社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 上洛要請の触状~呼ばれなかった男

2026年4月8日水曜日

上洛要請の触状~呼ばれなかった男

 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


『二条宴乗記』2月15日条には、信長が諸国の大名に上洛を求めた書状の内容が載せられています(奥野高広氏の『織田信長文書の研究』と天理図書館報『ビブリア』にその全文が収められているが、『ビブリア』の翻刻のほうが正確だと思われるのでこちらを採用する)。

一、就信長上洛、可有在京衆中事

[信長上洛に就きて在京あるべき衆中の事]

北畠大納言[具教](同北伊勢諸侍中)

德川三河守殿 [家康](同三河遠江諸侍衆)

姉小路中納言殿[嗣頼](同飛騨国衆)

山名殿父子[韶凞(祐豊)・棟豊](同分国衆)

畠山殿[秋高](同奉公衆)

遊佐河内守[信教]

三好左京太夫殿[義継]

松永山城守[久秀](同和州[大和]諸侍衆)・同右衛門佐[久通]

松浦孫五郎[和泉国岸和田城主。義継の弟。和泉国守護代家松浦氏の養子となる](同和泉国衆)

別所□(小?)三郎[長治](同播磨国衆)・同孫左衛門[孫「右」衛門の誤りか。重宗。長治の叔父](同国名衆)

丹波国悉(「衆」の誤りか)

一色左京大夫殿[義員](同丹後国衆)

武田孫犬丸[元明。永禄11年(1568年)に朝倉氏の信仰を受け越前国に拉致され、以後、天正元年(1573年)に朝倉氏が滅亡するまで越前国にあったので、この時も越前国にいた](同若狭国衆)

京極殿[高吉。妻は浅井長政の姉であるが、台頭する家来筋の浅井氏に抵抗して浅井氏と争い、敗北して北近江の支配権を失う。当時は浅井氏の庇護を受けて上平寺城(米原市)に隠居していた](同浅井備前[長政])

同尼子[尼子氏は京極の一族。1566年に戦国大名としての出雲尼子氏は滅亡しているので、近江尼子氏の事だと思われる]

同七佐々木[近江国高島郡にあった佐々木一族の高島七頭のことか。高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の七家があった]

 同木林源五父子[木「村」の誤り。近江の国人。高重・高次のこと。高重は『織田信長家臣人名辞典』によれば元六角家臣で、その後信長の奉行衆として活躍している]

同江州[近江国]南諸侍衆

紀伊国衆

越中神保名代

能州[能登畠山氏]名代

甲州[甲斐武田氏]名代

淡州[淡路安宅氏]名代

因州[因幡]武田[高信]名代

備前衆名代[宇喜多氏か]

池田[勝正]・伊丹[忠親]・塩河[長満。『織田信長家臣人名辞典』には「摂津多田の人。塩河党を率いて摂津国内に勢力を張る。…摂津の三守護と同じ幕臣の身分であろう」とある]・有右馬[有馬の誤りか。則頼]

此外其寄々之衆として可申触事[この内容を以上の者たちの近辺の者たちにも伝達する事]

同触状案文[下書きの文書]

禁中御修理武家御用、其外為天下弥静謐[その外天下いよいよ静謐のため]、来中旬可参洛之条[来たる中旬参洛すべく候条]、各御上洛、御礼被申上[御礼を申し上げられ]、馳走肝要候。不可有御延引候[御延引あるべからず候]。恐々謹言 

正月廿三日 信長 

依仁躰、文体可有上下[受け手の立場に応じて文体を変えるべき事]


各地の大名や国人衆に宛てて、「来月中旬に私は上洛するつもりです、貴方たちも上洛して天皇や幕府に挨拶に赴き、内裏の修理や将軍への奉仕など、天下が治まるようにするために、働くべきです、このことを先延ばしなさらないようにしてください」…という内容の書状です。

気になるのは、興福寺の坊官である二条宴乗がなぜこの触状の下書を入手できているのか、ということですが、このことについては、橋本政宣氏が「織田信長と朝廷」(『戦国大名論集』所収)で次のように詳細な検討を加えています。

…これを筆録した興福寺一乗院門跡の坊官二条宴乗は、京都より北小路俊直の許に到来したのを写したと記している。宛名の交名・注記を伴う点からして、これが作成者ないし関係者側から流れた写しであることは誰しも異論はなかろう。俊直は、近衛家の諸大夫で、この頃には、近衛前久の息尊勢が一乗院に入室していた関係からか、同院に寄寓しており、大坂浪居中の前久の許にもしばしば赴いていたことが『宴乗記』によって知られる。また信長の意をうけ義昭への条書承認の交渉に当った日乗は、近衛家とは密接な関係にあり、京都の日乗よりの来信記事は『宴乗記』にも散見する。これらのことを勘案すると、宴乗が筆録した触状案は、日乗から伝えられたものと推定して大過ないように思われる。…

近衛家と関係の深かった日乗が、近衛家に仕え、当時は興福寺に身を寄せていた北小路俊直に渡したのではないか、というのですね。

また、この触状は1月23日に出されていることがわかるのですが、これは「五ヶ条の条書」と同日であり、ここから、橋本氏は「触状は諸大名等に対するものではあるが、その内容は義昭も承知しておくべきものであったであろうし、条書は義昭によって承認されるべきものであったから、触状は条書と共に日乗・光秀を通して義昭に呈示され、『宴乗記』所引の触状案こそ呈示されたときの形式を伝えるものものと考えられるのである」とし、触状と条書との関係性を指摘しています

他にも池上裕子氏は『織田信長』で、信長は条書により、「みずからの名において、天下静謐のためという大義名分を掲げて、一定の範囲の大名を動員する権限を獲得」していたが、これを触状を出すことで「行使」した、とし、

桐野作人氏は『織田信長』で、「諸国の大名や国衆に対する軍事動員権は本来、室町殿たる義昭が有している。ここで想起されるのが先の条書の第四条である。信長は「天下の儀」を義昭から委任されているのだから、義昭の上意を得ずとも、自分の裁量で処置できるという趣旨だった。信長はこの触状を独自に出すために、条書が必要だったという見方も可能である」と述べています。

諸国の大名へ上洛を求めるというのは、本来は将軍権力に属する事です。それを信長は実行するために、信長は「五ヶ条の条書」で、「天下静謐に関する問題に対する権利」の委任を義昭に認めさせ、「天下静謐のため」という名目で諸国の大名や国人衆に上洛の号令をかけた、というのですね。

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