1918年8月13日、福井市での米騒動をもくろむ若者たちが、
福井商業会議所により7月14日から、九十九橋~幸橋まで納涼電灯が点灯され、
芝居小屋や夜店が出て毎夜納涼客でにぎわっていた九十九河原(『大阪朝日新聞』大7・7・16)に乗りこみ、
納涼客を仲間に引きこんでいざ米騒動!と考えていたのですが、
にぎやかすぎて誰も演説を聞いてくれない始末…(;^_^A
そこで米騒動をもくろむ若者たちが考えた作戦は近くの寺の鐘を打ちまくって、
人々の気持ちをこちらに向けさせるというものでした!💦
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇善福寺の鐘を乱打
当時の資料(『福井市米騒動予審終結決定書』)には、次のようにあります。
「13日午后8時頃被告等38名は、前記九十九磧(かわら)に参集したる既に多数の市民集り居りたるより被告岩崎与三郎は数百名の群衆に対し近時米価暴騰するは一に我が福井県知事の施政其当を得ざる為なれば今より諸君と共に基調節を知事に強要するの必要ありと呼号したるに偶々群衆中より10数名の壮漢疾駆して其附近なる同市足羽上町善福寺(足羽学校附近)に到り梵鐘を乱打したる」
現代語訳してみると、
岩崎与三郎が「最近米価が暴騰しているのは福井県知事の政治がよくないからだ、今からみんなで知事に米価の調節を強要しに行こう」、と呼び掛けたところ、群衆中の10数名が福井市足羽上町善福寺の鐘を乱打した。
…ということになるでしょう。
この予審終結決定書では、岩崎与三郎が演説をしたところ、群衆中から10数人が鐘を突きに飛び出していったことになっていますが、
本人たちへのインタビューによれば、
鐘を突く前に演説をしたのは宮本政次郎であり、
飛び出していったのは6名(岩崎与三郎は6名と言い、宮崎房吉は5・6名と言っている)でした。
また、群衆中から飛び出したのではなく、首謀者のメンバーの中の6名です。
6名全員の名前はわかりませんが、わかっているのは、
岩崎与三郎の弟と、高木豊(印刷職:21歳)・水野清治(鍛冶職:21歳)がその中にいた、ということです。
また、岩崎与三郎の証言によれば、
「それで6人が鐘つきに行った。そして、弟と高木が交渉に行って、
「鐘を1つつかしてくれ」と、そしたところが、
「何じゃな!誰が鳴らすんにゃ」と言ったから、
「今晩、米騒動をやるんや、ほでとにかく叩かしてくれ」、
ほしたらお寺さんの曰くには、
「うらが、おけえ!と呼ばったらおいてくれ」と、
「そうじゃないと近所に悪いさけ」とくたくたになっちゃったんやね。
そいで、弟と高木が鐘の下にいて張り番をしたんやね、誰もこんか。
ほいで四ったり(西岡多四郎のことか?)がジャーン、ジャンと早鐘を打ったんや。
ほしたらして、
「お前らなんじゃー!鐘打つの!」とお寺さん出て来たところが、
張り番していた高木と弟がなぐってもたんや、かん立ってるやさけ。」
一部始終は以上のようだったそうです。
でも途中、鐘の下で弟と高木が見張り番をしていたのはなぜなのか、
しぶしぶ鐘を突くのを認めていたお寺さんが「お前らなんで鐘打っとんじゃ!」的にやってくるのがナゾです(◎_◎;)
見張り番は警察に対するものだったのかもしれませんし、
お寺さんには「お前らなんじゃー!なんで(そんなに)鐘打つの!(1つ[少し]じゃなかったんか!)」という言葉が省略されていたのかもしれません。
このナゾを解く一つの手がかりとなる証言があります。
宮崎房吉が鐘乱打事件の補完となるような証言をしているのです。
「そのとき撞木(しゅもく)の縄がはぐいてあったんかね、
それをなんかあこの家へ入って、
米のはずし縄をとって来て、
あの撞木にくくって30も50も打った。
ほいでガンガンてやったもんや」
どうやら鐘を突こうとしたはいいものの、
撞木を前後に動かすための縄が取り外されていたので(そういうお寺は多い)、
近くの家から縄をとってきたのをくくりつけて鐘を打ったようです。
貼り番をしていた弟と高木は、もしかすると、お寺さんが縄を持ってくるのを待っていたのかもしれません。
しかし、いつまでたっても誰も来ない。
そこでしびれを切らして、近くの家に侵入して縄を手に入れて、それで鐘を打った。
縄がないから自分が縄をもっていくまでは鐘は打てないだろう、
と思っていたお寺さんは、鐘が鳴りだしたから、
「なんでお前ら勝手に鐘を打ってるんや!」と驚いたのだと思います。
たぶんに怒りもあったでしょう。
しかし、お寺さんは血気盛んな若者によって第一の犠牲者(死んでませんが、たぶん気絶?させられたのかと💦)となってしまいます。
鐘が乱打され、納涼を楽しんでいた人々は騒然となります。
いよいよ賽(さい)は投げられたのです…!(◎_◎;)
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