社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 大和平定戦~五畿内退治所々の合戦御仕置の事④

2023年12月28日木曜日

大和平定戦~五畿内退治所々の合戦御仕置の事④

芥川城で松永久秀と対面し、九十九髪茄子を受け取った織田信長。

この会見では、大和国(奈良県)に関する重要な話し合いが行われていたようで…?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇大和平定戦

松永久秀以外にも、多くの公家や有力武将が芥川城を訪れていました。

『細川両家記』には、…三好左京大夫殿(義継)・霜台(松永久秀)が御所様(足利義昭)・信長にあいさつをするために芥川城に赴いた、とあり、『足利季世記』にも同様の記述があるのですが、

より信ぴょう性の高い『言継卿記』10月4日条を見ると、竹内三位入道(季治)・両畠山(高政・秋高兄弟か)・松永弾正忠・池田筑後守(勝正)・高槻の入江氏などが芥川城を訪れた、とあります。

信長はこの際に今回の上洛戦で手に入れた国々の配分を伝えています。

『細川両家記』によれば、領地配分は次のようになっていました。

…左京大夫殿(三好義継)は河内国の半分を与えられ、残り半分は畠山殿(秋高)に与えられた。霜台には、大和国は切り取り次第(勝って手に入れた土地を自分の物にしてもよい)と伝えた。摂津国は和田(惟政)・伊丹(親興)・池田(勝正)に与えられたという噂である。

三好義継が河内国の半分を与えられたことについて、『総見記』はその理由を、…これは、義継が公方家(足利義昭)の妹婿であり、光源院殿(足利義輝)にも敵対することなく、上洛の際に味方になったからである。…と記していますが、この時点ではまだ義継は足利義昭の妹婿ではなく、また、足利義輝に敵対していないどころか足利義輝殺害の中心人物でしたから、『総見記』のこの記述は上洛の際に味方になった、という以外はすべて誤りです(;^_^A

三好義継・畠山秋高などと違い、松永久秀だけは切り取り次第…となっているのはなぜなのかというと、『総見記』に、…大和はまだ平定されていなかったので、…とあるように、まだ大和には筒井順慶などの敵対勢力が残っていたからです。

実は、この敵対勢力たちも同日に芥川城を訪れているのですが、

『多聞院日記』の10月5日条に、…(4日に)井戸・窪庄・豊田・筒井も挨拶に行ったが、尾州は快く思わず、彼らは空しく帰ったという。…とあるように、信長は筒井たちの降参を認めなかったのですね(◎_◎;)

上洛に味方するように呼びかけながら、これに応じず、畿内が平定されるまで敵対を続けた彼らを赦したくなかった気持ちもあったでしょうが、

これはおそらく松永久秀に対する配慮によるものでしょう。松永久秀としては、長く自分に敵対してきた筒井たちが領地を安堵される、というのは到底受け入れられないことでした。

松永久秀と筒井氏をはじめとする大和衆との抗争の始まりは、永禄2年(1559年)にまでさかのぼります。

永禄2年(1559年)8月6日に松永久秀は大和に進入、筒井城を攻め落とし、

翌永禄3年(1560年)8月28日には井戸城、11月13日に万歳(まんざい)城、24日に沢城・檜牧城を奪い、大和に地歩を固めることに成功しました。

永禄4年(1561年)には大和支配の拠点として多聞山城を築いています。

永禄6年(1563年)は1月27日に松永方が多武峰(とうのみね)で敗北するも、5月24日に奪われていた信貴山城を奪還、7月中旬に高取城を奪うなど、優勢ながらも一進一退の状態が続きます。

そして永禄8年(1565年)、松永久秀が三好三人衆と対立すると、大和衆は三好三人衆方につき、松永久秀は劣勢を強いられるようになっていった…というのは、以前に紹介しましたね。

このように長きにわたって抗争を続けていた手前、いまさら仲良くするということはできなかったのです(◎_◎;)

信長は松永久秀に援軍を送ることも約束、松永方はこれを受けて、早速筒井順慶方の攻撃に取りかかります。

『多聞院日記』10月6日条には「松永久通の兵が筒井に攻め寄せ、平城の近くまでを焼いた。郡山衆が裏切ったためである。…筒井順慶は固く城を守っているが、長くは持たないであろう」とあり、10月9日条には「昨日(8日)の夕方に筒井の平城が落城し、今朝松永久通が入城した」と書かれているように、松永久秀の子・久通は織田の援軍が来る前に筒井城を攻略することに成功します。

