社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 池田城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事②

2023年12月24日日曜日

池田城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事②

 山城国(京都府南部)を平定した織田信長は、休むことなく、続けざまに摂津国(大阪府北西部・兵庫県南東部)・河内国(大阪府東部)の攻撃に移ります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇池田城の戦い

上洛戦の後半を今回は見ていこうと思いますが、

前半もそうでしたが、後半はもっとひどい!

何が、かというと、諸書によって出来事の日時がかなり異なっているのです(◎_◎;)

かなり難儀なのですが、『信長公記』の記述を基にして、おそらくこうだったのではないか、と上洛戦の日取りを再構成してみようと思います(;^_^A

9月27日

・浅井勢(「江州北郡衆・高島衆」)約8千、神楽岡(京都市左京区)に着き、その後、南方に移動(『言継卿記』)。

『東浅井郡志』には、「滋賀越」をして神楽岡に着いたと思われる、と書いてあります。「滋賀越」は「志賀越え(山中越え)」のことです。また、『東浅井郡志』には、勝竜寺城攻めには加わらず、直接、摂津に向かったのだろう、とも書かれています。

・織田軍の先陣、山崎に至る(『言継卿記』)。山崎の敵軍、退却(『足利義昭入洛記』)山崎で激しい略奪が行われる(『言継卿記』)。

『足利義昭入洛記』には、次のように書かれています。

27日に三人衆方の五畿内・淡路・阿波・讃岐の兵が山崎に控えているという噂を聞き、軍勢を差し向けたところ、山崎から退散した。

その後、山崎ではかなり激しい略奪が行われたらしいことが、『言継卿記』には記されています(◎_◎;)『細川両家記』にも、…織田軍が摂津に入る際、山崎で軍勢が家々に押し入り、乱妨(略奪行為)を行なった…とあります。見せしめ的な行為なのか、京都でできなかった分のうっ憤をここで晴らさせたのかはわかりません💦

9月28日

・信長、山崎着陣。(「晦日、山崎御着陣」『信長公記』)。

先陣は摂津国の天神の馬場(大阪府高槻市上宮天満宮の参道と西国街道が交わる辺り)に至り(「先陣は天神の馬場陣取」『信長公記』)、芥川の市場を放火する(『言継卿記』)。

9月29日

・足利義昭、天神の馬場まで出陣(『言継卿記』)。

『足利季世記』には、…新公方様(足利義昭)は南方の敵を討つために出陣し、藤の森の堤にしばらく陣を構えた。そこで八幡宮(藤森神社)に参拝したところ、男山の方から山鳩が多く飛んできて、陣の上を飛び回った。これは神の啓示である、と心に深く刻み込むばかりであった…という話が載っています(『総見記』では、…新公方は出陣して藤の森にしばらく陣を構え、八幡宮に参拝した。その際、男山から山鳩が多く飛んできて、旗の上を飛びまわった。これはめでたいことが起きる前触れだと、人々は感じた…とあり、微妙に表現が異なる)。天神の馬場は上宮天満宮前あたりですが、ここから藤森神社は約10㎞ほど南西にあります。

・伊丹親興、足利義昭に味方して摂津国武庫郡・川辺郡に放火する(『細川両家記』)。

『細川両家記』には次のように書かれています。

摂津国の伊丹親興は、一乗院殿(足利義昭)が越前国にいる時から、(義昭のために)あれこれと働いていた。…この時は阿波公方方に味方していたが、阿波公方方に敵対の意思を示し、9月29日、摂津の川辺・武庫両郡を放火した。

摂津伊丹(有岡)城主の伊丹親興は実際に、三好三人衆方と松永方が対立して争った際に、足利義昭方でもあった松永方についています。しかし、篠原長房が四国から大軍を率いてやってくると、永禄9年(1566年)9月に(やむを得ず?)三人衆方に降伏していました。

