10月2日、池田城を攻略した後、信長はいよいよ上洛を決意します(信長・義昭は京都に接近したものの、まだ京都内部には入っていない)。
信長・義昭にとって、晴れの舞台がやってこようとしていました…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇献金する信長、献金させる信長
織田信長は芥川在城中の10月8日に朝廷に献金を行っています。
『言継卿記』には、…織田信長、朝廷のお金が不足していることを聞き、1万疋(=100貫。現在の1200万円)をこの日の朝に献上する…とあります。
献金と言えば、信長が美濃を平定した際に、朝廷と次のようなやり取りがありました。
永禄10年(1567年)年11月9日に、信長のもとに正親町天皇からの綸旨が下されてきたのですが、そこには、
「この度国々本意に属す由、尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、いよいよ勝に乗ぜらるべきの条は勿論たり、なかんずく両国御料所且つ御目録を出さるるの条、厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、綸命かくの如し。これを悉(つく)せ、以て状す」
(美濃を平定したことは、その優れた武勇と、天道に思いが通じたことによるもので、古今無双の名将と言うべきである。この勢いのままに物事を進めていってほしいが、特に、尾張・美濃の御料所[天皇の直轄地]のことと、目録の内容の事を、抜かりなく実行してくれると、うれしく思う)
…とありました。
この中にある「目録の内容」とは何かというと、万里小路惟房の添え状にその内容が記されていて、そこには、誠仁親王の元服費・御所(内裏)の修理費…と書かれていました。
天皇の土地を回復して、そこから上がる税金を送ってほしい、親王の元服にかかる費用、御所の修理費用を出してほしい…と言っているわけですが、
要するに金が無いのですね(;^_^A
12月5日付の熱田神宮所蔵文書によると、信長は綸旨の内容を承知していたことがわかります。
信長からの献金があったためか、11月22日に御所の修理が行われています(『御湯殿上日記』)。
献金と言えば、信長の父の信秀も御所修理費用として4000貫(1000貫?)を献上した、ということを以前に触れましたね。
また、献金を行なったのは織田氏だけではなく、徳川家康・水野信元も行っていることが『言継卿記』からわかります。
11月10日条には、水野信元が先の「禁裏御法事」の際に2千疋(=20貫。現在の240万円)を献じたこと、徳川家康が9月の「禁裏御法事」の際に2万疋(=200貫。現在の2400万円)を献じたことが記されています。
さて、信長は朝廷に献金しながらも、一方では畿内の国々に対し献金を命じています(◎_◎;)
おそらく①幕府・朝廷関係で使うお金を得るため、②従うかどうかを確認するため、という2つの意味があったのでしょう。
まず大和国に対して命じた内容について見てみましょう。
10月6日には織田家臣の志水悪兵衛尉長次・奥村平六左衛門尉秀正・跡辺兵左衛門尉秀次・織田修理亮吉清の4名が、大和国法隆寺に対し、「家銭」として「銀子150枚」を「今日中」に納めるように命じています(タイミング的には、松永勢が筒井城を攻撃している時)(『法隆寺文書』)。
『多聞院日記』10月23日条には、…この度、上総(信長)は、奈良中に防御制札(乱妨・狼藉を防ぐために出される制札)を出す代わりに、「判銭」(保護をしてもらう側が納めるお金)を納めるように要求したが、その額があまりに「過分」であった、やめてほしい。およそ千貫あまりも命じられた。これからどうなってしまうのだろうか…と書かれています。
以前にも紹介しましたが、織田軍は『多聞院日記』10月14日条によれば、大和各地で放火を働いています。翌日にも各地で田畑の作物を無理やり刈り取る「苅田」を行っています。自分たちでやっておきながら、焼かれたくなければ、作物を刈り取られたくなければ金を出せ、というのは暴〇団そのものですね(;^_^A
