またたくまに畿内を平定した織田信長。
勢いのある人・組織・国などには人・物が集まるもので…。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇「我朝無双のつくもかみ」
山城・摂津・河内などを平定した織田信長は10月2日に芥川城に入っていましたが、
『信長公記』に「異国本朝の珍物を捧げ、信長へ御礼申し上ぐべきと、芥川14日御逗留の間、門前に市をなす事なり」とあるように、
信長が芥川城に滞在していた14日の間に、各地から多くの者があいさつのために芥川城に殺到し、信長に気に入られるために、外国や日本の珍しいものを献上してくることになります。
堺の今井宗久(堺を治める会合衆の1人。千利休・津田宗久と並び、三代宗匠と呼ばれる。1520~1593年)は松島の葉茶壷と、紹鴎茄子を信長に献上しました(「今井宗久 是又隠れなき名物松島の壺、并に紹鴎茄子進献。」『信長公記』)。
松島の葉茶壷は、『茶人 織田信長]によれば、中国南部の広東省あたりで作られたのを輸入したもので、高さは40~50㎝程度で、葉茶が7斤(4.2㎏)ほど入るのだそうです。もともとは8代将軍・足利義政が所持していたこともある由緒正しい壺です。
紹鴎茄子は現存しており、湯木美術館に保管されています。その名は、茶人の武野紹鴎(1502~1555年)が所持していたことに由来します。
現在、紹鴎茄子は3つ残っており、区別するためにそれぞれ松本茄子・細口茄子・澪標茄子と呼ばれ、信長が受け取ったのはこの中の松本茄子にあたります。
今井宗久は武野紹鴎の弟子で、娘婿となり、紹鴎の死後はその財産を継承したといいますから、紹鴎茄子もその時に手に入れたものなのでしょう。
津田宗及は松本茄子を見て、肩の部分が撫で肩なのが好ましい所である、と感想を記しています。
信長は紹鴎茄子(松本茄子)を受け取りましたが、『宗二記』によれば、10年後に返還しています。
ちなみに、『信長記』では、献上したのは紹鴎茄子ではなく、紹鴎の菓子の絵、と記されています(;^_^A
今井宗久は機を見るに敏な人物で、1543年に伝来した鉄砲に目をつけ、火薬の原料である硝石を大量に買い集め、1552年には鉄砲の生産を開始しています。
先を見通す力がある宗久は、次は信長の時代だ、三好三人衆が勢力を取り戻すことは無い、と判断して堺の商人の中でいち早く信長に取り入るのですが、そのためにこの後さまざまな特権を認められていくことになります。
太田牛一は松島の壺・紹鴎茄子以外の珍品を持ってきた者について、次のように書き記しています。
「往昔、判官殿、一谷鉄皆が碊(がけ)めされし時の御鐙(あぶみ)進上申す者もこれあり。」
源平合戦の折、源義経が一ノ谷の鉄拐山の崖を下った時に使用されていた鐙(足を乗せる馬具)です、と言って持ってきた者がいた、というのですね(本当なんでしょうか…(;^_^A)
鉄拐山の崖を下った…というのは、「鵯越の逆落とし」として有名な逸話ですね。
一ノ谷に陣を構える平家を、鵯越と呼ばれる背後の急峻な崖から駆け下って撃破した…というものですが、実際は、鵯越と呼ばれる場所は一ノ谷から遠く離れており、一の谷の背後の山は鉄拐山なので、こちらが正しいと言われております(つまり『信長公記』が書かれた時にはすでに判明していた)。
(源義経が逆落としをした、と言うのも近年は怪しいと考えられているようで、信ぴょう性の高い史料『玉葉』には、「多田行綱 山方より寄せ、最前に山の手を落さると云々」とあり、どうやら逆落としを行なったのは多田行綱が正しいらしい)
以上のように、多くの人が珍品を持って信長のもとを訪れたのですが、特に優れた逸品を持ってきたのは、あの松永久秀でした(◎_◎;)
芥川城にやって来た松永久秀について、これは降参したのだ、とする説もありますが、
実際は、これまでにも述べてきたように、松永久秀は足利義昭方の武将として長く三好三人衆方と戦ってきたのであって、敵であったわけではありませんでしたから、降参する必要がないのですね(;^_^A
松永久秀は織田軍が上洛してくると、9月28日に娘を人質として京都に送っています(『多聞院日記』)。
そして松永久秀本人も、足利義昭や織田信長にあいさつするために、10月2日に出発、10月4日に松永久秀は芥川城に赴きます。
そこで松永久秀が信長におそらく上洛して窮地を救ってくれたお礼として贈った物…それは、「我朝無双のつくもかみ」(『信長公記』)…九十九髪茄子(付藻茄子)でした。
九十九髪茄子は、茄子型の茶入れで、松本茄子・富士茄子と共に「天下三茄子」と呼ばれた茶器の逸品でした。
もともとは室町幕府3代将軍・足利義満のもので、その後、足利義政や村田珠光(珠光が命名したと言われる)と伝わっていきました。
戦国朝倉氏の名将・朝倉宗滴は、500貫を出して九十九髪茄子を手に入れています。
