社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 木造家、謀叛!~勢州国司家騒動の事

2024年12月13日金曜日

木造家、謀叛!~勢州国司家騒動の事

 京都に二条城を築き、三好氏への備えを十分にした信長は、

続いて南伊勢の攻略に乗り出します。

南伊勢にいるのは、あの北畠親房・顕家を輩出した名門・北畠氏でした…🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



●伊勢の国司・北畠氏

北畠氏は伊勢の国司を長く務めた名門です。

その始まりは村上天皇(926~967年)の第七皇子、具平親王の子が臣籍に降下し、源氏の姓を与えられて「源師房」(1008~1077年)と名乗ったことに始まります。

源氏といえば鎌倉幕府を開いた源頼朝が思い浮かびますが、頼朝は清和天皇(850~881年)の子孫であり、北畠氏とは関係はありません。

清和天皇の子孫は「清和源氏」、村上天皇の子孫は「村上源氏」と呼ばれますが、北畠氏はこの村上源氏出身だったわけです。

源師房は藤原道長の娘・尊子を妻にし、師房の娘の麗子は道長の子、頼通の子で関白となった藤原師実に嫁いでおり(しかも産んだ子の師通は関白となり、その子孫は藤原氏の本流である近衛家となっている)、藤原氏と関係を密に結んだ人物で、その関係のためか自身も右大臣まで昇っていますから、なかなかに力のあった人物でした。

師房の長子の俊房は父を超える左大臣となり、次子の顕房も右大臣となっていますが、次子の顕房の子の雅実は、白河天皇が愛した中宮・賢子の弟で、その賢子が堀河天皇を産んだという関係から白河天皇に引き立てられ、源氏で初めて最高職の太政大臣にまで昇っています。そしてこの人物が、北畠氏の祖先にあたる人物なのです。

雅実の子・顕通(権大納言)の時から久我家と呼ばれるようになり、この顕通が41歳の若さで亡くなったため、弟の雅定(右大臣)が中継ぎとなり、兄・顕通の子を養子として跡を継がせました。これが雅通(右大臣)です。2人の名前を合体させていますね。その子が通親(内大臣)なのですが、この5男の通方(大納言)の次男の雅家(1215~1274年。権大納言)が洛北の北畠に屋敷を構えたことから、その子孫は北畠家と呼ばれるようになるのです。

雅家の子の師親(権大納言)の子が師重(権大納言)、そしてこの師重の子が、あの南北朝の争乱で活躍し、『神皇正統記』を著した北畠親房(1293~1354年。大納言)なのです!親房の子で、足利尊氏をさんざんに苦しめた顕家も有名ですね。1336年、親房は子の顕信・顕能と共に伊勢に下り、ここを南朝方の拠点とするために玉丸城を築きます。1338年、親房・顕信は常陸に移り、伊勢を任されたのが顕能(権大納言)で、この年には伊勢国司に就任しています。青年はわかっていませんが長男の顕家が1318年生まれなので、それ以降に産まれたと考えると、この時まだ10代の若さだったことになります。これが伊勢国司家の始まりです。顕能は北朝方に押され1342年に玉丸城を失って多芸(多気とも書くが、『伊勢国司記略』は、古本には皆「多芸」とあり、「多気」とは書いていないので、「多気とかけるはよからず」「多気」とは郡名で、これと混同している、多芸が多気郡にあると思っている者がいるが、これは誤りで、多芸は一志郡にある、と書いている。また、読み方は現在は「たげ」であるが、正しくは「たき」であるという。その根拠として、日本書紀や万葉集では「芸」は「き」の万葉仮名として使用されていることを挙げている。後述するが、永禄元年[1558年]に多芸谷を訪れた山科言継は、『言継卿記』に多芸のことを「多木」と書いているが、これはおそらく当て字で、ここからも、当時は「たき」と呼ばれていたことがわかる)に逃れますが、この後、伊勢国司北畠家が滅びるまで、この多気が本拠となります。