10月29日条には、尾張衆の制札銭の内容が判明し、上は3貫200文、下は50文と、それぞれの経済状態に応じて銭を納めるようにと命令された、やめてほしいやめてほしい…と書かれています。
11月27日、法隆寺は何とか御金を工面して、課されたお金の一部を松永久秀に納めますが、松永家臣の竹内秀勝は、早く残りも納めること、1日でも遅れたら、そちらの寺が不利益を受けることになる、と返しています(『法隆寺文書』)。ヤ〇ザ…(◎_◎;)
法隆寺はその後、12月9日に600貫文を支払っています。これで完済したのでしょうか…。
続いて、大和国以外の場合について見てみましょう。
『細川両家記』などには、石山本願寺や堺に対して献金を命じたことが記されています。
石山本願寺について、『細川両家記』は、…裕福な寺には礼銭(幕府の祝い事の際に献上する祝い金)が課された。大坂(石山本願寺)は5千貫を出したそうである。…と記し、『足利季世記』には、…今回織田軍が摂津を平定する際に、国中で乱妨(略奪行為)が横行し、由緒のある建物なども破壊され、寺は宝物を奪い取られ、寺社で裕福なところに対しては夫銭が課されたが、このようなことは前代未聞であった。石山[今の大坂]本願寺からは5千貫を課して徴収した。…とあり、『総見記』は、…畿内で繁盛している場所・寺社に対して、公方家再興のための軍用金を差し出すように命じた。摂津の石山本願寺は一向宗の総本山でとても豊かであったので、五千貫を差し出すように命じた。住職の光佐上人(顕如)は公方家再興の軍用金であれば、渋るわけにはいかないと、すぐに五千貫を差し出した。後の大坂という所はこの石山の事である。…と書いています。
石山本願寺は抵抗することなく、5千貫(現在の6億円)を差し出したようです。この頃の石山本願寺は従順であったようで、翌年1月11日には、信長に新年の慶賀のために金の太刀1振・馬1頭を贈っています(『顕如上人御書札案留』)。
一方で、拒絶反応を示したのが摂津・和泉国(大阪府南西部)にまたがる都市・堺でした。
堺の地名は、『堺市史』に「摂津・和泉・河内三国の堺であった事から、その地名を生じた」とあるように、摂津・河内・和泉三国の境目にあった事に由来しているようです。
堺の地名の史料上の所見は、藤原定頼(995~1045年)の書いた『定頼集』中にある、「9月ばかり さか井と云所に、しほゆあみ におはしけるに…」であるようです(文中の「しほゆあみ」は「潮湯あみ」のことで、『堺市史』によれば、「海水を沸して温浴するもの」であったそうです)。
この頃の堺はまだ「漁家の点綴(てんてい。散らばって存在していること)される位に過ぎ」(『堺市史』)ず、まだ都市として発達はしていませんでした。
堺は次第に発展し、鎌倉時代末期の正中2年(1325年)には、最勝光院(後白河天皇が1171年に立てた寺院)の荘園、「堺荘」となります(『東寺百合文書』)。摂津側にある堺荘は「北荘」、和泉側にある堺荘は「南荘」と呼ばれたようです。
この堺が港湾都市として発達してくるのは室町時代に入ってからでした。
応永6年(1399年)、応永の乱を起こした大内義弘が堺に上陸し、堺に城を築いて籠城したことや、
応永17年(1410年)、薩摩国(鹿児島県西部)の守護、島津氏が上京する際に、和泉堺(南荘)に上陸、帰る時も堺を利用している(『島津国史』)ことからも、そのことがうかがえます。
堺が『総見記』に「大福祐の所」と書かれているように、大変に豊かな町になる契機となったのは、文明8年(1476年)、日明貿易の拠点が兵庫港から堺に移ったことでした。
それまで使用されていた兵庫港は応仁の乱により荒廃したため、堺が貿易港として利用されることになったのですね。
