社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 木下藤吉郎、奮戦!~阿坂の城退散の事

2024年12月19日木曜日

木下藤吉郎、奮戦!~阿坂の城退散の事

 5月の木造家の謀叛を受けて、8月、信長は北畠家を攻略することを決意します。

しかし、好機をすぐ生かそうとする信長にしては、出兵がいささか遅くなった気もしますが…なぜなんでしょうか😟

信長が大軍を率いるのは上洛戦に続いて2度目のことになりますが、上洛のため出陣したのは9月7日の事であり、日にちが近いことがわかりますね。

おそらく大軍を動員するため、収穫期を待って出陣していたのでしょう(上杉謙信が最初に関東に出兵したのも8月29日でした)。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


以前に紹介した朝山日乗の8月19日付の書状には、次の内容も書かれていました。

…信長は、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の兵約10万を率いて、「国司」(伊勢の北畠具教)攻めに取りかかり、10日以内に伊勢一国を平定されることになると思います。その後、伊賀・大和を通過し、9月10日頃に京都に到着されると思います。…

織田方が、北畠家との対決を非常に楽観視していたことがうかがえます。

一門の木造家も寝返った事だし、他の者たちも大軍で攻めたら続々と寝返るだろう、と思っていたのかもしれません。

しかし、あに図らんや、織田方に寝返る城主は現れず、北畠家は頑強に抵抗して、結局南伊勢平定は10日どころか40日以上を要することになるのでした…!😥

●木造城の軍議

織田信長が南伊勢に向けて出陣したのは、『信長公記』によれば8月20日の事でした。

先の日乗書状では、10万を動員して…とありましたが、『信長公記』には何万と書かれているのか。

意外なことに、『信長公記』はその軍勢の数を記録していません。

実は、上洛戦についても、その人数を記していないのです(◎_◎;)

『信長公記』は、その後も、朝倉攻め・姉川の戦い・甲州征伐においても、織田軍の兵数を記してくれていません。長篠の戦いは「3万」と記していますが…。

このため、織田軍の数を知るには他の史料に頼らざるを得ない、ということになります😥

では、他の史料には織田軍の数がどれほどだと書かれているのか、見てみましょう。

『多聞院日記』9月7日条…先月の20日、信長が8万余の兵を率いて伊勢に入り…

『神宮年代記抄 河崎』「伊勢国司城大河内へ信長数万騎にてせむる」

『細川両家記』…8月末、信長は東国勢を動員した。その数10万余騎という。

『勢州軍記』…8月20日、信長卿は…美濃・尾張・伊勢・近江の兵に出陣を命じた。合計7万余であった。

『朝倉始末記』…その軍勢は5万余であったという。

『足利季世記』…東海道勢・五畿内衆・美濃・尾張衆を動員して、10万余騎が伊勢に出陣した。

5万~10万余とだいぶ幅があることがわかりますね💦

当時、信長の領地は尾張57万石+美濃54万石+近江77万石の南半分+伊勢56万石の北半分…であったので、合計するとだいたい170万石ほどになりました。

『関ヶ原合戦』(中公新書)によると、動員兵数は1万石につき250人前後であったようなので、そうなると、織田軍の動員兵力は42500人ほど、ということになります。250人「前後」なので、300人で計算すれば51000人で、約5万人ということになります。このあたりが実際のところだったのではないでしょうか。

日乗は、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の兵を率いて…と記していますが、この戦いで三河・遠江の徳川軍が参加している形跡は見られません。