顕能が1383年に亡くなると、長男の顕泰(権大納言)が跡を継ぎますが、1392年、南北朝が北朝のもとに統一されると、北畠家も北朝に従い、その領地を安堵されています。『勢州軍記』には、その領地は、南伊勢の一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡と、大和の宇陀郡の計6郡であった、と書かれていますが、実際は、南伊勢5郡のうち北畠家の領地は一志郡・飯高郡のみで、残りの3郡は伊勢神宮領であったようです。顕能は1393年、伊勢神宮を参詣した足利義満をもてなしています。この際、子の親能は義満の「満」の字を与えられて「満泰」と名を改めています。1399年に応永の乱が起こると、顕泰・満泰父子はこれに参加、満泰が戦死しています。『応永記』によるとこの際、顕泰は「子や若党(若い家来)を多く失ってこそ、軍功を立てることができるのだ」と言ったといいます。

さて、顕泰死後、跡を継いだのは戦死した満泰の弟の満雅で、満雅は応永22年(1415年)2月、なんと伊勢にあった幕府奉公衆の城を攻撃してこれを攻め落とし、幕府に対して反乱を起こします(『南方紀伝』によると、前年の9月に既に挙兵、関一党・大和・伊賀・伊勢・志摩の者が集合した、とある)。南北朝合一後も南朝方の勢力はなおも残存しており、満雅は南朝を復活させるために挙兵したのです。一方で弟の俊泰は北朝方に味方したので、満雅はこれを攻めて居城の坂内城を攻め落とします。そして木造・阿射賀(阿坂)・大河内・坂内・玉丸などの城に兵を送ってこれを守らせたのですが、弟の雅俊に木造城を、顕雅に大河内城を守らせ(『伊勢国司記略』には、この後「子孫代々ここにすみ、大河内御所と称す」とある。しかし実際は、小林秀氏『伊勢国司北畠氏の領域支配の一側面』によれば、初代顕雅の次は甥である本家当主の子が継ぎ、その次は本家当主の兄の子、次も本家当主の兄の子…といったように、大河内当主の子が跡を継いでいったわけではないのだという)、自身は阿射賀(阿坂)城に籠もりました。しかし討伐にやって来た北朝方の前に満雅は敗北、木造城が落とされて城主の雅俊は坂内城に逃走して(『伊勢国司記略』には、その後雅俊の「子孫代々すみて坂内御所と称す」とあるが、小林秀氏によれば、雅俊の次は子の具能が継いだが、その次は本家当主・教具の子が継いでおり、その後は大河内家と同じように本家当主の子が継いでいったようで、親から子に受け継がれていったわけではないようである)、ここに幕府に味方していた俊泰が入り、その後長く木造城を領有することになったので、木造家(『伊勢国司記略』には、「子孫代々伝え守られ、木造御所と称す」「俊康将軍家に属してより京都に出仕し、油小路に別館ありければ油小路家とも称す。俊康の孫 教親卿の時、京都中山の第にも居給い、中山殿とも申す」とある)と呼ばれるようになります。『大乗院日記目録』8月19日条には、伊勢国司は攻撃を受け、「没落」した、戦いに向かっていた大名たちが帰陣した、とあり、満雅の敗北に終わったと書かれていて、反乱が失敗に終わったことがわかりますが、しかし、意外なことに満雅は罪を許され、その後も伊勢を任されています。幕府の南朝方への(過激化しないようにとの)配慮によるものでしょうか。『勢州軍記』は、水の手を断たれても、白米を使って馬を洗っているように見せ、遠目から水がまだある、と誤認した北朝方が撤退し、その後和睦となったので、領地を保つことができた、と書いており、これが事実ならば、つじつまは合うのですが…。さて、寛大な処置を受けた満雅は幕府への忠誠を誓…いませんでした。1428年、北朝の称光天皇が子無くして亡くなり、南朝方は合一の際の約束に従い、次は南朝方の者が天皇になるはずだ、と期待したのですが、そうはならず、北朝方の者が天皇となった(後花園天皇)ので、これに怒った南朝方の後村上天皇の孫、小倉宮が多気にいる満雅のもとに出奔、この年に新たに将軍となっていた足利義教は満雅に叛意ありと見て追討を決意します。今度は満雅は許されず、12月に敗れて首を討たれて殺された上、さらし首にされてしまいます。北畠家は南伊勢5郡のうち一志郡・飯高郡を領地として持っていましたが、そのうちの一志郡は戦功のあった長野氏に奪われてしまいます。1430年、満雅の弟の顕雅は「3万疋・太刀・馬」を献上して義教から許され、義教は満雅の子の教具に飯高郡・一志郡を領有することを認めました。顕雅が中継ぎをした後、教具(権大納言)が跡を継ぎ、1467年、応仁の乱が起こると、将軍足利義政の弟の義視が伊勢に下向し、教具はこれを厚くもてなしています。

