今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦
源実朝、死ななければどうなっていたんだろう…。
北条義時は、北条ではなく、関東を第一には考えていると思うのですが、
やり方が黒すぎますね…。
もっとハッピーなやり方もあったのではないのだろうか…。うーん…。
今回は、源実朝に関するエピソードをマンガにしてみました!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇右大臣実朝
源実朝(1192~1219年)は源頼朝と北条政子の間に生まれた2番目の男子で、
1203年に征夷大将軍となった。
承元2年(1208年)2月、疱瘡にかかり、顔に痘痕(あばた)の跡が残った。
今回の話は建暦元年(1211年)4月29日のエピソードで、
永福寺にホトトギスの初音を聞きに行ったが失敗に終わったというものです💦
永福寺は源頼朝が奥州合戦の後、奥州藤原氏の怨霊を鎮めるために、
建久3年(1192年)11月25日(実朝が生まれた2か月後)に作ったもので、
応永12年(1405年)、火災により焼失しています。
ホトトギスの初音が聞けるのは5月ごろだそうです。
(ホトトギスは渡り鳥であり、5月ごろに日本にやってくるため)
建暦元年(1211年)4月29日は、西暦でいうと1211年6月11日にあたるのですが、
そうなると相当遅いですね(;^_^A(鎌倉時代は寒冷期であったことが影響??夏の始まりが遅れていたため?)
ちなみにホトトギスの鳴き声は「キョッ、キョ、キョキョキョ」だそうな。
知らんかった…。
というか、「ホー、ホケキョ」だと思ってましたよ(恥)😫
それはウグイスですね…(ノД`)・゜・。
ちなみに、ホトトギスの鳴き方を、「テッペンカケタカ」と当てることもあるようです。
漢字にすると「天辺翔けたか」…になるでしょうか(゜-゜)
次に源実朝と共に永福寺に向かったメンバーの紹介をします😆
・藤原範高…なんとあの熱田神宮の大宮司。
調べているとイロイロと面白い事実が分かったので、後日マンガにしようと思います💦
・内藤知親…藤原定家の弟子。源実朝の側近となる。
元久2年(1205年)9月2日、内藤知親が筆写した『新古今和歌集』が源実朝に献上された。
承元3年(1209年)8月13日には、京都から戻ってきて、藤原定家の添削を受けた源実朝の和歌を実朝に渡している。
・二階堂行村(1155~1238年)…「鎌倉殿の13人」の1人である二階堂行政の子。実朝暗殺後に出家。1225年、評定衆のメンバーとなった。
・東(とう)重胤(1155~1228年)…千葉常胤の孫。父の胤頼は千葉常胤に、源頼朝に味方することと、下総の目代を殺害することを進言した人物。
東重胤は源実朝のかなりのお気に入り(『吾妻鏡』には「無双の近仕」とある)であったが、
建永元年(1206年)になぜか下総国に帰国して数か月も鎌倉に戻ってこず、
実朝は和歌(「こむとしも たのめぬうはの 空にたに 秋かせふけば 雁はきにけり」…あなたが帰ってこないと心が落ち着かない。早く帰ってきてほしい。「いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁はきにけり」…あなたが帰ってくるのを今か今かと待っているのに、あなたは帰ってこない。)を送って鎌倉に戻ることを促したが、
それでも戻ってこなかったので激怒されて謹慎となった。
12月23日、北条義時のアドバイスを受けて和歌を詠み、
その和歌を義時が実朝に伝えたところ、実朝の怒りは解けた。
重胤は喜んで、北条義時に「代々北条氏に従います」と述べたという。
・三善(町野)康俊(1167~1238年)…「鎌倉殿の13人」の1人である三善康信の子。父の跡を継いで問注所執事となった。1225年には評定衆のメンバーにもなった。
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