、可致成敗之旨、為上意被仰出之間、去四月廿日出馬候」)(「毛利家文書」)とあることから、「信長の目的は…武藤氏討伐だったことは間違いない」(『織田信長政権の権力構造』)とします。

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