今日の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦
でも…「武士の鑑」畠山重忠が排除されるのは納得がいかない😥
派閥を作るタイプでもなく、北条氏と姻戚関係にもあったのに…。
北条時政の暴走としか思えません。豊臣秀吉の晩年みたいな…。
どちらも地位が人を変える、というやつなんでしょうか…。
今回は畠山重忠にも関係する、『吾妻鏡』のエピソードを書いてみました。
※マンガの後に解説を載せています。
〇城 長茂という男
『吾妻鏡』には、城氏の先祖についてこう書かれています。
「長茂は鎮守府将軍の平維茂の息子である出羽城介(平)繁成の7代の子孫である。
平維茂の勇敢さはいにしえの勇者にも恥じないほどであったので、
世の人々は恐れ入って(維茂がまだ将軍になっていない時から)進んで将軍と呼んでいた。
一方で仏教を厚く信仰し、極楽往生のためにしなければならないことについて源信(恵心僧都)と語りあっていた。
息子の繁成は生まれてすぐ行方不明になり、維茂は悲しみに暮れていたが、
4年たって夢のお告げを聞き、その通りに探したところ、狐の住む丘で発見して連れ帰った。
すると狐がおじいさんに化けて刀や櫛を繁成に授けて言った、
『私が育てていれば国の主になることができたのに、惜しいことだ』
城氏は代々その刀を受け継ぎ、城長茂もこれを持っているという。」
平維茂は平将門を討伐した平貞盛の甥(弟の子)です。平貞盛も鎮守府将軍です。
平貞盛は子だくさんなうえに養子を多くとっており、
平維茂も養子になったのですが、子・養子含めて15番目だったので、
余五(10余り5という意味)と呼ばれ、将軍になった後は「余五将軍」と言われました。
維茂は陸奥国(東北地方太平洋側)で藤原諸任という地元の有力者とトラブルになり、
藤原諸任の攻撃を受けて多くの死人を出して敗北しますが、
その後すぐに取って返して夜襲し、
勝ったと思って油断していた藤原諸任を打ち破り、館の男子を皆殺しにし、
その武勇が世に知られるようになりました。
その後は叔父と同じく鎮守府将軍に任命されますが、
下総(千葉県北部)の国府(役所)を襲ったり、
陸奥守(陸奥国の役所のトップ)とトラブルを起こしたりと、
武士の例にもれず不良でヤンキーでヤクザで暴力団でした(-_-;)
そのため朝廷の信頼を得られず、鎮守府将軍を長く続けることはできませんでした。
まぁ、極楽往生はできなかったでしょう…(;^_^A アセアセ・・・
その息子が狐に育てられた平繁成(繁茂)で、
出羽城介(今の秋田・山形県を管理する国司)になりました。
その息子の平貞茂は城太郎(出羽城介の息子という意味)と呼ばれ、
そこから城氏を代々名乗るようになったそうです。
その後、城氏は北越後(新潟県)を中心に北信濃(長野県)や岩城(福島県西部)まで勢力を広げたそうですが、
源平合戦が始まると城長茂は平家方として源義仲と戦いますが、
治承5年(1181年)6月、北信濃で行われた横田河原の戦いで大敗し、
負けたところをつけこまれて奥州藤原氏には岩城を奪われ、
大きく勢力を落としてしまいます😥
その後、平氏が滅亡すると捕らえられて、梶原景時が監視役となります。
熊野の僧、定任は城長茂・源頼朝と仏教の交流があったため、
その関係で源頼朝に何度も城長茂のことを取りなしたのです。
それに折れて源頼朝は城長茂と会うことにしますが、
城長茂は源氏より先に鎮守府将軍になった平維茂の子孫であるというプライドが強く、
源頼朝に素直に従おうとしませんでした。
そのため許されないままだったのですが、
1189年、奥州合戦の際に、監視役の梶原景時の仲介で参戦が許されます。
その際多くの家来を連れてきたので、頼朝は驚きつつも、ご機嫌になったそうです😆
そして城長茂は戦いで活躍し、御家人となることが認められ、城氏は(昔の規模ではないとはいえ)復活します。
この関係で城氏と梶原景時は深い結びつきができるのですが、
それが後にある事件が起きる元になるのですが、それは次回で!
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