1貫が現在の12万円くらいの価値なので、500貫は6000万円にもなりますね(◎_◎;)
フロイスは、日本では茶器が高い値で売買されていることを驚きをもって次のように記しています。
「4千~5千クルサードの道具で驚いてはいけない。都のソータイの持つククムガミの茶入は2万5千ないし3万クルサードの値打ちがあるといい、ソータイがその気になれば、いつでも10万クルサードで買い取る大名がいる」
クルサードは16~19世紀にポルトガルが使用していた貨幣の名前です。
1クルサードは300文(=0.3貫)ほどの価値があったそうです。
つまり4千~5千クルサードというのは1200貫~1500貫ということになります。
今で言うと1億4400万円~1億8千万円というスゴイ金額になります(◎_◎;)
そんな茶器の中ですさまじく価値が高かったのは、「ソータイ」の持つ「ククムガミ」です。
「ソータイ」というのは霜台、弾正忠であった松永久秀の事で、「ククムガミ」は九十九髪のことです。
こちらは2万5千~3万クルサードの価値があるというのですから。7500貫~9000貫、つまり現在で言うと9億円~10.8億円という超高額になり、
10万クルサードで買いたい大名がいた、というのは、3万貫、現在で言うと36億円にもなりますΣ( ̄□ ̄|||)
この超逸品の九十九髪茄子は、紆余曲折あって松永久秀の手に入れるところになっていたのですが、久秀はこれを信長に贈ったというわけなのですね。
実はこの九十九髪茄子は現存しており、静嘉堂文庫美術館に保管されているのですが、本能寺の変や大阪の陣で被災し、何度も修復が行われており、信長が所持していたころとは姿が異なるようなのですね(;'∀')
当時の姿について、津田宗及が貴重な記録を残してくれています。
津田宗及は永禄11年(1568年)12月10日の茶会で、信長が所持していた九十九髪茄子を初めて目にし、その姿かたちに着いて、次のように書き記しました。
「つくものかまなすび 始て拝見申候 此壺なり(形)ひらめニ見え申候 ころ(比)大がた也 土あまりこまやかにはなく候 藥色あかぐろく候 右此つぼおもひのほかにくすみたるつぼ也 おもてのなだれハ なだれなどのやうには見え申さず候 くすり(薬)にじみたるやうニ見え申候也 盆つきにて薬とまり候 なだれの左右ニくすりらん(乱)じたるところあり 石間ハ面のつぼの右方ニあり わきよりハすこしうしろのかたニあり 色くすりは少かす(少なからず?)はけたるやうニ見え申し候 くすりうすきやうなり 土しゅ(朱)したたかにいたしたる也 但なだれの右方ニあり…此石間はひま(火間)とも むかしより申伝候 又有説には山な殿 くそく(具足)のそて(袖)につけられて きず(傷)がつきたるなどとも申伝候 兎角 さようには見え申さず候 つぼの むまれつき(生まれつき)にて御座候」(『天王寺屋会記』)
壺の形は比較的平たい、大きさはひょうたん大だ。土の粒の大きさはあまり細かくはない。色は赤黒い。思ったよりも色が暗い。なだれ(釉薬が垂れ下がったもの)は、なだれのようには見えず、釉薬がにじんでいるように見える。茶入れの底でなだれは止まっている。なだれの左右に釉薬が乱れているところがある。釉薬がかかっていないところが表の右の方にある。側面より少し後ろの方にある。釉薬は少し剥げかかっているように見える。釉薬は薄いようである。土の朱色の具合は強い。釉薬がかかっていないところはなだれの右の方にある。…石間は火間とも言う。また、ある説には、山名殿の具足の袖が当たって色が剥げたのだと言うが、そのようには見えない。この壺の生まれつきであろう。
…このような訳となるでしょうか??(;^_^A
また、宗及は九十九髪茄子の評価を次のように書いています。
「此御つぼの上にても土などはおもハしくもなく候歟 石間などもねがハくはよくもなし…惣別此つぼ すこしも いやしきやうにはなし あまりにあまりにくらいありすぎたるやうには見え不申候」
この壺の土は好ましくない。だから石間が良いとは思えない。この壺は下品とは思えないが、世の中で非常にありがたがられるようには見えない。
…と辛らつな評価を下しております(;'∀')
ちなみに、松永久秀が贈った物について、『足利季世記』『信長記』は、九十九髪茄子ではなく、「吉光の脇差」だと記すのですね(◎_◎;)
『足利季世記』…公方様(足利義昭)にお礼のあいさつをするために芥川城に赴いた。松永久秀は吉光1振を献上した。
『信長記』…松永久秀は天下に並ぶものがない吉光の脇差を献上した。
これはどういうことなんでしょうね…『足利季世記』は足利義昭との対面について書いていますから、足利義昭には吉光の脇差を贈り、信長には九十九髪茄子を贈った、ということなのでしょうか(゜-゜)
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