教具が亡くなった後、跡を継いだのは子の政郷でした。政郷は戦国時代にあって北伊勢に勢力拡大を図り、子(もしくは孫)の具盛を神戸氏の養子に送りこみます。文明11年(1479年)、これに反発する長野氏と争って敗北しますが、翌年に関氏と長野氏が争うと関氏に味方して長野氏を破ることに成功します。

政郷は早くに隠居して子の具方(のちに材親。権大納言。1468~1518年)が跡を継ぎますが、1508年に政郷が亡くなるまでその後見を受けます。1488年、北畠家は幕府から、「伊勢神宮への参道に関を新たに設け、往来を妨げている・幕府への奉公を怠っている・伊勢神宮領の3郡を横領している」と厳重注意を受けます。これから、北畠家が戦国大名化していたことが明らかに読み取れます。伊勢神宮には内宮と外宮がありますが、この2つは仲が悪く、外宮のある山田の者たちが内宮への通路をふさいだので、内宮のある宇治の者たちが怒り、北畠家に訴えたところ、文明18年(1486年)、北畠家は山田を攻撃し、なんと外宮を燃やしてしまいます。世間に衝撃を与えた事件でした。その後も内宮側と外宮側の争いは止まず、内宮の神殿以外が炎上するなどし、その度に北畠家はこれに介入して外宮側と戦うことになりますが、この介入を通して、伊勢神宮領を次第に押領していったのでしょう。

具方の跡を継いだのは子の晴具(参議。1503~1563年)でした。『勢州軍記』には、天文年間(1532~1555年)に、足利将軍家は衰え、諸国は大乱となり、どこもかしこ合戦ばかりになった、と書かれていますが、天文年間に北畠家の党首であったのは晴具です。『勢州軍記』は続けて、次の事を記しています。

…北畠家の場合は、東は志摩国と戦い、南は大和国吉野郡・宇陀郡、そして紀伊国熊野山と戦い、西では伊賀国の仁木家と戦い、北は工藤家と争った。勢南国司多芸御所は武威を隣国に振るい、近隣の諸郡を支配下に置いていった。東では鳥羽城を攻めてこれを従わせ、志摩1国2郡を支配下に置き、南は大和国吉野郡・宇陀郡、紀伊国熊野山・尾鷲・新宮を支配下に置き、西の伊賀国は名張郡・阿賀郡を支配下に置いた。(伊勢国内では)天文3年(1534年)に山田衆を破り、天文年間に反乱を起こし、田丸弾正小弼を自害に追い込んだ山岡一党を攻め滅ぼした。

各地で順調に戦いを進めており、なかなかに有能な人物であったようです。

天文22年(1553年)、病気が重くなった晴具は伊勢神宮に願文を捧げていますが、翌年から子の具教が文書を発給するようになるので、この年頃に隠居したようです。その後、晴具は永禄6年(1563年)に亡くなりました。