徳川がまとめた『武徳編年集成』にも、参戦したとは記されていません。

『勢州軍記』のいう、美濃・尾張・伊勢・近江の兵、というのが正しいでしょう。

ちなみに、浅井家臣の磯野丹波(員昌)が参加していたことが『信長公記』に記されていますので、織田軍に数千程度の軍勢が加わっていたと考えられます。

さて、出陣した信長ですが、『信長公記』には、その後の行程について、

…その日は桑名まで進んだ。翌日は鷹狩をして1日滞在し、

…と記されています。

出陣中に鷹狩をするなんて悠長な、と思いますが、

『信長記』には、

「伊勢国の山野の難易を御覧じがてらに」(地勢の様子を調べることも兼ねて)鷹狩を行なった、とあります。

『勢州軍記』には、

…8月20日、信長卿は伊勢に出発して桑名に着いた。その際、ひそかに美濃・尾張・伊勢・近江の兵に出陣を命じた。信長卿は鷹狩と称して一両日「山野の難易を窺い」、南方に攻め寄せた(『木造記』には「二手に分かれて」とある)。これは不意を衝くための謀であった。鷹狩というのは鳥を捕るためのものではない。ある時はその土地の地勢の難易を見、ある時はその土地の人々の労苦を知るためにするのであって、だから鷹狩は大将は行ってもよいが、家来の者たちはしてはならないのである。

…とあり、鷹狩は油断させるための方便で、これは、鷹狩に来たのか、と安心させた隙に、密かに動員させていた軍勢を伊勢国に入れることで、北畠の不意を衝こうとする計略であった、と記しています。

ちなみに、『足利季世記』は、その日は桑名に着いて軍議を行なった、と書いています。

『信長公記』はその後の事について、

…22日は白子観音寺、23日は「小作」(木造のこと)に陣を構えた。雨が降ったのでここにとどまった。

…と記しますが、『勢州軍記』はより詳しく、

23日、信長卿は滝川勢・関勢を先陣として、小森上野城の押さえとし、織田掃部助・工藤勢を今徳山城の押さえとして、軍勢を前進させた。(小森上野城を守る)藤方御所(北畠一族)と(今徳城を守る)奥山常陸介は忠義心が強く、織田軍と戦おうと思っていたのだが、信長卿はこれを攻めずに木造城に入り、ここで一両日にわたって軍議を行なった。

…と書いています。

信長は木造城へ向かう途中にある今徳城・小森上野城を攻めることなく、押さえの兵だけを置いて先に進んだ、というのですね。

信長は六角攻めの際もこの作戦を取り、『信長公記』に「わきわき数ヶ所の御敵城へは御手遣いもなく」(道中の城には目もくれず)本拠の観音寺城とその近くにある箕作城に攻め寄せています。信長のお得意の作戦だったのでしょう。

太平洋戦争においてアメリカ軍がとった飛び石作戦(アイランドホッピング)と似たような作戦で、前線にある敵の拠点を1つずつ落としていたら、その間に敵軍は後方の拠点の防備を強化する時間の余裕ができてしまうが、後方の拠点を先に攻撃することで、敵にその猶予を与えない、というのがこの作戦の目的ですね。

『勢州軍記』のもとになった書物とされる『勢州四家記』には、滝川勢・関勢を小森上野の押さえとした、としか書かれおらず、今徳城の押さえについては触れられていません(『木造記』も同様の記述で、織田軍は二手に分かれて進み、そのうちの1つが小森上野城の押さえとなった、と書いている)。

しかし、織田領と木造城の間には、小森上野城だけではなく、今徳城もあったので、押さえの兵は必要だったはずです。

『信長公記』『信長記』『勢州軍記』は、信長は木造城で軍議を行なった、と記しているのですが、『氏郷記』は、

…信長卿は23日に木造の持つ戸木城に着いて、一両日に渡って軍議を行なった。

…と書きます。

また、『氏郷記』には軍議の様子が次のように書かれています。

…木造は次のように言った。

「当国の事情についてはそれがしはよく分かっております。国司父子が籠もっている大河内城に向かうにあたっては、ふつうは本道を通るべきなのですが、途中に船江城という「大難所」があります。その上、城主の本田如人・左京亮父子は、共に剛の者であり、また、森中・高島・山辺などの屈強の兵、合わせて数千余りの軍勢で立て籠もっているので、これを攻めようとすると、味方は人馬を多く失うことになります。脇道ではありますが、浅香(阿坂)口を進まれるのがよろしいでしょう」