そして今回、上洛軍がやってくると、これに呼応して川辺・武庫郡に火を放ち、三人衆方に敵対の姿勢を見せたわけです。

ちなみに伊丹城は川辺郡にあり、篠原長房の拠点・越水城は武庫郡にあります。伊丹親興の裏切りに篠原長房は動揺したことでしょう。

・河内国の飯盛城・高屋城、退散(『足利義昭入洛記』『細川両家記』)。

『足利季世記』や『総見記』には伊丹親興が寝返ったのを聞いて退散した、というように書かれていますが、伊丹城と河内国は離れているため、因果関係はあまりなかったと思います(;^_^A

それよりも、『言継卿記』に、河内の各地にも火を放った、とありますが、こちらの方が影響は大きかったと思います(゜-゜)

『足利義昭入洛記』には、次のように書かれています。

…河内国の飯盛城・高屋城はしばらく抵抗したが、これも夜に入って淡路へ落ち延びていったという。

『総見記』には、次の記述があります。

…親興の行動に動揺した河内国の高屋城・飯盛城は城を明け渡して去っていった。飯盛城は三好長慶・義継と二代にわたって受け継がれてきていたが、先年に義継が城を出て以降は三人衆の三好宗渭の居城となっていた。高屋城は畠山高政の居城であったが、三人衆方に敗れて城を明け渡して流浪の身になり、その後は三好笑岩(康長。永禄10年[1567年]頃出家)が城主となっていた。三好宗渭も三好笑岩もかなわないと思い、四国へ落ち延びていった。

・芥川城の細川六郎(のちに昭元。管領・細川晴元の子)・三好長逸、夜のうちに芥川城から退散(「芥川に細川六郎殿・三好日向守楯籠もり、夜に入り退散」『信長公記』)。

『言継卿記』には、芥川城の城下を放火した、とあります。三好三人衆の1人・三好長逸はかなわぬと見て、夜の明けぬうちに芥川城から落ち延びていきました(『言継卿記』は退散したのを夕方、『信長記』は三好長逸が退散した時間を「亥の刻(午後10時頃)」としています)。

『信長記』は、芥川陥落の際のエピソードを次のように記しています。

…細川六郎が退散したのを、人々は次の狂歌を書いて笑った。「落ち去りて いずくに塵を芥川 さらに浮名を 流すほそかわ」。

9月30日

・織田信長・足利義昭、芥川城に移る(「芥川の城、信長供奉なされ、公方様御座移さる」『信長公記』)。

郡山道場・富田寺外を破壊(『言継卿記』)。

郡山道場は浄土真宗の寺です。富田寺は阿波御所・足利義栄がいた寺ですね。どちらも摂津にあります。

富田寺については足利義栄を目標とした攻撃であったと思われますね(゜-゜)

『細川両家記』には、郡山はあちらこちらで破壊が行われた、と書かれ、『多聞院日記』には、摂津はことごとく焼かれた、とあります。

・池田城を攻める(『言継卿記』)。

池田城の戦いの日にちについては、『足利義昭入洛記』は29日に攻撃→その日に降参、『言継卿記』は30日に攻撃→10月2日に降参、『細川両家記』『足利季世記』『総見記』は30日に攻撃→その日に降参、『信長公記』『信長記』は10月2日に攻撃→その日に降参、とバラバラです(◎_◎;)

今回は『言継卿記』の9月30日~10月2日の3日間にわたって戦った、というのを採用したいと思います。やはりもっとも信ぴょう性が高いので…(;^_^A

『越州軍記』には、…4・5日間、兵を入れ替え入れ替え攻め続けた、という記述もありますね(゜-゜)

・高槻(入江)城・茨木城、降参。

どちらも摂津にある城です。『細川両家記』『足利季世記』『総見記』はどれも、池田城陥落と共に降参、と書いているのですが、『足利義昭入洛記』には、摂津では池田城だけがまだ抵抗していた、という記述があるので、池田城が降参する前に9月30日か、もしくは10月1日にすでに降参していたと考えられます。