その後、16世紀中ごろに堺は三好長慶の勢力下に入りますが、三好長慶の堺に対する扱いは丁重なものがありました。何しろ、長慶は堺に父を弔うための菩提寺である南宗寺を建てているのです。『堺市史』にも、「由来堺は三好氏と関係深く…」とあります。
そのため、三好三人衆方が織田信長に敗れて四国に逃げ去っても、その復帰を信じて、織田信長の献金要求に従うことを潔しとしない者が多かったのです(◎_◎;)
この経緯は、諸書には次のように書かれています。
『細川両家記』…堺にも2万貫の矢銭(臨時の軍用金)が課されたが、堺はこれを承知せず、櫓をたて、堀を掘り、各所の入り口に樋を埋める(堀に竹槍を埋めたということか??)などしたため、矢銭の件は延期になったという。
『足利季世記』…堺には2万貫をかけて使いを送ったが、これに対し堺は承知しかねると返事したところ、それならば攻め取るまでだ、と返答があった。堺はこれに対して能登屋を大将として36人の会合衆の面々が団結し、櫓を立て、堀を掘り、北の各所の入り口には菱を埋めて防戦準備を整えたところ、使者は今は放っておくと言って帰っていった。
『総見記』…和泉の堺には、大変に豊かなところであったので、2万貫の軍用金を課した。堺は36人の庄官によって治められていたが、この者たちがこれを受け入れようとしなかったので、堺を攻めつぶそうとしたところ、堺は36人の内の能登屋・臙脂屋を大将として櫓を作り、堀を掘り、北口には菱をまいて防戦の用意をして待ち構えた。信長は大事の前の小事であるから、今は放置しよう、と言って堺を攻めることを延期した。
要求された2万貫というのは、石山本願寺に要求したものの4倍にあたり、現在で言うと24億円もの大金になります(◎_◎;)
それを支払えるだけの財力があると見なされていたのでしょうね。
堺は要求を拒否して、防衛態勢を整えていきますが、『細川両家記』は町の入り口に樋を埋めた、とあるのですが、『足利季世記』・『総見記』は菱を埋めた、としており、食い違っています。
『堺市史』には、「会合衆は協力して櫓を築き、濠(ほり)を深くし、北方の諸口には菱を蒔(ま)いて兵備を厳にした」とあり、後者の説を採用していますね(゜-゜)
『天王寺屋会記(宗及茶湯日記 宗及他会記)』の永禄12年の記録には、「去年10月比より堀をほり矢倉をあげ事の外用意共いたし候」と書かれており、
ここからは、①防衛態勢を整えたのが10月ごろであった事、②防衛のために堀をほり、櫓を築いた事がわかります。
樋を埋めた・菱をまいたと議論のある所が書かれていないのですが、それ以外は『細川両家記』などの史料の内容と一致します。
いつ書かれた物かわからないのですが、おそらくこの頃に書かれた書状があり、それには、
「織田上総介近日馳上り候、その聞候。そこもと御同心においては、双方示し合はせ領堺に出向き、これを防ぐべく候」
…と書かれています。
これは、堺の会合衆が、摂津国の平野荘の年寄(指導者)たちに宛てて送った物で、織田信長が近日中に攻めてくるので、平野荘の者たちも心を合わせて堺に赴き、織田軍の攻撃を共に防ごう、と呼びかけています。
結局、信長は堺に献金を強制したり、兵を出したりすることはしませんでした。
『総見記』には、…信長は大事の前の小事であるから、今は放置しよう、と言って堺を攻めることを延期した、と書かれていますが、堺に出兵し、助けに来た三好と戦争になることを避け、足利義昭の将軍宣下を優先した、ということなのでしょう。
三好勢は織田軍と本格的にぶつかることは無く、四国に撤退していったため、兵力は温存されていましたから、四国に逃げ込んだ三好は、まだ天下(畿内)の不安定要素となっており、堺の人々はまだ情勢は流動的で、三好の天下に戻ることもあると考えていました。
信長は畿内の平定(天下布武)のためにも、四国の三好勢を何とかして本州に引き込み、野戦で破る必要があったのです…!
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