さて、ここで当主となったのが、信長と戦うことになる北畠具教(権中納言。1528~1576年)です。

当主となって最初に起きた事件について、『勢州軍記』は次のように記します。

…弘治元年(1555年)12月に飯高郡・多気郡の者たちが徳政一揆をおこし、斎宮城に籠城したのを攻め破って、首謀者の豊田五郎右衛門尉を敗死させた。

こうして国内を治めた具教は、続いて北方の宿敵・長野工藤氏を屈服させ、弟(具藤)をその養子に送りこむことに成功、また、神戸家に従う赤堀城を攻めてこれを落とし、国司の命を無視するようになった宇陀郡の秋山父子の居城の神楽岡城を攻め、これを従わせてその父を人質として得ることに成功、永禄3年(1560年)には志摩の九鬼氏を攻めて田城を攻略、永禄4年(1561年)には宇陀郡沢城に攻めてきた松永久秀を撃退するなど、さらなる勢力拡大に成功します。

この中で、永禄元年(1558年)に山科言継が伊勢を訪れて具教と会っています。その目的は、前年に亡くなった後奈良天皇の喪明けに新調する服の費用を提供してもらうことでした。言継は9月3日に具教と会見する予定でしたが、折悪く虫気(腹痛)になってしまったので延期となり、9月5日に会見することができましたが、「黄門(中納言の唐名)はまだ咳をしていた」と記しています。言継はこの時具教の子の「少将具房」にも会っています。また、言継は具教に太刀・後小松院の書・杉原紙10帖を、具房に太刀・薫物(お香)・菊の花を贈っています。翌日、言継のもとに具教がやって来て、「めんりん」(綿綸子という織物)1反、杉原紙10帖を言継に贈りました。杉原紙10帖を贈って、杉原紙10帖をもらうとは…!?ただ返品されただけでは…!?9月8日、別れのあいさつに訪れたい、と申し出たところ、具教はまだ咳が出るので、暇乞いに来てくれなくても構わない、と返答しています。また、喪服の費用については、『御湯殿上日記』に「いせのこくしより3千疋まいる、りょうあん(諒闇。喪に服する期間の事)御あかりのことになる」とあり、3千疋(=30貫)を提供したようです。また、翌年12月には「いせのこくしより、御しょくゐ(即位。正親町天皇の即位の事)の御れい2千疋まいる」と『御湯殿上日記』にあるように、新天皇の即位に当たっても2千疋を献上したようです。このことから具教の勤王精神が篤かったことがわかるのですが、具教に限らず、北畠家は代々勤王家だったようで、例えば晴具の頃は、一部を挙げると、

享禄元年(1528年)

3月10日 くくい(鵠。くぐい。白鳥の事)まいる

8月1日 あわ(鮑。あわびの女房詞)千ほん まいる

享禄3年

4月10日 くくいしん上(進上)申さるる

5月22日 こつくりより、あわ・な(海鼠。なまこの女房詞) まいる

享禄4年

6月4日 くくいまいる

天文元年(享禄5年)(1532年)

3月28日 くくいまいる

天文2年

5月8日 くくい しん上

5月 太刀1腰・馬1疋

天文3年 

4月18日 千疋・御ちゃ(茶)百ふくろ まいる

4月 太刀1腰・馬1疋

9月15日 こつくり、あわ千ほん まいる

天文4年

5月25日 くくいまいる

5月 太刀1腰

天文5年

3月19日 こつくり あわ千ほん しん上あり

4月19日 御ちゃ百ふくろ まいる

4月 太刀1腰・馬1疋

7月 太刀1腰・長蚫(あわびを薄く長くはいで、乾燥させたもの)5千本到来

12月22日 御ちゃ三百ふくろ

…というように、毎年のように朝廷に何かを献上しています。

具教もまた、次のように朝廷に進上を行なっています。

弘治2年(1556年)