これに信長卿は、「そなたの考え通りにいたそう」と言って、戸木城を発ち、浅香(阿坂)城を攻めた。…

『勢州軍記』にも、

…伊勢の南方に至る道は船江通であり、そのため、本田が船江城を守るのに、各地から多くの者が加勢してきていた。そのため、信長は城を落とすことは容易ではないと見て、その枝を置いて根本を断とうとして、迂回して山際を通ったという。

…と書かれていますが、織田勢は大軍でありながら、船江城攻めは回避して、迂回路の山際を通る作戦を取ったようです。慎重ですね😲

今徳城や小森上野城も攻撃しませんでしたし、なるべく短時間で、なるべく損害を押さえようとして、戦いを進めている様子がうかがえます。クレバーですね😲

『氏郷記』には、一両日の軍議中にも織田軍の先手は進軍しており、「先手の兵たちは早くも八田城を攻撃した」と書かれています。

『勢州軍記』には、

…織田軍はまず八田城に攻め寄せようとしたが、この日は霧がたちこめていて敵の場所がわからなかったので、八田城を攻めなかったのだという。

…とあります。

八田城は別名「霧山城」ともいい、これは、秀吉がこの城を攻めた時、突然霧が立ち込めて、城兵が秀吉を撃退するのを助けた、という言い伝えに因るのだといいます。

地元の言い伝えだと織田軍は八田城を攻めていて、しかも撃退されたことになっているんですね~。

●阿坂城の戦い

木造具政の勧めに応じ、信長は西の山際(阿坂口)を通って大河内城に向かいます。

『勢州軍記』には、その移動中の事について、

…26日、信長卿は木造城を出て、木造勢(『勢州四家記』ではこれに工藤勢も加わる)を先導として前進し、通過した場所にあった民家はことごとく放火された。

…とありますが、このことについては、

『神宮年代記抄 松木祢宜 上』に、

…永禄12年 尾州上総介伊勢国入悉焼失す

…とあり、この記述を裏付けています。

信長は、六角氏との戦いにおいても、『言継卿記』永禄11年(1568年)9月14日条に、近江はことごとく燃やされたという。…と記されているように、この戦法を使っていることが確認できるので、信長の常套作戦であったことがわかります。

戦争に勝ったら自分の土地になる場所なんですけどね…😓

『勢州軍記』は続けて次のように記します。

…信長卿は使者を阿坂城と岩内(ようち)城に派遣し、和睦して開城するように迫った。岩内城の返答は、大河内の城の意向に従う、というもので、阿坂城は返答しなかった。これを受けて、信長は先手を呼び戻して27日に阿坂城を攻めた。…

こうして阿坂城の戦いが始まるわけですが、阿坂城の戦いが起こった日にちについて、『勢州軍記』は27日としていますが、

『信長公記』は26日、『足利季世記』は23日と、史料によって違いが見られます。

『勢州軍記』は木造城を26日に出発して、27日に阿坂城を攻めていますが、

木造城から阿坂城まで約10㎞、歩いても2時間ほどで行ける距離なのに、出発して翌日阿坂城攻めは遅すぎるような気もします。

『勢州軍記』には26日夜に先手の兵を呼び戻した、とあるので、そうなると、26日の動きは次のような物だったのでしょうか。

26日朝、先手出発。八田城を攻めようとするも、霧が濃くて攻められず、先に進む、

26日午後、本体出発。阿坂城の側に着いて、投降を促す使者を送って、返事を待ち、その返事を聞く。

26日夜、大河内城に向かっていた先手の兵に戻るように指示する。

これならなんとなくつじつまが合います。

26日に阿坂城を攻めたとする『信長公記』の記述もおかしくないんですけどね…。

ちなみに『勢州軍記』の元ネタの『勢州四家記』は阿坂城攻めの日にちを記していません。

漫画では『勢州軍記』の日にちを採用しましたが、実際どうだったのかは闇の中です。

さて、織田軍の攻撃を受けた阿坂城(現在は「あざか」と読むのだが、明治22年に作られた『伊勢名勝誌』には「阿射加」に「アサカ」とルビが振ってあり、「あざか」と読むようになったのは比較的最近のようである。「阿坂」は「朝香」「浅香」と書かれることもあり、これを見ても「あざか」の当て字であるとは思われない。江戸時代後期に書かれた『伊勢国司記略』にも、読み方が珍しい地名にはルビが振ってあるのに、阿坂城にはルビが振られていない。ふつうに「あさか」と読まれていたからであろう)は、以前に紹介したように、1414年~1415年にわたって室町幕府に反旗を翻した北畠満雅の拠点となった城であり、『勢州軍記』によれば白米を水に見せかけた作戦で幕府方を撃退したと書かれている堅城でした。

