今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦
もうあと5話なんですね。5話で終われるんでしょうか…。
承久の乱、3話くらいやってほしいんですが…(;^_^A
今回は、前回のマンガに引き続き、巴御前と並び称された、
「板額御前」のマンガの続編を書いてみました!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇藤沢四郎清親
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信濃国伊那郡藤沢 |
1156年の保元の乱にも出陣していることから、建仁の乱時には60歳以上の高齢だったと考えられます(◎_◎;)
文治5年(1189年)の奥州合戦の際には、8月9日の阿津賀志山の戦いで三浦義村・葛西清重など6人と共に先陣を飾り、工藤行光の助けを得て敵の首を取り、行光に感謝するあまり、その場で行光の息子を自分の婿にする約束を交わしたといいます。
弓矢の名手であったようで、幕府の弓矢始めの行事の射手として何度も『吾妻鏡』に登場しています。
(※諏訪氏は弓の名手が多く、例えば諏訪盛澄は藤原秀郷流弓術を継承する人物であった。平家方につき捕らえられたが、流鏑馬で暴れ馬を渡されながら、8つの的をすべて射抜き、さらにその的の櫛の部分も再びすべて射抜いたことから源頼朝に除名されたほどの弓の使い手であった)
また、文治三年(1187)8月20日、土佐国(高知県)から200張の弓が献じられ、その弓は分け与えられたが、弓を多くもらった射手7人のうちの一人であったと記され(他のメンバーは下河辺行平・和田義盛・佐野基綱・三浦義連・稲毛重成・榛谷重朝)、
建久4年(1193)3月21日には、「将軍源頼朝が狩を行うにあたって、乗馬・弓に巧みな22人を選んだ」中に藤沢清親も入っており(他のメンバーには北条義時や小山朝光・下河辺行平・三浦義連・和田義盛・榛谷重朝・佐々木盛綱・葛西清重・梶原景季・仁田忠常などがいた。そうそうたるメンバーである)、
そして3月25日に武蔵国入間野で行われた狩では、藤沢清親は百発百中の腕を見せ(『百発百中之芸』とある)、雉を五羽、鶬(まなづる)を二十五羽も捕って名をあげ、感じ入った源頼朝から、頼朝が乗っていた一郎という馬を与えられています。
そしていよいよ今回のマンガの話。
建仁元年(1201年)5月には、信濃・越後・佐渡の武士が動員された鳥坂城の戦いに参加します🔥
『吾妻鏡』には、「信濃國 住人 藤澤四郎清親、城の後山に廻り、高所自り之を能く見て矢を發す。其の矢、件の女の左右の股を射通す。即ち倒れる之處、清親の郎等が生虜る。」(信濃国の武士・藤沢清親が鳥坂城の背後の山の高所から放った矢は、板額御前の両股を射とおし、板額御前が倒れたところを清親の家来たちが生け捕りにした」とあり、
鳥坂城の戦いでも弓矢の名手ぶりを見せつけ、大功を挙げてています。
謎なのは、この戦いまでは藤沢「次郎」清親だったのに、この戦いでは藤沢「四郎」清親になっていることです(◎_◎;)
『吾妻鏡』の最後の登場は承久三年(1221)5月21日で、
「武州今夜門出し、藤澤左衛門尉淸親の稻瀬河の宅于宿す」(北条泰時は京都に向けて出陣し、その日は鎌倉の稲瀬川にある藤沢清親の館に宿泊した)とあり、
北条氏からの信頼が厚かったことがわかります。
この時はもう80は超えていたはずで、この後まもなく亡くなったと考えられますが、
『藤沢村史』では、仁治元年(1240)ごろ死去したらしい、とあり、
これだと100歳近くまで長生きしたことになります(;^_^A アセアセ・・・
〇「敢(あえ)て對揚(たいよう)を耻(はじ)る不可之粧也(べからざるのよそおいなり)」
捕らえられた後の板額御前について、『吾妻鏡』には次のように記されています。
「藤澤次郎淸親 囚人資盛の姨母〔坂額女房と号す〕を相具し參上す。
(藤沢清親は捕虜とした、城資盛の母親の姉妹(板額女房と名乗る)を連れて鎌倉に参上した。)
其の疵未だ平減に及ばずと雖も相構へ扶け參ずと云々。
(股に受けた傷は治りきっていなかったが、よく注意して助けつつ連れてきた。)
左金吾其の體を覽る可し由仰せ被る。仍て淸親相具し御所へ參る。左金吾簾中自り之を覽る。
(左衛門督[唐名:左金吾]である源頼家[征夷大将軍となったのは1年後の1202年]が板額御前の姿を見てみたいと言ったので、清親は板額御前を連れて御所に参上した。源頼家は御簾の中から板額御前を見ることにした。)
御家人等群參し市を成す。重忠、朝政、義盛、能員、義村巳下 侍所 に候う。
(御家人たちが一目見ようと集まってきて人だかりができた。
畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村などが侍所に控えた。)
其の座の中央を通り簾下于進み居る。此の間、聊かも諛いの氣無し。
(板額御前は両脇に御家人たちが並ぶ、その中央を進んで御簾の前に進んで座った。その間、まったく媚びへつらう[相手の機嫌を取るような]様子はなかった。
凡そ勇力之丈夫を比べると雖も、敢て對揚を耻る不可之粧也。
(世の中の力の強い男と比べても、恥ずかしくないような様子であった。)
但し、顏色に於ては殆んど陵薗の妾に配す可しと云々。」
(しかし、顔立ちは「陵薗の妾」[中国の皇帝が死んだ後に、その墓に閉じ込められる女性のことで、美女に限られていた]のように美人であった)
以前に別のマンガで紹介した城長茂のように、恐れる様子はなく、非常に堂々とした姿であったようです。
その後板額御前がどうなったか、それについても『吾妻鏡』は触れていますので、
次回はそれについて書きたいと思います!😆
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