12月22日 北はたけの中納言(天文23年[1554年]に権中納言に任じられた)、くくい・かん(雁)2・御ちゃ二百しん上あり 

弘治3年

12月22日 御く御(天皇の飲食物)まいる、8月1日の御れいは御ちゃ三百たい、せいほ(?)の御れいには かん3まいる、御かうてん(香典)千疋まいる

面白いのは、永禄元年(1558年)・2年の記述で、

永禄元年(1558年)12月19日

くくい・かん2まいる、いつもの御ちゃ御まいり候はす候

永禄2年(1559年)5月4日

つる2,ねんしの御れいにまいる、いつもくくいまいり候へとも ことしは つる まいる

いつもと違うものが進上されてきたのでびっくりしたことが記されています。

さて、伊勢北部に順調に勢力を拡大していた北畠家ですが、そこに突然、他国のある大名の勢力が入り込み、急速に広がっていくことになります。その大名というのが、織田信長でした。

信長は、永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)の2度にわたる攻勢だけで、伊勢北部を支配下に置くことに成功してしまいます。しかも、この際に、長野工藤家の当主となっていた具教の弟、具藤は兄のもとに逃走する羽目に陥ります

伊勢北部を奪い、弟の具藤を追放した信長と、具教が対立するのは必然でした。

●木造家の反乱

北畠家と織田家は境界を接して、どのような状態になったのか。『勢州軍記』には次のように書かれています。

…伊勢国司北畠中納言具教卿は、永禄の末年頃に織田家の攻撃を防ぐために御殿を飯高郡細頸に作り、その後に城郭を同郡の大河内に築いた。そして家督を嫡子の信意(信意は織田信勝の事なので、正しくは具房。以後、具房と記す)に譲り、具房は大河内御本所と呼ばれた。具教卿は隠居して出家し、法名を不智と名乗った(実際は出家したのは元亀元年[1570年]5月)。この際に、大河内家(当主は具教の叔父、頼房の子、具良)は多気郡大淀に移した。その後工藤家が逆らい、織田掃部助と共に今徳城主の奥山・小森上野城の藤方に合戦を挑んできたので、国司は救援のために兵を北方に進ませて戦うことが数度あった。…

具教は織田に備えて、細頸(ほそくび)と大河内(おかわち)に城を築いた、というのですね。ただし、大河内には以前から城があったので、大規模に改修したことを言うのでしょう。

れまで、北畠家は本拠は多芸、本城は多芸にある霧山城でしたが、具教は本城を北の大河内に移しています。

その理由について、『伊勢国司記略』は、「多芸は大敵を防ぐに便りよからず」と書いています。後方にあって他の支城と連絡が取りづらいと考えたのでしょう。日本も日清戦争の際は大本営を東京から広島に移していますし。

大西源一氏も『古蹟』にて、『伊勢兵乱記』には、「多気は要害宜しからずとて」大河内に移った、とあるが、「其の多気は其害宜しからざれば大河内に移れるといふこと怪むべし。要害の険に於ては大河内は到底多気の比にあらざればなり。さらば北畠氏が大河内城に拠れる所以のものは如何、蓋(けだし。「思うに」という意味)多気は僻陬(僻地。辺鄙な土地)にありて地狭く大軍をを用ふるに悪く。且(かつ)北畠氏が其の根拠地たる南伊勢五郡に令する(命令する)に便ならざりし(都合が悪い)を以てなり」と記しています。

さて、『勢州軍記』の記述からは、境界を接してすぐに、織田掃部助と長野工藤家が対織田の最前線に当たる今徳城・小森上野城(正しくは上野城であるが、『伊勢国司記略』には、「上野という所伊勢に数所あり。まぎるるをもて、一志郡の上野は、隣村の小森に負うせて小森上野と呼」んだ、とある)に攻撃を仕掛けていたことがわかります。織田は北畠とやりあう気満々だったわけですね。