10月1日

越水・瀧山城、退散(「篠原右京亮居城越水・滝山、是又退城。」『信長公記』)。

どちらも篠原長房の勢力下にある城で、篠原長房自体は越水城にいたようです。

篠原長房の退散については、諸書によって記述が異なります。

『細川両家記』…10月1日、阿波公方(足利義栄)様、讃岐の細川掃部様、三好彦十郎(長治)殿は篠原長房と共に阿波に逃れた。

『足利季世記』…越水城の篠原長房もこの月(9月)、足利義栄が腫物を患って死んだこともあり、越水城・布引瀧山城を明け渡し、10月1日、富田普門寺にいた三好彦二郎と共に阿波国に落ち延びていった。

『信長記』…篠原長房が立て籠もっていた小清水(越水)・瀧山城も、2日に城を明け渡した。

『総見記』…三好方は防ぎきれないと思い、ここは落ち延びて、本領四国の兵を引き連れて、巻き返しを図りましょう、と篠原長房が申し上げて、10月1日、阿波の御所足利義栄は富田の普門寺から四国へ落ち延びていった。細川掃部助・三好彦二郎もこれに御供して阿波へ下って行った。しかし、程なくして義栄は腫物を患い、回復することなく、10月末に阿波国で亡くなった。

篠原長房が、足利義栄と共に四国に去ったかどうか、というのが大きな違いとなります。

『細川両家記』や『総見記』は、足利義栄と共に四国に去った、とあるのですが、『足利季世記』は9月にすでに死んでいた、と記しています。

1868年までの公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)のメンバーを毎年書き継いでいった『公卿補任』には、「9月 日征夷大将軍薨給。(腫物)。」と書かれているので、どうやら9月中に足利義栄は死去していたようです(◎_◎;)

そのため、『足利季世記』の記述が正確と言えるでしょう。

10月2日

・池田城、降参。摂津を平定する(『信長公記』)。

池田城主・池田勝正はなぜ単独で抵抗を続けたのでしょうか?(゜-゜)

池田勝正はもともと三好長慶に仕え、長慶の死後は、三人衆に味方していましたが、『多聞院日記』5月2日条に、石成友通と共に大和の東大寺に兵を進めた、と書かれているなど、三人衆方の主力の1つとなって活動していたようです。

三好三人衆や篠原長房などは、四国という逃げる場所がありました。

しかし、池田は摂津が本領なので、逃げることもできないし、降参しようにも認められないだろうと思って抵抗を続けていたのではないでしょうか(゜-゜)

池田城の戦いは、後がない池田勢が必死に抵抗したため、かなり激しい戦いとなったようで、その模様は『信長公記』にかなり詳しく記述されています。

10月2日に池田の城、筑後居城へ御取りかけ、信長は北の山に御人数備えられ、御覧侯。水野金吾内に、隠れなき勇士 (つわもの)梶川平左衛門とてこれあり。并に御馬廻の内、魚住隼人・山田半兵衛、是も隠れなき武篇者なり。両人先を争い、外構え乗り込み、爰にて、押しつ押されつ暫くの闘いに、梶川平左衛門、骼(こしぼね)を突かれて罷り退き討ち死なり。魚住隼人も爰にて手を負い、罷り退かる。かようにきびしく侯の間、互いに討ち死数多これあり。終に火をかけ町を放火侯なり。今度、御動座の御伴衆末代の高名と、諸家これを存じ、「士力日々にあらたにして、戦うこと風の発するが如く、攻むること河の決(さく)るが如し」とは、夫れ是を言うか池田筑後守降参致し、人質進上の間、御本陣芥川の城へ御人数打ち納れられ、五畿内隣国皆以て御下知に任せらる

10月2日、池田勝正の籠もる池田城を攻め、信長は北の山から戦いの様子を見た。水野忠分の配下に、世に知られた勇士の梶川高秀がいて、馬廻の中には、魚住隼人・山田半兵衛という、これまた名の知られた勇敢な武士がいた。この者たちは先を争って城を攻撃したが、梶川高秀は腰骨を槍で突かれて退いた後に死亡し、魚住隼人も負傷して退いた。このように厳しい戦いの中、双方に多数の死者が出た。最後には城に火をかけ、町に火を放った。上洛軍は後世に残る手柄をたてようと戦った。『三略』にいうところの、「士気は日に日に高まり、戦えば風が吹き出すように、攻めれば河の堰を切ったようであった」とはこのことである。池田勝正はついに降参し、人質を差し出したので、信長・義昭は芥川城に兵を返した。こうして、五畿内と隣国は足利義昭の命令に従うようになった