織田の援軍がやって来たのは10月10日の事で、『多聞院日記』には「京から細川兵部大輔・和田伊賀守[公方方の両大将]・佐久間[織田尾張守方大将]、2万ほどの軍勢を率いて(唐)招提寺まで攻め寄せた」とあります。

足利義昭も細川藤孝・和田惟政を送っていることがわかるのですが、主力はやはり、佐久間信盛率いる織田軍だったでしょう。

その後の様子を、『多聞院日記』に拠って見ていこうと思います。

10月10日 「援軍が到着したが、今日はどこも攻めなかった。窪城は降参したが、井戸・柳本・豊田・森屋・十市・布施・楢原・万歳の城は今のところ城を堅く守っている。…尾張衆が興福寺に参詣した。尾張の兵は厳しく命令されており、奈良は平穏無事である。珍重珍重

10月11日 「森屋・窪城に続き、軍勢は井戸に攻め寄せ、停戦したという」

10月12日 「柳本に先鋒が攻め寄せた。堅固に守っているという。」

10月14日 「柿森・結崎のあたりが焼かれたという。国中、敵味方関係なくだいたい焼かれたという。」

10月15日 「豊田城が落城した。各地で苅田(田の作物を勝手に刈り取る事)が行われている。やめてほしい、やめてほしい。」

10月19日 「軍勢は布施に向かったという。」

10月20日 「布施に攻め入り、ことごとくを焼いたという。」

以上のように、松永方は各地で攻勢に出ていましたが、10月21日になると、『多聞院日記』に、…軍勢は京に戻り、佐久間が残ったという、とあるように、援軍の織田軍のほとんどは早くも奈良から去ってしまいます(◎_◎;)

その理由を説明しているのが『細川両家記』で、

…松永久秀の援軍として、尾張衆約2万が大和に攻め入った。そこで筒井平城は城を明け渡して退散した。また、井出城(井戸城の誤り)を攻めたが、城内の兵は攻め手を近づけさせておいてから、城内から打って出て、多くを討ち取り、負傷させた人数は数が知れないという。そこで、年内はもう日がないと言い、大和から京都に引き上げ、尾張に戻ったという。

…と書かれています。

『足利季世記』には『細川両家記』を参考にしたと思われる次の文章が載っています。

…松永久秀は尾張衆の力添えを受けて、大和を平定するために出陣し、筒井の平ガ城を攻めた。城兵はしばらく抵抗したが、かなわないと思い城を明け渡した。続いて井土(戸)城を攻めた。井土(戸)若狭守は城の近くまで引き付けてから城内から打って出て、松永衆を散々に破り、多くを討ち取った。攻め手はかなわないと思ったのか、年内にもう日がない、京都に引いて年を越そう、と言って加勢の尾張衆は京都に引き上げてしまった。松永久秀はなおも多武峰を攻めるために大和にとどまった。

両書とも、井戸良弘の奮戦が、織田軍の退却につながった、と書いているのですが、この出来事は実際にはあったか疑問です💦

なぜなら、これだけの大事件があったならば、『多聞院日記』にその事実が記されているはずだからです。

しかし、実際には、井戸城での戦いについての記述は、停戦したという、としか書かれていません。

また、この後、永禄13年(1570年)2月20日に、井戸良弘が松永方の多聞山城を攻撃、これに対して久秀が井戸氏の娘を串刺しにする、と言う事件が起きているのですが、ここからは、永禄11年(1568年)の井戸城の戦いで和睦した際に、松永久秀に人質として娘を送っていた、ということが読み取れます。

『細川両家記』は、摂津・丹波以外の情報は概して信ぴょう性が落ちるそうなので、井戸良弘の奮戦のため退却したと言うのはおそらく誤りで、

織田信長は10月26日に京都から岐阜に帰っているので、これに合わせて兵を戻した、というのが実際の所であったと思われます(;^_^A

織田軍の援軍は去りましたが、この後も松永久秀は単独で大和衆と戦いを続けていきます。

永禄12年(1569年)4月16日に片岡城、11月には貝吹山城を、永禄13年(1570年)3月27日に井戸城を攻略するなど、松永久秀は優勢に戦いを進めていました。反対に、大和衆たちの命運は風前の灯火となっていたのですが、その後、両者の立ち位置は逆転していくことになるのです…(◎_◎;)


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