北畠家が織田の事に神経を使っている中、『勢州軍記』によると、次の事件が起きました。

永禄12年(1569年)年正月に、平(織田)信長は伊勢南部を攻めようと考えた。これが伝わると、9日に伊勢国は騒動となり、日置(ひおき。映画『忍びの国』に「日置大膳」が登場し、これを「へき」と呼んでいるが、正しくは「へき」とは読まない。三重県一志町日置は「ひおき」と読む)大膳亮は他の場所が燃えているのを見て、細頸を焼いて大河内城に移った。他の者たちはそれぞれの城に籠もった。大御所(具教)と御本所(具房)は伊勢国南五郡の兵と共に大河内城に立て籠もり、城外には柵を二重に構え、兵糧を蓄え、城を堅固に守った。

大河内城以外では、今徳(こんどく)山城を奥山常陸介、小森上野城を藤方御所、木造城を木造御所(具政。具教の弟)、八田城を大和多兵部少輔(大「多和」の誤り。『勢州四家記』では「大多北」)、阿坂城を大宮入道、船江城を本田右衛門尉(『勢州四家記』では「左京亮」)、曽原城を天花寺(てんげじ)小次郎、岩内城を岩内御所(北畠一族。『伊勢国司記略』には、波瀬・岩内(いおち)・藤方に、「いつの頃よりにや、国司の一族すまれ」とあり、よくわかっていないようである。小林秀氏も、岩内氏について、「全体的にきわめて史料に乏しく」と記している)がそれぞれの兵と共にこれを守った。しかし、三好一党が畿内において反逆したために、信長卿はまず京都に攻め上ったので、伊勢を攻めなかったという。この時に、国司が足利家・織田家と和睦していれば、子孫は栄え、北畠の家が滅びることも無かったのである。…

信長が攻めてくると聞いてパニック状態になったことがうかがえます。しかし、北畠家はこれによって早めに防備を整えることができました。この時に攻めることができていれば、信長の北畠との戦いはもう少し容易なものになっていたことでしょう。