『南方紀伝』には「此の城高山にして登り難し…北に天花寺城有り、東に両出城有り、南に地獄谷有り」と、その堅城ぶりが書かれています。

「高山」とありますが、その高さについて『伊勢国司記略』は「山高きこと18町、その嶺にあり」と記しています。

18町とは約2000mのことです。なんという高山!!

…しかし実際の阿坂山は高さ312mです。18町は盛りすぎですね😓

しかし312mというのはけっこうな高山であり、岐阜城が329mですから、それとほぼ同等ということになります。

これに対し、北畠具教が籠もっていた大河内城は標高約110mしかありません。

なぜ具教は阿坂城に籠もらなかったんでしょうね😕

『南方紀伝』に水の手が乏しい、と書かれているように、水源に不安を抱えていて、長期戦に不向きだと考えたからでしょうか。

阿坂城について、『日本城郭大系』には、

「城はニ郭からなり、南郭は25m×30m、高さ12mの台状地とそれに続く一段と低い堀切と小さな台状地を周囲にもつ。松阪市街地から遠望して山頭に台形をいただいた形はこの南郭に当たる。そして、南郭中心から北に250m離れて北郭があり、椎の木城とよばれてきた。東西幅40―70m、南北の長さ150mと、規模は南郭より一段と大きく、三か所の台状地の周りに堀切と土塁とを備えたものである。しかし、郭の構成は複雑であり、規模などから考えて北郭が阿坂城の主郭であったと思われる」

…と書かれています。

『伊勢国司記略』に、「東に両出城有り」と書かれていますが、これは、東南にある枳(からたち)城と、北東にある高城のことです。

また、「南に地獄谷」があった、とも書かれていますが、これは「東」の誤りです。

この地獄谷は山頂の321mから、わずか300mほどの距離で一気に半分の160mまで下るという急峻な谷です。

『阿坂史跡マップ』によると、「昔、地獄谷には妖怪が住み、猛火がところどころ燃え上がり熱湯が吹き上がり、村人は恐れて近づくことができなかった。文明4年(1472年)この話を聞いた僧 大空玄虎が、皇大神宮に参詣し、夜を徹し禅定したら神のお告げがあった。直ちに地獄谷に隠棲し、7日にわたりこの石の上で座禅の日々を重ね、威を振って喝破すると、山谷は静まり、妖怪は姿を消したとの言い伝えがある」そうです。

出城あり、急峻な谷ありで、だいぶ防備が固かったことがわかりますね😥

この阿坂城を守る城将について、『勢州軍記』には、

…城主は大宮入道(『勢州四家記』には名前は九兵衛とある。『氏郷記』『信長記』によると斎号は含忍斎)で、他に息子の太之丞(『勢州四家記』では大丞)などがいた。

…とあります。

大宮入道は『信長記』には80歳であった、と書かれており、その真偽は定かではありませんが、その記述を信じるならば、かなりの高齢の人物であったようです。

『氏郷記』には、

…城主・大宮九兵衛尉は大河内城に籠もっていたので、その父の大宮含忍は…

…という記述がありますが、『勢州四家記』では「九兵衛」は父親の含忍の事ですし、含忍は他の史料では皆城に籠もって戦った、という記述があるので、これはおそらく誤りなのでしょうね。