抵抗を続ける池田城に対し、信長は自ら池田城の北の山(五月山)に進み、池田城の総攻撃を命じます。池田城は標高50mの丘に作られているのに対し、五月山は200m以上あり、城の内部の様子は手に取るようにわかったでしょう。五月山に城を築くべきだったのではないか?と素朴に思うのですが、どうやら、五月山には城の跡は認められていないそうなので、どうもわざわざこちらを選んで築城したようです(◎_◎;)

池田城は西側が崖、北側は川に守られ、東・南方向には大規模な堀が作られ、堅固なつくりになっていたようで、このため織田軍も苦戦を強いられることになります。

また、ルイス・フロイスが「池田家は天下に高名であり、…五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った1万の軍兵をいつでも戦場に送り出す事ができた」と書いているように、軍備が充実していたことも、織田軍が苦戦する要因の1つとなりました。

織田軍は池田城に猛烈な攻撃を仕掛けますが、梶川高秀が戦死・魚住隼人が負傷するなど、大勢の死傷者を出しました。

梶川高秀も魚住隼人も、桶狭間の戦いの際に登場したことのある人物です。

梶川高秀は、中島砦の守将であり、魚住隼人は、前田利家と共に織田信長に首を見せに来ています

織田軍の被害について、諸書は次のように記しています。

『細川両家記』…織田信長は5万ほどの兵で池田城を取り囲み、厳しく攻め立てたところ、城兵は城を出て突撃し、14人を討ち取り、数百人を負傷させた。

『越州軍記』…池田城兵は100人ほど討ち死にし、攻め手側も3・400人が討ち死にし、負傷した者は数え切れないほどであった。

『信長記』…先鋒の軍勢が池田城に押し寄せたところ、城内から兵が出てきて、ここが死に場所と必死に防戦した。敵味方入り乱れる激しい戦いとなった。

『総見記』…信長は5万余騎で池田城を攻撃した。まず城外に火を放ったところ、城主の池田勝正は城外に打って出てきたので、数時間にわたって戦いとなった。攻め手側は梶川高秀をはじめ14人が戦死し、100人余りが負傷した。しかし池田は小勢であったので、城内に戻った。

こうして見ると、『信長公記』と違い、城内から兵が出てきた、と書いてある史料が多いことがわかりますね(゜-゜)

思わぬ反撃にあって多くの負傷者を出した、と書くのは不名誉だったからでしょうか?💦

また、『信長公記』『信長記』は、多くの死傷者を出しながらもそれでも攻め続けたので、池田勝正が降参した、というように書いていますが、

『細川両家記』…2万石を与えるという条件で和睦

『足利季世記』…2千貫(4千石)を与える代わりに人質を差し出すという条件で和睦

『越州軍記』…降伏したら恩賞を与えるという条件で和睦

…と諸書には書かれているのですね💦

池田勝正は戦後、和田惟政・伊丹親興と共に摂津国の支配を任されたり、足利義昭が将軍に就任する際、道中の警固役を任されたりするなど(『足利季世記』)、破格の待遇を受けていますから(他の2人は上洛戦で信長に味方して功績のあった人物なのでなおさら)、恩賞を与えるという条件で和睦した…というのが正しいのではないでしょうか。

信長としては、大軍を率いていて戦いを長引かせたくなかったでしょうし、実際に戦ってその力を認め、三好三人衆方に対する押さえとして利用したいと考えたのでしょう。

こうして信長は摂津を平定することに成功したのですが、河内国は先に飯盛・高屋城の退散で攻略しており、和泉国は松浦光(孫八郎)が足利義昭に味方していたため、畿内で平定されていないのは、筒井順慶が抵抗を続ける大和国だけとなっていました。

信長は、畿内平定のため、続いて大和国に兵を向けることになります🔥

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