信長の攻撃を先送りにできたと一安心していた北畠家ですが、その後に大事件が勃発、これが織田と北畠の血戦につながることになります。

…5月、木造父子が謀叛したので、再び伊勢国は騒動となった。この木造御所というのは北畠晴具卿の弟である(『北畠物語』では、「晴具卿の子息の具教卿の弟で」、『勢州四家記』には「国司の甥」と書かれている)。亡くなった木造具康(『尊卑文脈』には、父の俊茂に殺害されたとある)は晴具卿の妹婿で、女子はあったが男子が無かったので、北畠晴具卿の子息を婿養子として迎え、木造兵庫頭具政と名乗った。この具政には正妻に子が生まれなかったので、側室の子に家督を譲った。これが木造左衛門佐長政である。隠居した具康は戸木(へき)に移り住み、戸木御所と呼ばれた(『伊勢国司記略』には、「永禄年中木造中将具政入道して、木造の城をば男左衛門佐長正にゆずり、自らは此城に移りすみ、戸木入道と称す。国人は戸木御所と申けり」「『蒲生記』は日置に作れり、誤なり。日置は和名鈔に比於木と訓し、其時は一志郡の郷名なれど、今は下りて村名となり、戸木とは別なる所なり」とある)。しかし、この木造父子はいささか不満なことがあったので(『北畠物語』では「宿意」(以前からの恨み)があった、とある。)、北畠氏の一族であるということを忘れ、謀叛を企み、織田信長卿のもとに降ったのである。これは、出家していた木造源城寺(『木造記』には「源城院主玄」とあり、僧名は「主玄」であったようである)という、木造具康の庶子にして、文武に優れ、国の治め方をよく知る者が、木造の家老・柘植三郎左衛門尉と話し合い、木造父子に諫言したことによる(『勢州四家記』には、「木造家が信長についたのは、木造家の菩提所源浄院[『木造記』には「法花宗」とあり、法華宗の寺であったようである]と柘植三郎左衛門が勧めたためであった」とあり、『木造記』には、一門の筆頭である木造家は、多芸の祭で国司に続いて馬を引く栄誉を得ていたが、近年は田丸・大河内・坂内の三御所の後に馬を引くことが続き、これに抗議したのに、具教卿はこれを受け入れなかったばかりか、去年から馬も引かせないようになったので、怒りの気持ちが募っていた、と謀叛の理由が書かれている。また、木造家に対する織田掃部助の誘いに対し、具康(具政の誤り)は「たしかに国司に対し面白く思っていないけれども、同族の国司を攻めるのには賛成できない」と迷ったが、これに対し源浄院と柘植三郎左衛門が、「国司は一族なので、味方すべきところであるが、近年は不和である。信長に味方すると返事をせねば、ば、木造城は信長との境目にあるので、真っ先に攻められることになります。国司と関係が良いのであれば、その援軍を期待して城に籠もり、長く城を保たせることができましょうが、関係が悪化している今では、謝って援軍を頼むことも悔しいことです。だからといって、国司にも、信長にも逆らっては、籠城を成功させることは到底できません。ここは信長に味方するしかないでしょう」、と言って信長に味方することを勧めた、とあり、『総見記』には、木造の一族に源城寺という会下僧(自分の寺を持たず、修行している僧侶)がいたが、この僧は優れた才覚を持ち、弁舌に優れ、勇気も盛んであった。また、木造の家老に柘植三郎左衛門という者がいたが、この者が現在の情勢を考えて見るに、信長の威光はついには天下全体に知れ渡ることになるだろう、一方で国司方は柔弱で、何事においても衰微の風があった。このまま公方の味方につかなければ、国を保ち、家を残すこともできないであろう、行く末は危うく、滅亡が差し迫っている…、そこで、家のため、主君のため、自分のために、主君の具正・長正に(源城寺と共に)何度も諫言して、遂に信長の味方になることに同意させた、とある)。…

なんと一族、それも具教の実の弟の木造具政が織田方に寝返ったというのですね(◎_◎;)

北畠一族の特異な点は、分家は子に跡を継がすことができず、代々、本家から養子を迎えている、というものです。

その中で、木造家は例外的に親から子へ、代々家督を継がせることができていました。先に述べたように将軍家に直接仕える家であったことも関係していたでしょうか。木造家は北畠一族の中でも特別な地位にあり、プライドが高かったと言えるでしょう。このことが謀叛につながったのかもしれません。

木造家の謀反に対し、具教は次のように反応をした、と『勢州軍記』にあります。

…国司はこれに怒り、人質としていた木造家の家老・柘植三郎左衛門尉の9歳の娘を、母と共に殺害した(『勢州四家記』には、柘植三郎左衛門尉が信長の家老滝川伊予守のもとに行き内通したので、「雲つ川」の端で「串指」にした、とある。『木造記』には「雲出川の端で張付にした」とある。また、その翌日、死体を奪取して弔った、と書かれている)。その後、沢・秋山などの南方衆(沢・秋山はどちらも大和国宇陀郡の武士である。沢は沢城主、秋山は神楽岡の城主。『木造記』には、本多左京亮・大田小兵部少輔が大将であった、とある)は数度にわたって木造城を攻めた。木造城中には海津喜三郎という鉄砲の名人がおり、攻め手がやってくる度にこれを撃退した。その頃鉄砲はまだ多くなかったという。木造城は特に頑丈な城であった上に、北方から織田掃部助・工藤・関・滝川が救援に駆けつけてきたので、木造城を短時間で攻め落とすことは不可能になってしまった。…