さて、『勢州軍記』には、戦いの準備について、

…彼は浄眼寺を焼いて敵を待った。敵にこの寺を使わせないためである。

…と書かれています。

浄眼寺は、現在も阿坂山(桝形山)のふもとにある寺で、松阪市観光協会によると、浄願寺は1478年、北畠政郷の代の時に、先に出てきた、地獄谷を治めた僧、大空玄虎によって創建された北畠氏の菩提寺(!)で、「織田信長の兵火にかかり広壮な殿堂を焼失。現在の寺の本堂、重層の禅堂、総門は宝暦年間(1751~1764)再興」されたもの、であるようです。

しかし『勢州軍記』にあるように、浄眼寺は自ら焼いたもので、信長の兵火にかかったものではありません。

さて、いよいよ織田軍による阿坂城攻めが開始されることになります。

その戦いについて記述のある諸史料を見てみましょう。

非常に簡潔に記しているのが『足利季世記』と『氏郷記』で、

『足利季世記』…23日から浅香城(阿坂城)を攻めた。城兵が少なかったのでこらえることができず、開城して退いた。

『氏郷記』…浅香城主・大宮九兵衛尉は大河内城に籠もっていたので、その父の大宮含忍はかなわないと思ったのか、降参を申し出て城を明け渡した。信長卿は城に滝川左近将監一益を入れた。

…と書かれています。

一方でかなり詳細に書いているのは『勢州軍記』で、

…信長の先陣の木下藤吉郎秀吉は阿坂城を包囲してこれを攻撃した。城兵はしばらくこれを防いで戦った。大宮太之丞は力が強いうえに、弓の名手(「大力にて弓の上手」とある。『勢州四家記』には「弓の達者」とある)であった。太之丞が弓をさんざんに射たので、寄せ手はなかなか進むことができなかった。秀吉は左腿を負傷したという(『勢州四家記』『木造記』は「左の脇」と記す。『勢州兵乱記』ではなんと「左の眼」!😱)。しかし劣勢であるのを覆すことはできず、大宮の家老、大宮(遠藤、結城とする史料もあり)源五左衛門尉・条助が裏切って鉄砲の火薬に水をかけたので、大宮入道は降参して開城した。信長は滝川勢をこの城に入れて守らせたという。

…と書かれています。

木下秀吉が負傷したと書かれていますが、これは地元の武士を称える誇大な創作などではなく、『信長公記』にも、

…26日、阿坂城を木下藤吉郎を先鋒として攻撃し、木下藤吉郎は塀際まで攻め寄せて、軽傷を負って退いた。「あらあら」(荒々しく?)と攻め立てたので、こらえきれないと思ったのか、降参して城を出ていった。ここには滝川左近の兵を入れておいた。

…と書かれており、確かな事だとわかります。

木下秀吉が負傷したという記録はこれしか残っておらず、唯一の史料に残る負傷ということになります😧かなり貴重ですね…💦

秀吉の見せ場の1つであると思われるのですが、小瀬甫庵の『太閤記』にはこの場面は登場していません。

『総見記』(1685年頃成立)には、

…木下藤吉が先陣となって進んだところ、「無双の弓の上手」である大宮大之丞が散々に弓を射てきたので、藤吉の兵たちがひるんでいたところ、藤吉は少しもひるまずに名乗りを上げて先頭に立って攻め寄せた。そこに大之丞の放った矢が左腿に当たったが、藤吉はこれを物ともせずについに惣門を打ち破って突入した。…信長は「古の朝比奈三郎義秀の勇力にも劣らない剛の者である」と藤吉をほめた、藤吉はこれをありがたく思って、朝比奈「義秀」の字を逆にして、「秀義」と名乗ることにしたが、「義」は公方家の通字なので遠慮して、「秀吉」と名乗ることにした。

…と書かれており、表現が多少オーバーになっています(「秀吉」の名の件については、実際は永禄8年(1565年)11月2日付の、坪内利定に対して土地を与えている書状に「木下藤吉郎秀吉」と書かれており、この戦い以前にすでに「秀吉」と名乗っているのが確認できるので、誤りである)。