具教は木造城を攻めたものの、木造勢の奮戦と織田の増援もあり、攻略に失敗した、というのですね。

これについて、『木造記』には次のように詳しく記されています。

…沢・秋山がやって来たと聞いて、木造城からは柘植三郎左衛門が前川原まで打って出、雲出川を挟んでにらみ合った。日が暮れてきたので、敵方が4・5町南に後退したのを見て、木造勢は川を越え、木曾左衛門・海津六郎左衛門を先頭に敵を追いかけたところ、沢・秋山は取って返して木造勢を迎え撃った。海津・木曽は鉄砲の名人であったので、隙間なく敵を撃ったところ、敵方はこれにひるみ、逃げ崩れた。この時、秋山の家来は坂甚次郎をはじめとして多く討ち死にした。木造勢では、金子六ノ助・柘植彦次郎(柘植三郎左衛門の弟)が槍で敵を突き伏せ、首を取る手柄を立てた。木造勢は勝ちに乗じて追撃したが、だいぶ日も暮れてきていたので、勝鬨を挙げて木造城に戻った。敗北した国司勢は悔しく思い、色々と話し合いをしていたとところ、沢源六郎が進み出て次のように言った。「木造城は、そのすぐ目の前に雲出川があるので川を渡るのが難しく、勝利をあげづらい。ここは、須ヶ瀬の渡しを越え、川を背にして、まず戸木城を攻めるべきです。昔より今まで、川を背にして勝利をあげなかった例はありません」。本田左京亮はこれに対し、次のように言った。「言うことはもっともな事であるが、戸木城は北は沼田、南は稲代川、西には深き谷があり、平らな地は東にしかない。この東側には木造の一族の河方・牧が固めており、敵が攻め寄せてきたら、すぐに木造・戸木に報告すべく遠くを見張る兵を配置しており、油断が見られない。また、名将である具康が籠もっており、勝利は難しいだろう。私が思うに、小森上野城主・藤方刑部少輔に使いを送り、木造城を南北から挟み撃ちにすべきであろう」。一同はこれに納得し、何度も使いを送ったが、藤方は、もし上野を出れば、(安濃)津城から織田掃部助(津田一安)が出てきて上野城を攻めるのではないか、と用心して、ついに上野城を出なかった。この時、(安濃)津城側も、刑部が出陣したら上野城を攻め取ろうとして監視役を置き、監視役から合図が送られて来ればすぐに攻める手はずになっていたという。…


ここまでの顛末について、『足利季世記』には少し違った内容が記されています。

…信長は伊勢半国を手に入れ、残るは国司だけとなったが、どうにかして国司を滅ぼして伊勢一国を平定することができれば、伊賀も国司に従う者が多いので、自然と伊賀も手に入れることになるとして、謀をめぐらした。その結果、国司の一族である木造殿の家臣の柘植三郎左衛門・源城寺という禅僧が信長に味方し、信長方となった。源城寺は信長家臣の滝川左近一益[この時伊予守](谷口克広氏は伊予守となったのは天正3年「1575年]のことではないか、としている)の名字をもらってその養子となり、滝川三郎兵衛と名乗った。この2人は信長に召し出されて国司領を多く与えられ、信長衆を案内してこの年の5月、滝川一益を大将として伊勢の「ほうくみ」という所に出陣し、周辺を放火した。これに国司方が応戦して信長衆は負けて引き返した。…

木造家が謀叛した5月中に、織田勢が木造勢と共に「ほうくみ」(おそらく「ほそくみ」[漢字で保曹久美・細汲・細組]とも呼ばれていた「細頸」城のことか)を攻めて、負けてしまった、というのですね。『勢州軍記』にある、織田勢が救援にやって来た、という時に起きた小競り合いでしょうか。

さて、木造家が謀叛したことにより、北畠にくさびを打ち込むことに成功した織田信長は、これを好機と見て、伊勢に出陣することになるのです…!

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