時代が下って『絵本太閤記』(1797年)になると、

26日に阿坂城へ押し寄せ、鬨の声を挙げてこれを攻めた。これを守るのが、「勢北第一の勇将」大宮入道含忍斎、その嫡子大之丞景連、次男九兵衛為之などで、1千余人が籠城し、織田軍を防ぐために矢石を備えて待ち構えていた。信長の先陣木下藤吉郎直兜(鎧兜をつけた完全武装の兵士)800余人がどっとわめいて掘際に押し寄せ、脇目も振らずに攻め上った。城将の大宮大之丞は「近代無双の精兵」で、総門の櫓に登って近寄る敵を矢継ぎ早に射たが、矢をはずすことは無かった。勇んで攻めかかった木下勢も、死傷者は数を知らず、大之丞1人の弓矢のために進みかねていた。藤吉郎はこれを見て大いに怒り、大声で、「弓を射る者は(平)教経であるか、(源)為朝であるか、ただ一人の弓矢を恐れて見苦しく引き下がることがあってよいものか、かかれやかかれ、進めや進め」と言って馬に乗って駆け出したので、家来の者たちは「えいえい」と声を挙げて攻め上ったところ、城兵はこらえがたい様子になった。大之丞はこの状況に心中穏やかでなく、弓矢を引きしぼり、木下の胸板めがけて弓矢を放ったが、藤吉郎の運が強かったのか、弓の弦が切れて、藤吉の「高股」(股の上部)にあたった。藤吉郎はこれを物ともせずにその矢をかなぐりすて、項羽・樊噲のような勇気を発揮して、城戸を打ち破り、城内に乱入した。城兵は乱れ騒ぎ、討たれる者は麻の如くであり、城兵は本丸に引き籠り、二の城戸を固めて防戦した。これを見た信長は、明智光秀・坂井右近・森可成たちに命じて四方から城を攻めさせたので、城内は大いに苦しみ、大将の含忍斎は一族を集めて、「もはや城を保つことは難しい。こうなっては、信長に降参し、対面の際にとびかかって刺し違え、冥途の供にすべきではないだろうか」と尋ねたところ、皆同意したので、九兵衛は櫓に登って降参を告げた。しかし、信長卿は「先に山路弾正は偽りの降伏をした。これも偽りの降伏であろう」と言って、なおも攻めさせようとしたのを、家臣の者たちが、「降参を申し出ているのに、それを許さなければ、この後降参する者無く、征伐は容易ではなくなるでしょう。仁慈をもって許されるべきです」と諫めたので、信長卿はこれを受け入れ、降参を許した。そこで秀吉がひそかに進み出て、「これは殿の言うとおり、真実の降参ではないでしょう。ここは、大和国に領地を与えて大和に送り、途中で誅殺するのがよろしいでしょう」と言ったところ、信長卿は「我もそう思っておった」と答え、対面せずに大宮一族10余人を大和に送り、大宮入道が当てが外れてすごすごと大和に向かっている途中、数十人の者がこれを待ち受け、捕まえて首を刎ねた。信長卿は、今回の城攻めでの秀吉の武勇に感じ入り、秀吉が阿坂城の総門を打ち破ったのは、古の朝比奈義秀が鎌倉御所の南門を破ったのに劣るまい」と、深く称賛した。

…と、活躍がかなりオーバーに書かれるようになっていきます😅

『絵本太閤記』では城主の大宮入道はその後殺害されていますが、

『信長記』は、

…城の大将・大宮兵部少輔の父で80歳になる含忍斎が髪をそり、よろめきながら出てきて、降参を願い出てきたので、これを哀れに思って、命を助け、財産と共に大和国に送った。

…と記し、『氏郷記』・『総見記』もほぼ同様の内容になっています。

『勢州軍記』にはその後も大宮大丞が登場しているので、大宮入道殺害云々は完全な『絵本太閤記』の創作でしょう。

さて、こうして、室町幕府の追討軍を苦しめた堅城・阿坂城も、織田軍の前に1日の攻撃で陥落してしまいました。

勢いに乗る織田軍は、いよいよ北畠具教・具房父子が籠もる大河内城攻めに移ることになります…!


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